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優しい朝、遠い記憶

 何か暖かいものが頬に触れて、アルゾは目を覚まします。暗がりの中に薄っすらと室内の様子が浮かんできます。家畜たちと、人の匂い。それに加工した革の匂いがします。懐かしい故郷の香りです。

 家族のテントには窓と呼べるものはなく、唯一、天井に空いている、煮炊きの煙を外に出すための穴が、採光窓を兼ねています。その穴も今はボロ布で塞がれていて、朝も昼も薄暗い毎日が続いています。


 愛犬のパルカがアルゾの頬に身を()り寄せています。この毛深く茶色い犬は、年老いてはいましたが、大切な狩りの相棒でした。冬の寒さの中アルゾが凍えずに済んでいるのも、この犬のお陰なのです。パルカを挟んだ反対側には、オズレムが寝息を立てています。アルゾと同じ赤い髪をした、可愛い妹です。二人と一匹で同じ毛布にくるまり、寒さをしのぐのが彼らの冬の過ごし方でした。


 母親と、もっと幼い弟のハリルは別の毛布にくるまって、少し離れた場所で横になっています。寝息が聞こえますから、まだ夢の中でしょう。

 アルゾは手を伸ばしてパルカの頬を撫でます。パルカは目を細めて主人に応えます。今日も無事に朝を迎えることができました。

 パルカが鼻を鳴らし、その音で目を覚ましたのでしょうか、オズレムが短くグズる声を出します。


「にぃちゃん」オズレムの声は眠たそうで、元気がありません。「にぃちゃん、おはよ」

「おはよう、オズレム。まだ寝てていいんだぞ」

「お腹空いたね」

「腹が減ったな。うん、腹が減った」

 今年の冬は長く厳しく、保存食として山ほど用意したはずの腸詰めも干し肉も、とっくに尽きています。大切に守らなければならないはずの家畜たちも、生き延びるために一匹また一匹と屠殺して、もう数えるほどしか残っていません。事情は他のケシュの家でも同じことで、今や、村の住民の中にもポツポツと死者が出ています。

 オズレムの頬を撫でると、頬骨が浮いていることがわかります。最後にまともな食事を取ったのは、いつのことだったでしょうか。

「親父が戻るまでの辛抱だ。親父は今、イデンキさんたちと一緒に狩りに行ってる。きっと猪か鹿の肉が食べられるぞ」

 アルゾは妹を元気づけようと無駄に明るく振る舞います。一家の父親は、ケシュの他の狩人たちと組み、遠くまで狩りに出ていました。村の近くの狩場からは動物の姿が消えていて、もう何も獲物が見つかりません。

「猪だったら焼肉かな? 石の上でじっくり焼いたのが美味しいよね」

 肉や野菜は石焼きにするのがケシュのやり方です。以前に食べた猪肉のことを思い出して、アルゾも頬を緩ませます。

 オズレムの声は不自然なほど楽しそうです。アルゾが妹を元気づけたいと思うように、オズレムもアルゾに元気を出してほしいのです。

「鹿肉だったら、鍋にしようか」

 アルゾがそういうと、オズレムも首を振って同意します。狩りで大物を仕留めたときは、周辺の村人と一緒に調理をして、野外で宴会になるのが通例でした。普段は使わない大鍋で、たくさんの野菜と肉をまとめて煮込んで、分け合って食べるのです。

 二人の話題は、去年の宴会での出来事から、近所の酒飲みのおじさんのことや、同い年の子どもたちの中で弓矢が一番うまいのは誰かという話に進みます。

「ちょっと、静かにしておくれ」

 二人の会話は、母親の声で遮られました。

 いつの間に起きていたのでしょうか。母親が毛布から顔を出して険しい表情を見せています。

「ハリルが起きちゃうじゃないか。もうちょっと声を小さくして、ね」

 二人は、眠っている小さな弟の顔を毛布越しにのぞき見て、小さく「ごめんなさい」と声を揃えました。

 そういえば、そろそろ朝の見回りの時間でした。アルゾは毛布からもぞもぞと出て、身支度を始めます。

「アルゾ、見回りに行くなら(まき)をついでに拾ってきておくれ」

 母親が声をかけます。

「にいちゃん、行っちゃうの?」 

 オズレムは不安そうな顔をします。

「パルカと一緒に待ってな。すぐ戻ってくるから」

 アルゾが妹の髪をくしゃくしゃにして撫でると、パルカが一緒になってその頬を舐め回します。あはは、と明るい笑い声がオズレムの口から漏れて、アルゾは安心します。パルカがいれば、家のことは任せておけます。彼は弓を手に取り、馬用のテントへと向かいます。

 飢えているのは、近隣の他の村の住人たちも同じことです。こんな食料の乏しい時期は、よそ者が家畜を奪いにくることを恐れなければいけません。加えて、同じ村の住人であっても、決して気を許してはいけません。もはや誰にも食べ物を分け合う余裕などなく――飢えは、人の心を荒廃させるのです。

 アルゾはサロの背中にまたがると、静かに荒野を進みました。愛馬もすっかり痩せてしまっていて、背中に触れるとごつごつとした骨の感触が指に伝わってきます。

 もうすぐ春がくる。その日までの辛抱だ。アルゾは自分を励ますように、そう思いました。

 彼の父と狩り仲間たちが、なんの獲物もなく戻ってきたのは、その翌日のことでした――。


 どれくらい時間がたったのでしょうか。

 龍が目を覚ましたとき、すでに日は傾き始めていました。窓から入り込んでくる陽光が、部屋の埃をオレンジ色に照らしています。

 龍は瓶の水を一すくい飲んで喉を(うるお)すと、アルゾの様子を見に行きました。気配を察したのでしょうか、毛布の中から犬が顔をのぞかせて、くんくんと鼻を鳴らします。

「しぃーっ」と、龍は犬の口に指を当てて、静かにするように促します。

「もう少し、コイツを眠らせておけ。起きておると面倒じゃ」

 犬をひょいと担ぎ上げると、犬はあいさつ代わりに龍の顔を舐め回します。龍はたまらずくすぐったそうな笑い声を漏らしました。

 そのとき毛布の中から、寝ぼけた声がして、アルゾが顔を出しました。

「生きておったか。しぶとい奴め」

 龍が忌々しそうな顔をします。アルゾは、自分がどこにいるのかわからないという風に周囲を見渡して、ノロノロと上半身を起こしました。

「オズレム、パルカ、おはよう……」

「なんじゃ、それは。人の名前か? (わらわ)に勝手に変な名前を付けるな」

 アルゾは焦点の定まらない瞳で目の前の人物をまじまじと見ます。そうして、白い犬を抱き上げている龍の姿を認めて、ハッと驚きます。

「龍? お前は龍じゃないか。それと犬も」

「やっと気が付いたか。頭が毒で腐りかかっておるのではないか?」

 アルゾには龍の悪態が聞こえません。彼はまた毛布を頭から被って身体を横たえました。


 彼は考えないようにしてきたことを、記憶の果てに追いやろうとしていたものを、思い出してしまいました。あの無慈悲な冬の出来事を。

 狩りも失敗に終わり、後がないことを悟ったアルゾの父は、決断しました。残っている家畜をこれ以上減らすわけにもいかず、生活の糧である馬を捨てることもできず、となれば、最後に食べる物は、犬しかなかったのです。

 もちろんアルゾも、オズレムも抵抗しました。幼少期からの大切な家族を食べるなんて、考えるのも嫌でした。

 しかし、そうしなければ彼らが死ぬしかないのです。既に老いているパルカは遅かれ早かれ狩りの友としても役に立たなくなるのです。犠牲にできる家畜は、もはや、その老犬しかいません。

 父と母は悲しそうな顔で子供たちを抱き、パルカを撫でました。

 それから、父は肉切り包丁を手にして、パルカを連れて外に出ました。

 その後に起きたことを、アルゾはよく覚えていません。ただ、何も見たくなくて、何も聞きたくなくて、目を閉じ、耳をふさいで、悲鳴を上げていたような気がします。

 一家の悲劇はこれでは終わりませんでした。

 パルカを犠牲にしたというのに、オズレムは生きて春の日を迎えることができませんでした。愛犬を失ってから、アルゾの妹は目に見えて衰えてゆきました。そうしてある朝、毛布の中で冷たくなっていたのです。

 葬式をするような元気は、家族の誰にもありません。アルゾはサロの背に妹の亡骸とパルカの骨を乗せて、荒れ地の向こうへと走りました。やがて川の(ほとり)にたどり着くと、そこに一人と一匹を埋めました。その川は、かつてアルゾがオズレムを馬に乗せてあげたときに、遊んだ場所だったのです。

 やがて遅すぎる春がやってきて、荒野には再び草木が生い茂り、地平線まで続く草原となりました。

 しかしもはや、その美しい風景もアルゾにとって慰めになりませんでした。どこに行っても、かつての楽しかった思い出が彼を(さいな)むのです。

 かつて妹と愛犬を優しく包んでいた毛布に、彼は独りでした――

 ルーダリアの兵隊になりたい。

 アルゾがそう父に相談したのは、間もなくのことでした。


「お前、また寝るのか? 水は飲まんでいいのかえ?」

 アルゾは毛布にくるまってぐちゃぐちゃに身悶えしていて、龍は困惑します。

「この有様では、お前はもう一晩ここで眠るしかないようじゃな。鎖で繋がれている(わらわ)もそうじゃ」

 そこに、横から犬が一声吠えます。

「ああ、お前もいるのじゃな」

 犬の横にしゃがんで、龍はよしよしと、その頭を撫でてやります。ついでなので、犬のほっぺたを引っ張って変な顔にして笑ったり、両耳を指の間に挟んで弄んでみたりといった、恐ろしい虐待をしてみます。犬が困惑気味の鳴き声を上げて、それは龍を大いに楽しませました。

 ごきげんに笑いつつ、ふと、龍は腹具合を思い出しました。それで、アルゾに秘密を聞き出すような声で(たず)ねます。

「お前、何か食うものはないのか? 実はこっそり肉か魚か、あるいは麦でもいいから、隠している食べ物があるとか、そうだったら、今のうちに出しておいたほうがいいぞ」

 その龍の言葉にアルゾが反応するまで、だいぶ長い時間がかかりました。 

「なぁ、これ、お前! 食べ物はないかと聞いておる」

 龍は白くて細い足を伸ばし、その指先で、毛布越しにアルゾを小突きます。毛布の塊がゆっくりと起き上がり、アルゾが顔を出しました。

「おい、食べ物……」と、そこで龍は言葉を失います。

 アルゾが涙を流していることに気がついたからです。

「おい、おいお前、どうした? 指で蹴られたのがそんなに痛かったのか?」

「違う。違うから気にするな」アルゾは毛布を床に投げ捨てて、龍の頭を撫でました。龍は、自分を人間の子供のように扱うこの行為を怒るべきでしたが、アルゾの涙に驚いていたので、それどころではありませんでした。

「食べ物……何か食べないとな」

 そうはいったものの、アルゾにあてはありません。リュックに残った食べ物といったら、パンくずが指の先ほどとか、麦が数粒とか、そんなところでしょう。

 彼はキッチンの棚や引き出しを片っ端から調べて、蓋のついた木の容器を見つけます。

 蓋を開けて見ると、ツンとする刺激臭が鼻をつきます。後ろで龍が鼻をくんくんと鳴らしていました。

「なんじゃそれは? あまり旨そうな(にお)いではないな」

「これは……ハーブだよ。お茶につかうヤツだ」

 乾燥させたハーブの塊が容器の中で転がります。ちょっと湿気っているのが気になりますが、害はなさそうです。

「茶とは何じゃ?」

「飲んで見ればわかるさ。とりあえず今晩はお茶を飲んで、腹の虫を誤魔化そう」


 アルゾは早速火を起こしにかかります。もう毒は大分抜けたようで、ちょっと身体の感覚がふわふわしている他は元気です。小鍋に沸かしたお湯にハーブを十枚ほど投入し、しばらく待ちます。

「この葉っぱを食べるというのか?」

 ハーブはお湯の中でゆっくりと舞っています。それをじいっと見ている龍の目つきは、不審な物体を見るかのようです。

「違う。葉っぱから煮出した汁を飲むんだよ」

 テーブルにスープ用の木の食器を2つ置いて、アルゾはそこに、小鍋のお湯を数回に分けて流し込みます。清涼感のある(にお)いが漂って、キッチンを満たしていきます。

 龍はちょっと驚いたような顔をしていて、アルゾは得意げな気分になります。

 そういえば、去年のことだったでしょうか。アルゾは王都で商人の家にご馳走になったことがありました。そこで食後に出されたのが一杯のハーブティーで、アルゾは物珍しさからお茶の(にお)いをクンクンと犬のように嗅いで、商人から笑われてしまいました。きっと、あれは田舎者そのものの姿だったでしょう。

 その田舎者のような顔と仕草を、すぐ目の前で龍が繰り広げているので、アルゾは笑いを堪えるのに苦労しました。

「これは、スープとかいうのとはまた違うのか」

「味というより香りを楽しむものらしいぞ」

 アルゾはそういって、器の一つから、ずずっ、と小さな音を立ててお茶を飲みます。行儀が悪いと思うのですが、音がしないと何かを飲んだ気分にならないのです。

 一方、龍の方も恐る恐る器を手に取ると、青緑色に変色したお湯をまじまじと見て、意を決して口をつけます。行儀がいいとか悪いという考えはないので、ずっ、ずっと盛大に音を立てて飲み進めます。

 器の七割ほどを一気に空けて、口を離すと、龍は微妙な表情を浮かべました。そして旨いとも不味いともいわず、ただ「変な飲み物じゃ」と一言。

 アルゾはお茶を吹き出しそうになるのを堪えて、代わりに含み笑いを浮かべます。龍が口を尖らせて(にら)みつけると、アルゾは「ただのお湯を飲むよりはマシだろ?」と、なだめました。

「それはそうじゃが、水やお湯で腹を膨らませるのは、カエルにでもやらせておけばいいのじゃ。(わらわ)はやはり、何か歯ごたえのあるもので腹を満たしたい」

「肉とかか?」

「肉もいい。魚もいい。お前が昨日の晩に食べさせた卵とかいうものも悪くない。味のない麦粥だってお湯よりはマシじゃ」

 ちびちびと、龍は残ったお茶で唇を濡らしています。

「ま、これも良い(にお)いがするから悪くはない。何か食べた後か、食べる前に飲むには良いのかもしれぬな」

 龍の言葉を聞きながら、アルゾは自分のお茶をゆっくりと喉の奥に流し込みました。

 いつのまにやら夜も更けて、キッチンはすっかり暗くなっています。少し寒くなってきたかもしれません。

 欠伸をして、のびをして、龍は暗闇の中でつぶやきました。

「腹が減ったのう」

「腹が減ったな。うん、腹が減った」アルゾは毛布を拾って身体に巻き付けます。「明日は朝早くにここを出て、どこかの街で食べ物を手に入れよう。まだ銀貨はたっぷりあるんだ」

「そうか! よし、では(わらわ)に何か良いものを食わせろよ」

「ああ、腹がいっぱいになるまで、色んなものを食べようぜ」

 明日に楽しみが待っていると思えば、声も弾みます。二人は美味しい食べ物のことを思い浮かべて眠りにつきました。


 夜の帳が森を包んでいます。

 獣たちも眠りにつき、風の音もなく、ただ虫の声がするばかりです。天空にさしかかった月の光が、木の葉と枝の隙間から漏れ落ちて、森の小道を照らしています。

 そこに、何者かが足を踏み入れました。細い、女性の人影が、長い三つ編みの髪を揺らして、小道を歩いています。足の運びは早く、道に迷ったわけではないようです。その人影は、羽鬼の死骸の傍らで足を止めて、刺さったままの矢と、道に刻まれた(ひづめ)の跡を調べます。

 女性は薄く笑みを浮かべると、森の小道の行方を見やりました。


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