黒い獣(前編)
街道は、丘陵と林の隙間を縫うように続いていました。街道と一口でいっても、旅の最初の頃とはすっかり様変わりしてます。
道の幅は狭くなり、大きな石や水たまりがしばしば進路を塞ぎ、雑草に覆われてどこが道なのかわからない場所まであります。王都や、城塞都市のような大規模な都市から離れてしまえば、流通網も貧弱になっていくのです。
その上、このあたりは地形と木々のせいで視界もよくありません。
アルゾは時折周囲に目を配って、誰かがこっちを狙っていないかを確認しました。何がどう、というわけではないのですが、なんだか誰かがこちらを見張っているような、そんな違和感が拭えないのです。街からはだいぶ離れてしまいましたし、盗賊が暗がりから突然弓矢で襲ってくるという可能性だってあります。
意を決して、アルゾは龍と犬をサロの背中に乗せました。自分も鞍にまたがります。
「馬を走らせなら、ゆっくりな。また妾が吐いたら困るじゃろ?」
龍が半分は脅すように、残り半分は嘆願するように、そういいます。もちろん、アルゾは疾駆けは避けるつもりでした。これは龍のためというより、サロと自分のためです。アルゾもあまり激しい運動は避けたいのでした。
しばらく走るうちに、日は傾き、陽光が衰え始めます。
午前中進んだ分も含めて、今日一日で行程はだいぶ進んでいます。奈落の手前の、王子と約束した合流点までたどり着くには、あと二日というところでしょうか。
計算をしているうちに、不快な感情がアルゾの中で再び頭をもたげます。この旅の中で、彼はあまりにも多くの時間と苦楽を、龍と共有してしまいました。だから、あと数日の後に龍が滅ぼされるかもしれないという事実は、彼の胃袋を締め付けます。
何か、今の龍の力と姿を、固定して戻さない方法があればいいのですが。
そんなことを考えていると、不意に犬が咆哮しました。
今まで龍の懐で大人しくしていた犬が、急に唸り声を出し、虚空に向かって吠えています。
「うるさい。妾の食後の昼寝を邪魔するでない!」
龍は犬の口を押さえて閉じさせようとします。しかし犬はその指を振り払ってなお、吠え続けています。
何か変です。誰かがこの先で待ち伏せをしているのかもしれません。アルゾは弓を手にして、矢筒を探ります。森の小屋で調達できた矢は十二本だけです。敵が何であれ、これで足りる相手であることを祈ります。
「おい、走るぞ」
龍の返事を待たず、アルゾは拍車をかけます。サロが疾駆けを始めました。本調子ではないとはいえ、少しの間なら全力で走らせても大丈夫でしょう。
曲がりくねる街道の先に、低木の茂みがあり、そこで何かが動きました。アルゾは矢をとり、動きのあった場所から何が飛び出してきたとしても即座に射殺せるように構えました――
そして、背後の気配に気が付きます。
上半身をひねり、矢をつがえたまま振り返れば、大きく口を開けた黒い獣が眼前にいます。
アルゾは即座に矢を放ちますが、至近距離から放たれたその矢を、獣は空中で身体を回転させて避けてしまいます。牙がアルゾの左頬をかすめ、獣は地面に着地するや、馬を追ってきます。
ふと気づいて、アルゾが前方に頭を返すと、先ほど狙いを定めていた茂みからも、同じような姿の黒い獣が飛び出してきて、こちらはサロの喉元を狙っているようでした。アルゾは手綱を片手で操り、サロの進路を変えることで、その攻撃をかわします。
二匹の黒い獣は、身体は虎のようで、頭は犬のように見えます。小柄な馬ほどの大きさの、しなやかで筋肉質な肉体を、光沢のある黒い毛皮が覆っています。ツンと鼻を突く嫌な臭いがしますが、これは硫黄のようです。赤い、感情のない瞳がアルゾを見つめています。
直接見るのはアルゾにとって初めてのことですが、これは地獄の犬とか、あるいは単純に黒の獣などと呼ばれる魔獣のようです。
獰猛で素早く、仲間と組んで連携するだけの知能を持つ、恐るべき相手です。
かつて、ルーダリアの前王朝が龍の山を攻めたとき、集団で現れて多数の兵士たちを喰い殺したという話が伝わっています。龍の山付近でしか目撃されていないはずですが、なぜこんなところにいるのでしょうか?
二頭の黒の獣は、地面を蹴って土と草を跳ね上げながらサロを追ってきます。みるみる距離を詰められていく様を見て、アルゾは汗がドッと全身から吹き出すのを感じます。
彼は矢を二本手に取り、弓を弾き絞って攻撃のチャンスをうかがいました。しかし獣たちはただ闇雲に突っ込んでくるのではなく、不規則に左右に軌道を変えながら走っています。これでは狙いを定めるのも至難の業です。
鋭い牙を最大の武器とする獣は、攻撃してくる瞬間が弱点ともなります。自分の急所である頭部を敵の正面に晒すことになるからです。アルゾはそれを待ちました。
それは、ほんのわずかな動きでした。黒い獣たちは、瞬きをする程の時間だけ、お互いに目くばせしました。
くる。二つ同時にくる。
アルゾは全ての神経を集中して、獣たちの頭部に狙いを定めます。
二頭の獣たちが、ほぼ同時に、アルゾの左右を挟みこむように跳躍し、牙をむきました。
アルゾの矢が続けざまに二本放たれ、まずは一匹の額、そしてもう一頭の口めがけて飛翔します。狙いは正確でした。普通の獣であれば、その二本の矢で同時に仕留められていたでしょう。
しかし、獣たちは最初に矢を撃たれた時のように、空中で体をひねって軌道を変えてしまいます。矢は獣の頬をかすめ、あるいは耳を貫きましたが、致命傷になっていません。獣は着地し、ほんの数呼吸の間、速度を落としただけで、また追跡してきます。
獣は二頭だけです。しかし、羽鬼の集団など比べ物にならないほどの驚異です。わずかな判断の間違いが致命傷になりかねません。
「分が悪いようじゃの」龍がつぶやきます。彼女は鞍にしがみついて、激しい揺れに耐えています。「あれは強いぞ。お前では勝てないであろうな」
その口調は、アルゾの窮地を楽しむ、という感じではありません。
森の小屋で過ごした日から、龍の態度はまた変化しています。アルゾはそのことを不思議に思いましたが、かといって問い詰める気にもなりません。
「勝てなくていい。逃げ切れればいいんだ」
そう強がりをいったものの、アルゾは生きた心地がしません。着地に隙があるとはいえ、獣たちはサロを上回る速さで跳躍できるのです。その上、肝心のサロも頼れません。
道は緩やかな上り坂にさしかかります。正面に目を移すと、上り坂はやがて頂点に達して、そこから下り坂が始まるようでした。
次に獣が仕掛けてくるとすれば、下り坂に入った瞬間でしょう。そこが、跳躍でもっとも遠くまで攻撃できるからです。
アルゾは再び矢を二本手に取って、背後を振り向きつつ弓を引きます。やはり黒の獣は仕掛けてきました。大きく跳躍し、中空からアルゾの首を狙って一頭の獣が――!
一頭?
一頭だけ⁉
もう一頭はどこにいった?
直感にしたがって、アルゾは足でサロの脇腹を撫でます。これは蛇行しろという合図です。
眼前を跳ぶ獣は無視です。これはただのフェイントです。踏み込みが甘く、牙も爪も、どうやってもアルゾに届かない空間を跳躍しているのです。
アルゾが弓を絞ったまま、視線を下に向けると、もう一頭の獣が地を這うように走っています。今までサロの臀部が視界の妨げとなって見えなかったのです。その牙はサロの後ろ脚を狙っています。
アルゾの矢は、地を走る獣の鼻の先を狙って二本放たれました。一つは外れ、もう一本は獣の顔面を上から貫通します。獣は顔から地面に激突し、縦に回転しながら坂を転落していきます。