旅の祈り
※前回までのあらすじ
アルゾは奈落に龍を突き落とすべく、旅を始めた。
龍は、アルゾに対して何の関心も見せず、反抗もしない。そして人間と同じように空腹を覚え、寒さにも弱い。今や、外見通りの少女でしかなかった。
龍は人間の敵……とはいえ、寒さに震える少女を放置もできず、アルゾは龍に食事を与え、毛布を貸し与えた。
翌朝。アルゾと龍は同時刻に目を覚まし、二度焼きしたパンで軽い食事をすると、旅の続きを始めました。龍は二度焼きのパンを食べたのも初めてのようで、ぱさぱさの食感に難儀していましたが、アルゾに水筒を渡されてなんとか飲み下しました。
龍の両手は、どうするのが正解でしょうか。アルゾは少し考えて、皮紐をほどくことに決めました。安全のためには縛ったままにするのがいいのでしょうが、龍の両手には紐で擦れた跡が付いていて、どこか痛々しく見えたのです。
二人はまた馬に乗り、街道に戻り、東へと進みました。
龍は街道の光景にも飽きたのか、馬のたてがみの上で頬杖をついています。
不意に、龍が声を上げました。
「おい、お前」
アルゾが返事をするまでには、少し間がありました。
「お前って、俺のことか?」
「そうだ。お前の他にお前はいないだろう?」
「なんだそりゃ」
「お前たち人間は山ほど沢山いて、誰が誰やらさっぱりわからん。ほんの十年ほどで姿かたちも考え方も変わってしまう。いちいち覚えておくのも面倒だから、人間はみんな『お前』と呼ぶことにしている」
アルゾは不快でした。漠然と、龍がアルゾを一人の人間として他と区別するつもりがないのだということがわかったのです。
「そうかよ。それで、何だ? 何がいいたい?」
「お前の話では、妾を東の果ての奈落に連れて行くということであったな?」
アルゾは何も答えません。龍は続けました。
「お前たちの計画が成功するとは妾には思えん。妾を王と呼び従う不死者どもが本気になれば、王子も賢者も、その部下の兵隊どもも、この道沿いの町や村の住人も、皆殺しじゃ」
「黙れ! こないだのパラメシアとかいう奴は、俺の弓矢でやっつけることができたぞ!」
アルゾが声を荒らげて反駁しても、龍は涼しい顔のままです。
「あれはパラメシアが遊んでおったからじゃ。あ奴が王子に向かって名乗りを上げたりせず、遠くから魔法を使っておれば瞬殺であっただろう。加えてパラメシアにはたくさんの妹がおる。いずれもパラメシアから血を与えられて眷属に加わった者どもじゃ。あ奴らが本気になったら、王国の一つくらい、たちまち消えてなくなろうぞ」
龍の言い分は正しそうに聞こえます。アルゾの不安が表情に出ると、龍は嬉しそうな顔をしました。口からは勝ち誇った笑い声さえ漏れています。
「お前もさすがにゾッとしたかえ? のう?」
「やかましい!」
アルゾは龍のこめかみを背後から握りこぶしで押さえ、両手でグリグリとねじりました。
「ぎえっ!? 何をするか?」
龍が悲鳴を上げて抗議しても、アルゾはやめません。故郷で弟や妹が何か悪戯をしたときには、こうやってお仕置きをしたものです。龍だろうとなんだろうと、人にこんな不快な話をする相手にはお仕置きして黙らせるのは当然だ。アルゾはそう思いました。
ぎゃあぎゃあと龍の泣く声が煩いのでしょうか。愛馬のサロが首を巡らせて、自分の背中に乗っている二人を一瞥します。アルゾは気が済んだのか、龍のこめかみから手を放しました。龍は涙目です。
「お前! 妾にこんなことをして済むと思っているのか! 昨日の粗末な餌の褒美として、お前は楽に死なせてやっていいのだぞ?」
「餌とかいうな。ごはんだろ、ご!は!ん!」
アルゾは次なるお仕置きとして龍のほっぺたを左右に引っ張ります。龍はくぐもった悲鳴を上げて、アルゾの両手をつかんで引きはがそうとしますが、彼女の非力な腕では無理なことでした。
「おのれ! お前など妾が本来の姿を取り戻した暁には消し炭にしてくれようぞ」
「やってみろ! 俺の弓矢で打ち落としてやるぜ!」
お互いに、実現する算段もつかないことを前提に、レベルの低い言い争いをしています。
そこに、ヒューっという口笛の音が聞こえます。
「お二人さん」
声の主は行商人らしき、荷物を背負った男です。男は自分の仕事仲間らしき数名の男を連れていて、彼らは一様に、口元にニヤニヤと笑みを浮かべていました。
「若いんだから盛るのはわかるけどさぁ、いちゃつくなら夜の宿屋にしておけよ!」
行商人たちは笑い声を残して、二人とは逆方向へ去っていきました。
アルゾは顔を真っ赤にしました。下品な笑い声が背中に突き刺さります。ここは街道なのですから、通行人に姿を見られるのは当たり前です。
「おい、まだ話は終わってないぞ! 妾が解放された暁に、お前に加える拷問を十ほど詳細に話して聞かせてやるから、とくと聞け!」
龍はまだ何かいっていますが、アルゾはサロに駆け足を命じました。早くこの場所から立ち去りたいのです。馬の体力は温存したいところですが、少し走るくらいなら問題ないでしょう。
龍は馬の背中で必死にしがみついています。何かいいたいのか、肩越しに振り返って口を開きますが、アルゾは構わず馬を走らせ続けました。
十里ほども駆けたでしょうか。アルゾは龍の様子がおかしいことに気が付きました。愛馬の速度を落として、声をかけます。
「おい、どうした?」
龍は何も答えずに、青い顔を向けます。見るからに気持ち悪そうです。
ある予感がして、アルゾは戦慄しました。乗馬の経験上、こういう顔をしている人を見たことがあるのです。確か、妹を馬に乗せた日の出来事だったでしょうか。
彼は短い悲鳴を上げます。
「おい、せめて降りろ! 降りてからやってくれ!」
アルゾの訴えも虚しく、龍は盛大に吐いてしまいました。鞍の上で。
「ああ、もう。ああ、もう」
アルゾは半泣きになりながら、鞍を洗いました。龍の吐瀉物は馬の鞍と、アルゾのコートと、龍自身のコートを綺麗さっぱり汚しています。
龍が胃の中のものをあらかた吐き出してしまったあと、アルゾはしばらく放心するしかありませんでした。そしてしばらくの間、世界のすべての不幸を背負ったような顔で、とぼとぼと馬を歩かせました。
しばらく街道沿いに進んだところで、小さな農家と井戸を見つけて、彼はそこで水をもらうことにしました。なにしろ吐瀉物まみれの二人は見るからに惨めで、農家の主である老夫婦はためらうことなく井戸を使うことを許してくれました。
アルゾは最初に龍の顔周りを洗って、口をゆすがせ、それが終わると馬の鞍を洗い始めました。
白いコートも気が済むほど洗いたいところですが、汚れた毛皮を洗うのは手間も時間もかかりすぎるので、表面の吐瀉物を拭って軽く水ぶきしておしまいです。
借りた物干し竿に洗いものを引っかけて、あとは乾くまで待たなければいけません。
やっと汚物の臭いから解放されたところで、老婆が現れました。彼女はシワだらけの顔に人懐っこそうな笑顔を浮かべています。
「あんたたち、夫婦かい?」
「いいえ」
アルゾは即答しました。その後に「冗談じゃない」とか「勘弁してください」という一言を付け加えたいところですが、妙な詮索をされて噂が流れると困ります。彼はひきつった笑いで、余計な一言を噛み殺しました。
「フウフとはなんじゃ?」
龍がまさしく余計な一言をつぶやきます。その口は、即座にアルゾの両手で塞がれました。
「こいつは僕の妹です。世間知らずな箱入り娘でして、変なことを口走るかもしれませんが、気にしないでください」
あまりにも下手糞な嘘ですが、老婆は怪訝な顔をした他には、これ以上の質問はしませんでした。彼女は思い出したように、こう切り出しました。
「もう日も傾いてくるころだし、あんたたちも全身ずぶ濡れだ。今夜はここに泊っていかないかい?」
いわれてみると、肌寒さを感じる頃合いです。本当ならもう少し進んでおきたいところですが、吐瀉物の始末には思いのほか時間がかかってしまいました。ここは好意に甘えておくべきでしょう。アルゾが了承すると、老婆は嬉しそうな顔をします。
アルゾと龍は農家の母屋に招かれました。それは日干し煉瓦を積み上げて作られた簡素な家で、老夫婦と同じくらいに年老いているようでした。
竃に火が入っていて、何かが煮炊きされています。家の中は温かく、今晩は寒さに悩まされることなく過ごせそうです。老人が粗末な木のテーブルに両手を乗せて、やはり粗末な木の椅子に座って待っていました。彼は若い客人に笑いかけ、旅人は大歓迎だと告げました。
アルゾは頭を下げて礼をいいます。その横で龍は腰に手を当ててふんぞり返っています。
アルゾは無言で龍の首根っこをつかみ、一緒に礼をさせました。老夫婦は何もいいませんでしたが、きっと変な兄妹だと思ったことでしょう。
その日の晩は、老夫婦に麦粥をふるまってもらいました。味付けは塩とわずかな野菜だけという質素な料理で、貧しい農家ではありふれた夕食といえます。温かい食事を暖かい部屋で食べられるということは幸運でしょう。味はともかくとして。
龍は粥を一口食べるなり「味がしない」と贅沢なことをいいましたが、すかさずアルゾが「温かい食べ物をありがとうございます」などと、無難なことをいって誤魔化しました。一言も美味しいとはいわないのは、彼が正直だからでしょう。
夕食が終わると、老人はアルゾに尋ねました。
「お前さんたち、どこに向かうのかね?」
「巡礼の旅の途中です」
アルゾはあらかじめ用意していた嘘を答えました。東にはいくつか巡礼の訪れる聖地があります。その地名を適当にいえば、あとは聞いた側が巡礼の目的を想像してくれるでしょう。
老夫婦の様子からすると、旅人を家に泊めるのはよくあることのようです。自分の土地からそうそう離れることができない農民にとって、他の土地の出来事を教えてくれる行商人や旅人は、格好の話し相手でもありました。老夫婦は東にある巡礼地と、その周辺の名所についての噂話をして、その話題も尽きると、先日の城塞都市の惨劇のことを尋ねてきました。多くの人が死んだので、街道に近い地域では噂になっていたのです。
「私達も若い時分には、あの街まで行商にいっていたことがあるのよ」と、懐かしむように老婆がいいます。
「龍に襲われたそうだね? でも、王様が龍退治をしてくださるという話もきくよ」老人がアルゾに話を振ります。
「ええ」アルゾは無難に回答することにします。「僕たちも直接見たわけではないんですが、そう聞きますね」
しかし龍は空気を読みませんでした。
「何をいっておるか。お前も見た通り、城塞都市を襲ったのはパラメシアという名前の不死者じゃ。妾ではない。それに、この国の王族ごときに妾が倒せるわけがなかろ」
「え?」
聞いた言葉の意味が分からず、老夫婦は顔を見合わせます。アルゾは有無をいわさず龍の口を塞ぐと「妹は妄想癖があるんです」と、白々しい愛想笑いを浮かべました。
龍はしばらく口をモゴモゴさせましたが、やがてアルゾの手を振り払います。
「なにをするか! 空の帝王たる妾が嘘をつくなどありえぬこと。邪魔だてするなら、お前に加える拷問の数をもう一つ増やして――」
威勢が良いのもここまでです。アルゾはテーブルの下に龍を引きずり込むと、その両握りこぶしを龍のこめかみにグッと押しました。たちまち龍は短い悲鳴とともに口を閉じました。
「いいな。これ以上変なこといったら、コレだからな」
「待っておれよ、お前に加えることになる拷問の数は、これで十二じゃ」
「何かいったか? よく聞こえなかったが」
「いいや、何もいっておらん」
二人はテーブルの影から顔を出し、椅子に座り直しました。龍は眉間と顎に深いシワを作っています。不穏な空気を感じたのでしょうか、老人が申し訳なさそうな声を上げます。
「事情はしらないが、人が死んだ話はしないほうがいいようだね」
「ええ、あの、そうしてくださると助かります!」
アルゾがこれみよがしに龍の頭をなでて取り繕いますが、もちろん龍の額の縦ジワは深くなるばかりで、仲の良い妹にはとても見えませんでした。
その夜は、古ぼけたベッドを一つ貸してもらい、アルゾと龍は屋根のある場所でゆっくりと眠りました。もちろん、眠る前にアルゾは龍の両手をふたたび縛っておきました。龍は夕食の一件以来、ぷりぷり頬を膨らませて怒っていましたが、今日も大きな抵抗はありません。
アルゾの背中に向かってつぶやく声が聞こえてきます。
「火炙り、逆さ磔、水責め、滑車責め……」
龍はどうやら知っている限りの拷問を並べているようです。よく見ると、指おり数えていますから、宣言したとおり十二の拷問をするには、これで足りるかどうかも確認しているようです。途中で同じ拷問を二回数えてしまい、計算が合わなくなっているのはご愛嬌です。
明日も早いのです。アルゾは古びた毛布を被って眠りにつきました。龍の拷問のことなど恐るに足りません。どうせ龍は、奈落に突き落とされる運命なのですから。それまで、旨いものを食べさせて懐柔しておけば扱いやすいことでしょう。
翌朝、アルゾと龍は、昨晩と同じ味のしない麦粥で朝食をとり、出立の支度を始めました。馬に荷物を乗せていると、そこに老夫婦が現れます。
「じゃあ、元気でね。また帰り道にでもよってちょうだい」
そういうと、老婆は麻袋を一つ手渡しました。中には数食分の大麦が入っています。アルゾは快くこの親切を受けることにしました。
「ありがとうございます。いただきます」
「気をつけて行きなさい」老人が進み出て、古くから伝わる旅人の無事を祈る言葉を唱えます。「汝の進む道が黒き翼の影に脅かされぬことを」
最後の言葉は、老婆も一緒に吟じていました。
街道を進んでしばらくたったころ、龍はふと思い出してアルゾに尋ねました。
「お前、さっきの老人どもの言葉だが、あれはどういう意味なのだ?」
「あれって? なんのことだよ」
「道が黒い翼に驚かされるとかなんとか」
「あ、あれか」アルゾは龍と目をあわせずに答えました。「あれは、進んだ先に龍がいませんように、という意味だ」
「ん? つまり妾に見つかったらイヤという祈りなのか?」
アルゾは愛馬に拍車をかけました。二人を乗せたサロは短くいななき、朝の街道を駆けてゆきました。