黒い獣(後編)
まずは一頭を仕留めました。
龍が驚きを込めて嘆息するのが聞こえます。
残った一頭は着地して、再び追撃の態勢に入っていますか。しかし一頭だけであれば、もはや連携しての攻撃はありえません。
このまま弓矢で牽制していけば、逃げ切ることもできるのではないか?
アルゾの脳裏に、そんな都合のいい展開が浮かびます。
しかし、アルゾが正面を向いて、眼前に広がる光景が何なのかに気がついたとき、そんな甘い期待は打ち砕かれました。
街道は丘陵地帯を抜けて視界が開けます。そして、馬ならほんの数分ほどの距離に立ち塞がるのは、河です。
地図で一度確認した覚えがあるのですが、すっかり失念していました。この河には橋がかかっていないのです。馬で渡るには渡し船を見つけるか、さもなければ泳ぐしかありません。
もちろん、それを獣が見逃してくれるはずがありません。
アルゾは手綱をとり、サロを大きく左へ方向転換させました。河が渡れないなら、河原を進むしかありません。わずかながら速度が落ち、黒の獣が距離を縮めてきます。河原はぬかるみ、サロの足が取られます。
また獣が跳躍し、牙を剥きました。これもまたアルゾは矢を放って迎撃しますが、やはり獣は空中で態勢を変えて避けます。もう矢は半分しか残っていません。
次でケリをつける。
このまま持久戦にされてはアルゾが不利です。獣が攻撃の態勢に入り、跳躍して着地するまでの時間で撃てる矢は、全力で三本。この三本で、黒の獣を仕留める。アルゾはそう決意して、三本の矢を手に取ります。
サロを再び大きく左に旋回させると、半円に近い軌道になります。獣はサロの動きに追随して、円の内側を走ります。行き先を遮るつもりなのです。
アルゾは獣の顎の下の辺りを狙い、一つ目の矢を放ちます。獣はそれを真正面に跳躍して回避します。獣の牙が咆哮とともに開きます。アルゾの首めがけて巨体が宙を舞います。
――しかし、先の一発目は誘いでした。アルゾはわざと矢を外し、獣が跳躍したくなる瞬間を作ったのです。
次の矢を放つ直前に、アルゾは弓の構えを素早く切り替えて横に倒しました。そして二本の矢を同時に弦にかけ、同時に放ちます。
一本は獣の顔のやや右寄りに、もう一本は獣の左側の何もない空間に向けて。
獣は顔面に飛んできた矢を避けるために、左に身体をひねります。そして、左側に放たれた矢の軌道に飛び込んでしまいます。
何か柔らかいものが潰れる音がして、獣はどうと音を立てて地面に転がりました。矢は、獣の片目を貫いていました。
獣は何度か放たれた矢を空中で回避してみせましたが、すべて同じ軌道で、アルゾから見て左側へと身体をそらしていました。その動きを読むのは、経験豊かな狩人であるアルゾにとって難しいことではありませんでした。
アルゾはサロに停止を命じました。すっかり空は暗くなっています。夜の冷たい風が汗で濡れた肌を冷やし、アルゾは身震いをします。
「信じられん」龍が目を丸くして獣を見下ろします。「こいつ一頭で、武装した人間の兵士を十人ほど相手にできるというのに、お前はそれを二頭も仕留めおった」
「俺にかかれば、こんなもんだ」とアルゾが答えます。龍はプッと吹き出しました。
「声が震えておるではないか? 相当恐ろしかったようじゃの?」
「うるさい! こんなバケモノ、怖いに決まってるだろ?」
アルゾは身体の震えを止めることができませんでした。戦いの緊張が解けた今になって、恐怖が蘇ってきたのです。ほんとうに、こんな怪物に勝てたのは奇跡と呼ぶべきでしょう。とてもとても、現実に起きたとは思えないほどの――。
不意に、獣が太いうめき声を上げました。全身をぶるぶると震わせて、身体を起こします。その片目には矢が突き刺さったままで、鮮血が顔面をだらだらと流れ落ちています。残った片目は、激しい怒りをたたえてアルゾを睨みつけています。
「胸をなでおろすには、ちぃと早かったようじゃの」
龍の言葉が、どこか遠くに聞こえました。
アルゾは我に返るや、拍車をいれてサロを走らせます。重い足音と荒い呼吸音を響かせて、獣が追ってきます。
アルゾは残り少ない矢筒から一本の矢を取り出します。指が震えて定まらず、取り落としそうになります。いつもなら無意識のうちに正しく動いている身体が、恐怖でいうことを聞いてくれません。唇を歯で噛み、痛みで恐怖を殺して矢を取り直すと、彼は背後に向けて弓を引き、狙いを定めようとしました。
ところが、獣は跳躍する兆しがありません。代わりに、低い低い、しわがれた悲鳴のような声を上げて、口を大きく開きました。硫黄の臭いが濃度を増していきます。
「馬の方向を変えろ!」龍が叫びます。
「なんだって⁉」
アルゾが正面に顔を向けると、すぐ目の前に上下逆さの龍の顔があり、アゴを彼女のおでこにぶつけそうになります。龍は上半身を仰け反らせて、アルゾの耳元で大声を出します。
「避けるのじゃ。こいつ、奥の手を使うつもりじゃ!」
本当なのか? 罠ではないのか?
アルゾは疑います。しかし龍の目は嘘を吐いているように見えません。
彼は手綱を取り直して、サロを右周りに走らせます。その直後、獣の口から赤い炎が吐き出されました。
チリチリという音がして、異臭が鼻を突きます。龍の黒髪が少し焦げてしまったのです。
「なんだこれ!」
アルゾは悲鳴のような声を上げます。
「見ての通り、火の息じゃ。妾ほどの強さも荘厳さもないが、こいつも炎の息を使える」
龍が教えてくれます。フン、と面白くなさそうな声で、彼女は続けました。
「この獣めは、すっかり頭に血が上っておる。妾もろともお前を焼き殺すつもりじゃろう。羽鬼もそうじゃったが、下等な魔物はこれだから困る」
今まで獣が炎の息を使わなかったのは、龍に怪我をさせないためということでしょう。しかし、苦痛のゆえか恐怖のゆえか、獣は今や正気を失って見境なく炎で焼き尽くそうとしています。
アルゾは弓を構え直して再び獣に狙いを定めます。残った矢は三本しかありません。
獣が距離を詰めてきます。
やがて、炎の息の射程にサロを捉えたのでしょうか。例の、悲鳴のような声が聞こえてきます。炎の息の前兆です。
牙で襲ってきたときと違って、もう獣は必要以上に距離を詰めてはきません。アルゾは獣が炎を吐く瞬間を狙って、狙撃することにします。
声が一段と高くなったかと思うと、獣の牙の合間から、なにやら油のようなものがほとばしり出ます。あの液体が着火されれば、炎の息になるのです。獣が大きく口を開き、喉をあらわにします。
今だ!
矢が放たれ、電撃のように、獣の喉を目がけて飛翔します。しかし、次の瞬間、獣が吹き出す炎の奔流が、またたく間に矢を焼き、弾き飛ばしてしまいます。
反射的に、アルゾは愛馬に、進路を変えるように指示します。すぐにサロは大きく旋回して、炎を回避します。しかし――
「うわっちち!」
アルゾは狼狽しました。コートに赤い火が燃え移り、広がっています。彼はそれを脱ぎ捨てようとしますが、袖から腕が抜けません。しばらくもがいて、やっと袖が外れた拍子に、鐙から足が抜けて落馬してしまいます。もちろん、龍と、犬も巻き添えです。
アルゾの身体は河原のぬかるんだ地面に叩きつけられます。柔らかい泥は彼の身体を容赦なく汚しましたが、代わりに落下の衝撃を和らげてくれました。
一方、龍の身体も、地面に小さな跡をつけてバウンドしました。彼女はどうせ死んでも生き返るので、ひとまず犬をしっかり抱いて守っています。
痛みと混乱から、アルゾがやっとのことで顔を上げると、黒の獣が見下ろしていました。赤い一つ目が大きく見開かれ、ふっと細くなります。
笑っているのです。
獣は、再びあの低い悲鳴のような声を上げます。
ぐるぐる、ごろごろ。
これは空気と可燃性の油を喉の奥で混ぜ合わせている音なのだと、アルゾは悟ります。
アルゾの左手には、まだ弓が握られています。右手は武器を探して矢筒の中を這いまわり、一本の矢を見つけます。
しかし弓と矢があったからといって、どうすればいいのでしょう? 弱点の頭を狙っても、炎で弾かれてしまうのです。
絶望的な思いで、彼は矢をつがえます。獣の口から、ちろちろと炎が吹き出しています。
そのとき。
「肺を撃て!」
誰かが叫びました。龍です。龍がアルゾに向かって叫んでいるのです。
肺? 獣の肺! 獣は炎の息を吐き出すために、肺に大量の空気をため込んでいます。胸が大きく膨らんでいるのが見て取れます。
アルゾは獣の胸を覆う筋肉が薄く張りつめていることに気が付くと、すぐに矢の狙いを獣の左の肺に定めて、放ちました。それは獣が炎を噴き出すのと同時でした。
矢はやすやすと肺を貫通します。小さな穴から、逆流した空気と油が漏れ出て、そこに獣の炎が引火しました。何が起きたのか、獣には理解できませんでした。獣の黒い身体は炎に包まれ、長い絶叫とともにのたうち回り、やがて動かなくなりました。
何が起きたのか理解できないのはアルゾも同じでした。獣の亡骸は赤々と燃えています。彼は弓を握り締めたまま、茫然とその光景を眺めています。
「ふん」と、毒づく声とともに、龍がアルゾの傍らに立ちました。その胸には白い犬が抱かれていて、短い尻尾を振っています。
龍は、獣の身体に蹴りを入れるように足を振りました。
「妾の髪を焦がした罰じゃ。いい気味じゃ」
その言葉は、アルゾを助けた理由のように聞こえました。
しかし、そもそも龍は不死身なのですから、一行が皆殺しになったとしても、龍だけは助かるのです。髪を焼いた獣を処罰したければ、龍の山に戻ってからゆっくり考えればいいのです。龍がアルゾを助ける必要はどこにもありません。
龍が何を考えているのか、アルゾにはわかりません。
「そら、とっとと立て」
龍が手を差し出します。アルゾは何かをいいかけて、言葉を飲み込み、ただ、龍の小さな手をとって立ちました。
背後からサロが姿を見せて、アルゾに鼻の先をこすりつけてきました。アルゾはサロの首を抱いて無事を喜びます。
アルゾも龍も泥まみれです。とはいえ、この戦いはさしたる犠牲もなく勝つことができたといっていいでしょう。
もう時間は夜です。河を渡るのは明日にして、今日はこの近くで野宿になるでしょう。
一行が河原を歩き始めたとき、背後で何者かが砂利を踏みました。
その音に気付いて、アルゾは背後を振り返ります。そして、声を上げることもなく昏倒しました。
「うん? どうしたのじゃ?」
龍は驚いて声をかけます。しかしアルゾからは反応がありません。人間は、石ころが一つ頭に当たっただけで死んでしまうくらいに、とても脆い生き物です。龍はそれを思い出して、急に心配になってきます。ひょっとすると、今になって落馬の怪我が効いてきたかもしれません。
「おい、お前、大丈夫か?」
龍はアルゾの傍らに戻って肩を揺さぶります。犬も地面に降りて心配そうに鳴きました。
そこに、柔らかい女性の声が投げかけられました。
「術で眠らせておきました。主様」
龍が顔を上げると、暗がりの中に誰かが立っています。
赤い派手な服装と、長い三つ編みの金髪。赤い瞳。その不死者は、笑顔を浮かべて進み出ると、龍の前に跪きました。
「驚きました。今までずっと馬車とその護衛ばかりを探していましたが、主様はこんなところにいらしたのですね?」
「お前は……確かクラリモンドといったかな?」
龍が記憶をたぐってそういうと、不死者クラリモンドは笑顔を綻ばせました。
「名前を覚えていただいて光栄です。主様」
「いったいどうやって、妾を見つけたのだ?」
「私めは、多くの魔物どもを配下に従えております。羽鬼も、黒の獣もそうです。羽鬼どもが人間を襲って返り討ちにあったと報告して参りましたので、その人間を探しておりました」
クラリモンドは得意満面です。他の妹やパラメシアを出し抜いたのが嬉しいのでしょうか。
「羽鬼を殺した人間の男は、一人の黒髪の女を連れているとも報告がありました。その黒髪の女というのが気になっていたのですが、やはり、主様だったのですね?」
「それで、獣を放ったのだな?」
「左様でございます。それらしき人間を見つけたら、男だけ殺すように命じて、複数の街道に待ち伏せさせたのです。そのうち一組が、ふたたび返り討ちにあったと知り、ここへ参上いたしました」
足元に伸びているアルゾを睨みつけ、クラリモンドは、壊れかけの玩具を見下ろすような目で、残忍な笑みを浮かべます。龍は猛烈に不快な感情を抱きました。
「さあ、主様。一緒に我らの宮殿に戻りましょう。お姉さ……いや、丞相も喜ぶでしょう。そこの人間は宮殿の闘技場で、獣の生き餌にでもしてやりましょう」
「いらぬ世話じゃ」
クラリモンドが差し出した手を、龍は払いのけました。
「主様?」
「今は助けはいらぬ。妾は囚われているのではなく、こやつらで遊んでおるのじゃ。暇つぶしを楽しんでおるだけじゃ」
「それは……主様、お待ちください。もうここは辺境なのですよ? 奈落が近いのです。ルーダリアの王子が用意した囮の馬車は、すでに多くを潰しましたが、まだ王子本人と賢者は生き残っているのです。もう遊んでいる余裕は……」
「妾がいらぬといっている」
龍は強い口調でクラリモンドを拒絶すると、自分の黒髪を見せつけます。長い髪の端は、獣の炎のせいで焦げてちりちりになっています。龍は怒りのこもった声で続けます。
「この髪を見よ。お前が放った黒の獣のせいで、こんな有様になってしもうたわ。この始末はどうつける?」
「そんな! 主様、今のお姿は賢者の魔法によるかりそめの姿ではありませんか! 術を解いてしまえば、元の偉大な黒き龍のお姿に戻ります! 髪など気にすることは……」
「誰がお前の意見を求めたか。妾はこの姿を面白いと思っておる。楽しみを邪魔するでない。これ以上、妾の邪魔をするなら、あとでパラメシアめにお前の不始末を報告するぞ」
クラリモンドは絶句するしかありません。パラメシアの不興を買うということは、不死者にとって破滅を意味します。この三つ編みの不死者が、姉や妹たちに連絡をせずに自分一人で龍に会いにきたのは、彼女の独断です。龍を救い、龍からの感謝が得られれば、宮殿での立場が良くなると考えたのです。
しかし、こんなに龍が怒り出してしまうことは予想外でした。
「主様、お赦しを! お赦しください」
クラリモンドは平身低頭して赦しを請います。それは哀れな姿で、龍は先ほどの自分の言葉を少しだけ後悔しました。
「もうよい。下がれ。また迎えにくるのじゃ。今回の無礼は不問とするし、妾も忘れる。ここでの話は、今はまだパラメシアには報告するな」
「ははっ、ありがとうございます」
クラリモンドは足早に下がり、また、闇の中へと姿を消しました。きっと龍の気が変わるのを恐れたのでしょう。
不死者が去ったのを確認したあと、ふと見ると、アルゾはのんきな顔で寝ています。龍はなんとなく腹が立って、彼の鼻を指でつまみました。
「あー、お前! お・ま・え! いつまで寝ておるか。さっさと起きろ!」
耳元で龍が大声を出します。そうしてやっと、アルゾは飛び起きました。
「んあっ? もう朝か?」
「ちがーう!」
「何だこれ、俺なんで地面で寝てたんだ?」
「獣めを倒したあと、いきなり倒れたのじゃ。きっと気が緩んだ拍子に睡魔に負けたのじゃ」
「ええっと、そうか、すると何をしようとしてたんだっけ」
「野宿の準備であろう。旨いものを食わせるといっておったぞ。妾もそろそろまた腹が減ってきたゆえ、早々に準備せい」
「そんなこといったか?」
「いった。いったのじゃ。いってないなら、いったことにせい。ともかく何か食わせろ」
「わかったわかった」
アルゾはまだ霞がかかったようになっている頭を振り振り、立ち上がります。
お昼はさんざん食べたから、お腹に優しい粥にしようか。チーズを買っておいたから、チーズ粥でもしようか。
彼がそんなことを考えながら、ふと空を見ると、満月に少し足りない大きさの月が彼らを見下ろしています。流れ行く河の水が夜空を逆さに写し輝き、せせらぎの優しい音が静かに空気を震わせています。
「きれいだな」
光と音の織り成すさまに感じて、アルゾはつぶやきました。
龍はアルゾの肩越しに月を見上げます。
そうして、世界がこんなに美しいということに、初めて気が付きました。龍は手を伸ばし指を伸ばし、アルゾの左手に触れます。二人の指は絡み合って、なかなかほどけませんでした。