龍の山
その世界の中心には、一つの巨大な山がありました。
呼び名は定まっていません。たくさんの国々がそれぞれ違う名前で呼んでいるからです。
ある国は死の山。
その隣の国は黒い山。
その向かいの国は影の山……というふうに。
しかしどの国も、簡潔で不吉な名前を付けていることは共通でした。
とある王国では、その山をこう呼んでいました。「龍の山」と。
世界の始まりから在ったという黒い龍が、根城とする山。
龍の力に憧れた不死と不浄のものどもが集う山。
気まぐれに人を襲い、蹂躙し、数しれぬ勇者と王者を飲み込んできた、闇の王国。
すべての定命の者たちにとって恐怖の地であったのです。
山の地下深くに広がる闇の深奥で、龍は巨体を横たえていました。
不死者たちは、付近の王国を襲っては奴隷を集め、その地に壮麗な宮殿を築きました。龍はその中心に座していましたが、少しも嬉しそうではありませんでした。
龍の眼前には、観客席を備えた巨大なコロシアムがあります。そこでは時おり、奴隷同士の剣闘試合や演劇が開かれていました。不死者たちは、奴隷が生き残りをかけて殺し合う姿を見世物として楽しみ、あるいは演劇に興じ、美食に舌鼓を打っていました。
しかし龍はそれらの出し物を少しも面白いとは思いませんでした。
龍は悠久の時を生き、不死者たちには王と呼ばれていましたが、実のところ、自分を崇める不死者にも、人間にも、さしたる興味はもっていなかったのです。
「我が主。我が王よ」
闇の中に響く声があり、一人の不死者が現れました。不死者の女王であるパラメシアです。千年ほど昔、この地で眠り続けていた龍を見つけ、自らの王国の主として迎えた女性です。見た目は二十代後半ごろの人間に近いのですが、その実、龍と彼女のどちらが年上なのか、本人たちにもわかりません。
パラメシアは赤い瞳を輝かせ、龍に語りかけます。
「退屈なされているようですね。また、演劇でも開催いたしましょうか?」
龍は何も答えません。
「それでは、奴隷と獣を戦わせましょうか? 先日、恐れ多くも主様を害そうと宮殿に足を踏み入れた人間どもを捕らえております。奴らをどのように痛めつけて殺し、食ってやろうかと、我が妹たちが知恵を絞っております。予定を早めて、巨獣の餌としてやりましょうか?」
龍はあくびをします。
パラメシアが困ったように首をかしげます。思いつくかぎりの娯楽と美食を用意して献上しても、龍が関心を示すことは滅多にないのです。
「それでは、主よ――」と、パラメシアが口を開きかけると、背後から一つの声がします。
「お姉さま」
そう言いながら駆けてきたのは、パラメシアの妹の一人、ファルトです。両手で水晶球を抱えています。
パラメシアは顔をしかめました。
「主様の前で、お姉さまと呼ぶな。丞相と呼べといっただろう?」
パラメシア本人は、龍は王で自分はその忠実な部下で第一人者。そういう認識だったのです。龍がそれを肯定したことはないのですが。
ファルトは出鼻をくじかれて、泣きそうな顔をしましたが、気を取り直すと、水晶球をパラメシアと龍に見えるように差し出しました。
パラメシアの妹たちは、それぞれ何らかの特技を持っています。水晶玉を用いた千里眼をファルトは得意としていました。龍の山を敵視する者は数多く、それを監視するのがファルトの役目です。
「ルーダリア王国をご存知でしょうか?」
「ルーダリア? 五十年ほど前に滅ぼしたのではなかったかな?」と、パラメシアは答えます。彼女の知るルーダリアは、かつて、周辺の国々を糾合して、大軍隊を龍の山に送り込んできた人間の王国です。
そのときは龍に出撃を請い、まずは大軍の大半を炎の息で焼き払ってもらいました。その残りは、不死者たちで皆殺しとして、数日でケリを付けてしまいました。
「滅ぼしましたが、その生き残りたちが同じ名前の王国を作ったのです」
ファルトが姉の知識の穴を塞ぎます。
「それで、その死に損ないどもの王国がどうしたというのだ?」
「また、我が主を害する計画を立てているようなのです」
「またか。懲りない奴らだな」
「水晶球をご覧ください。ルーダリアの王と貴族どもが、こんな話をしていました」
ファルトが低い声で魔法の言葉をつぶやくと、水晶球の中に映像が映し出されました。
石造りの壁に囲まれた部屋で、沢山の男たちが騒いでいます。
どれも貴族の服装をしていて、唯一、王冠を付けて玉座に座っている男がいます。これが恐らく王。他は家臣の貴族なのでしょう。
「王よ、お考え直しください。あの龍を倒すなど、前王朝と同じ轍を踏むだけです」
家臣の一人が怯えた声でそう言います。他の家臣たちも無言でうなずいています。
みんな龍が怖いのです。
「我が忠実なる家臣たちよ。もはや、龍は無敵ではないとわかったのだ。詳しい話は、賢者が教えてくれる」
王が言いながら、自分の両横に立っている二人の男に目配せします。二人のうちの一人、藍色のローブをかぶり、メガネをかけた壮年の男が進み出ました。
「なんだこの男は?」
映像を見ていたパラメシアがいぶかしげな声を出します。
「王宮付きの魔法使いです。他の者からは賢者などと呼ばれているようです。姉さま」と、ファルトが答えます。
賢者は家臣たちに、一冊の魔法の書を見せました。
「かつてこの世界には、かの地の黒き龍に匹敵する存在が全部で三体いたといわれます。しかしそのニ体はもうこの世界にいません。古の偉大なる魔導士が、魔法をもちいて倒したからです。その呪文を、私は発見しました」
「龍を倒す呪文ですと?」
家臣の一人が興奮気味に賢者の言葉を反復します。
「そうです。私は諸国を旅して、龍を倒す方法を調べ続けてきました。そうして、西の果てにある古代の遺跡で、この魔法を手に入れました」
ざわめきが部屋を満たします。それは、期待と不安が入り交じる種類のものでした。
王の横にいたもう一人の男が、進み出ます。若くて端正で、王によく似た顔立ちの男です。彼は両手を広げて、家臣たちに訴えかけました。
「我らは先の王朝が滅ぼされてより今日まで、龍に怯え、隠れるように生きてきた。たとえ国民が龍の山のおぞましい不死者どもの餌食になろうと、ただ耐え忍んできた。だがその時代はもうすぐ終わるのだ」
「こいつは何だ? 王より偉そうだな」
パラメシアがそう質問するとファルトが即座に答えます。
「第一王子のロムルスです」
家臣の一人が疑念と希望を顔に浮かべて、問いかけます。
「王子よ。賢者よ。本当にあの黒い龍を倒せるというのですか?」
「できます。古の魔導師の記録に従うなら、この魔法で龍を無力化できるでしょう」賢者は自信に満ちた声で答えました。「ただし、この魔法は、術者の目で見える範囲にしか効果がありません。したがって、かの龍をおびき出す必要があります」
「それは、つまり……」質問した家臣が、賢者の次の言葉を察して、ゴクリと喉を鳴らします。はたして、賢者の言葉は予想どおりのものでした。
「まずは、軍団を用いて龍の山を攻撃し、龍が我らに反撃しようと姿を見せたところで、私がこの呪文を使うのです。これで龍を倒すことができるでしょう」
「バカな!」と、何人かの主だった家臣たちが恐怖を顔に浮かべて立ち上がります。
「先制攻撃を受けてしまえば、我々が壊滅することに変わりがないではないか! 前王朝の軍隊がどんな目にあったか知らないわけではないだろう!」
「龍が炎を吐き出しただけで十万の戦士団の半分が壊滅したと聞く」
「時の大賢者が用いた冷気の壁も、大僧正が祈りを捧げて得た神の加護も、龍の炎には無力だった」
彼らは口々に、過去に龍に立ち向かった人々の悲惨な最期を語ります。
賢者はなだめますが、彼らの恐慌を抑えることはできません。
「静まれ!」と王が一喝して、やっと家臣たちは口を閉じ、一人、二人とひざまずきます。
王子は宣言します。
「あの龍を倒すのだ。さもなくば、我らは屠殺される時を震えながら待つ羊も同然に過ぎない。作戦はこれから立案するが、一番危険な先陣は、私が自ら軍を率いて行くであろう。諸君らは、私を支援してくれればいい。周辺の同盟国にも使者を送り、加勢を募っている。龍を倒せば、我らは百年先、千年先までも、子々孫々に武勇を誇ることができる。どうか、諸君らの命を、私に預けてほしい」
そうして、王子が自分の剣を足元に置き、家臣たちに向かって膝をついて頭を垂れると、さすがの家臣たちも慌てふためきます。王族が家臣に向かって懇願することなど、そうそうあることではないのです。
水晶球の映像が途絶えたあと、ファルトは真剣な顔をします。
「姉さま、この者どもは、きっとこの山を襲撃に来るでしょう。それも大勢で、です。今のうちに、準備を整えるべきではないでしょうか。そうは思いませんか、姉さま!」
「龍を倒す魔法とは、気になるな」
パラメシアは、そうつぶやきつつ、ファルトの首根っこをつかみ、吊るし上げました。
ファルトは悲鳴を上げますが、パラメシアは容赦せず締め上げます。ファルトが不死者でなければ、とっくに首を折られて死んでいるでしょう。
「古代の遺跡から見つけた呪文となれば、無視するわけにもいかぬ。その時代にいたはずの龍族が、どうして滅びたのか。その答えが、古代にはあるはずなのだ」
「離して! 離して姉さま! 痛いよ!」
パラメシアは予告もなく手を放し、ファルトは地面に叩きつけられます。
「お前は他の妹たちに招集をかけろ。集まり次第、ルーダリアに攻撃を仕掛ける。奴らが軍を起こす前に、叩き潰してくれる」
「姉さま、痛いです」
ファルトが恨みがましい目で見上げると、パラメシアは冷酷な目で見下ろしています。
「主様の前で、私を姉さまと呼ぶなといったはずだ。興が削がれるだろうが」
ファルトは怯え、小さな声で返事をします。
パラメシアは龍の前でいつも何かを演じています。今は龍の第一の家臣、昔は龍の第一の信奉者、その前は龍の第一の友でした。その時々の設定に合わせて、妹たちには完璧な演技を要求しました。それを崩されて素の呼び方をされることを、彼女はとても嫌っていました。
そんな茶番を見て、当の龍はまた一つあくびをしました。そして、巨体を起こし、四枚の羽を広げました。羽ばたくたびに空気が風となり、暴風となり、宮殿を吹き抜けてゆきます。
龍の異変に、パラメシアは問います。
「我が主よ。いかがなさいましたか?」
龍は答えます。
『この者どもに興味がわいた』
口を動かすことなく、ただ龍は考えただけで自分の意思を伝えることができます。割れ鐘のような心の声の力が、パラメシアとファルトの頭蓋を揺さぶります。彼女らは、思わず自分の頭を押えました。
『この者どもが希望としている、龍をも倒せると称する魔法。この目で確かめてみよう』
龍は偉大な力を持ちますが、傲慢でした。そして、とても退屈していました。
暴風は龍の巨体を持ち上げ、宙に浮きあがらせます。
「主よ」パラメシアは大声を出しました。「件の魔法が古のものであるとすれば危険です。本当に、過去に龍を倒したことがあるのかもしれません。ここは私めにお任せを」
しかし、その声は龍の羽の音にかき消されてしまいました。
龍は宮殿の上に広がる空洞へ飛び、山の頂にある火口から、外へと出ました。
夜の冷たい空気が龍の身体を洗います。細長い月の光が、闇色の龍を蒼く照らしています。龍は久しぶりの刺激に身震いしました。
龍にとって人間の抵抗は娯楽の種でした。剣を手にした英雄や、魔術を操る魔法使いが、龍を倒すべく立ち向かってくることは、過去何度もありました。そうした人間たちは、龍が本気で戦うとすぐに死んでしまいます。だから龍はわざと力を絞ってゆっくりいたぶったあと、飽きたら炎で焼き払うのです。
最近は、パラメシアと彼女の妹たちがそういった人間を倒してしまうので、龍は密かに不満でした。
龍を倒せる魔法とやらに、龍は興味がありました。肩透かしかもしれませんし、本当に強力な魔法かもしれません。一度は自分の目で見てみたいと思いました。しかし、龍が直接王国に行かずにおけば、その楽しみを不死者たちに奪われてしまうかもしれません。それは我慢がなりませんでした。
龍は羽で夜の空気をいっぱいに受け止めて、ルーダリア王国へと向かいました。