雨宮家①
『ただいま……』
家に帰るなり俺は自室のベッドに倒れ込む。
疲れがまるで取れない。
肉体的な疲労も強いが、それ以上に精神的な負担が大きい。
(無駄に怒鳴りやがって……あんなわけわかんねぇ指示出したお前の責任だろうが……)
下っ端として上司に理不尽に叱られる日々。
同期には追い越され、部下には並ばれる。
(才能ないなぁ……仕事辞めたいなぁ……)
俺はコンビニ弁当を買うついでに取ってきた就職情報誌をめくり、すぐに放り投げた。
転職活動をする気力もない。
何より俺なんかが今よりいいところに就職できるなんて思えない。
(明日も早いし……こんなことしてないで、飯食ってねよう……眠い……)
布団の魔力に抗えず、俺は何もかもどうでもよくなってそのまま目を閉じようとした。
『……はは……きゃは…………っ!!』
窓の外から聞きなれた笑い声が聞こえて、どきりと心臓が跳ね上がる。
脳裏にフラッシュバックするのはかつての……とても可愛く優しかった新妻の姿だ。
(あれ? 何か変だなぁ?)
僅かに違和感を感じながらも、俺は深呼吸して心を落ち着けると窓を開いた。
『きゃはは……あぁ、史郎さんおっかえりぃっ!!』
窓の向こうでは制服の上にエプロンを着用した新妻がいた。
綺麗に切りそろえた黒髪をたなびかせて、幸せそうに微笑んでいる。
(ああ、そっか……俺は直美と結婚して……)
『なぁに、興奮しちゃったぁ? 史郎さんならいつでも相手してあげるよぉ?』
窓から上体を乗り出し、俺に顔を近づける直美。
だから俺はそんな無防備な直美の唇をそっと奪った。
(ああ、久しぶりぃ……もっとこうして……)
「起きなさぁいっ!! いつまで寝てるのぉおおおおっ!!」
「うぉっ!?」
現実の直美に大声で叫ばれて、強引に意識を覚醒させられる。
どうやら夢を見ていたようだ。
在りし日の懐かしい……四年ほど前の直美と好きなだけイチャつけたころの夢。
「ほらほら、早く起きてご飯食べて仕事行くのっ!!」
「……あ、あのさぁ直美ぃ……」
「ん? 何か文句でもあるのぉっ!?」
「い、いや久しぶりにおはようのキスを……」
あんな夢を見たばかりだからか、久しぶりにキスしたくなってしまった。
しかし直美は頬を膨らませて露骨に不機嫌そうな顔をした。
「あのねぇ……さっきからゆきな達がお腹空かせて待ってるのぉっ!! そんなのは後回しっ!! ほら急いでぇっ!!」
「わ、わかったから引っ張らないでぇっ!!」
直美に引きずられるようにベッドから連れ出され、居間へと移動する。
するとすぐにベビーベッドの傍にいた幼い女の子……雨宮ゆきながこちらに気づきちまちまと可愛らしい足取りで近づいてきた。
「ああパパだぁ~、おはようございますぅ……」
「お、おはようゆきな……まだご飯食べてなかったのか?」
食卓の上を見れば誰の食事もまだ片付いていなかった。
「だってぇ……ごはんはみんなでいっしょにだよぉ……そうだよねもりゆき?」
「うぅ……マンマァ……」
ゆきながベビーベッドに笑いかけると、一歳になったばかりの男の子……雨宮守幸も涙目でだが返事をして……お腹が減ったことを主張していた。
「お腹減ってるよね、ごめんね守幸ぃ~……面倒見ててくれたのね、ありがとうゆきな……ママいつも助かってるよ」
「だって、わたしもぅさんさいだもん……よーちえんにもはいったんだからこれぐらいできちゃうんだからぁ~」
「お利口さんだなぁゆきなは……偉い偉い」
「えへへ~、パパぁもっとナデナデしてぇ~」
とても可愛らしく微笑むゆきな……しかしその見た目は生みの親である亜紀とはまるで違う。
絹のような光沢を持った美しい金髪に陶器のように白く輝く肌、それは恐らく父親の血を色濃く引いてしまった結果なのだろう。
(親の目からすると天使みたいに可愛いけど……幼稚園とかで苛められたりしてないかなぁ……)
小さいうちは人と違う点を持つ子は、どうしてもちょっかいを出されやすいものだ。
だから心配で仕方がない……元々身体が強いほうではない上に、優しすぎて人と争える様な性格もしていないからなおさらだ。
お陰でどうしても庇護欲が強くなり、今もだが気が付いたら抱き上げてしまう。
「よしよし、良い子良い子」
「ゆきないいこだよぉ~、えへへ~もっともっとぉ~」
「パパっ!! いつまでもゆきなと遊んでないのっ!! ゆきなも早く食べないと幼稚園のバスに間に合わなくなっちゃうんだからねっ!!」
「はぁい……パパごはんたべよ?」
「分かったよぉゆきなぁ……直美も食べるだろ?」
ゆきなを子供用の椅子に座らせてから直美のほうを振り返ると、ちょうど守幸に授乳させるため上着をはだけているところだった。
そして抱きかかえられた守幸は、自然な動作で直美の胸に口をつけて吸い始めた。
「よぉしよし、たくさん飲みなさいよぉ……パパ達は先に食べて……パパぁ……その目はなぁに?」
「……いや、別に……」
(パパがそれを出来るようになるまでにとても時間がかかったのに……ずるいやずるいや……)
最近全然できていない行為を当たり前のようにする血を分けた我が息子が羨ましくて仕方がない。
何せ今は普段よりサイズが大きい上に色々と味わえるのだから。
(未だに俺なんか数回しか飲ませてもらってないのにぃ……)
尤も息子相手に嫉妬しているわけじゃない……むしろ微笑ましいとも思っていて、口元なんかは意図せず緩んでしまう。
「パパぁ……ごはんさめちゃうよぉ?」
「あ、ああ……ごめんごめん」
「全くぅ……困った人ぉ……」
ゆきなに諭されてようやく食事に戻った俺を見て、直美は呆れたような呟きを漏らす。
尤も朝の時間がない中で朝食を作りながらも子供二人の面倒を見ている直美には感謝すれども文句など言えるはずもない。
すっかり小さくなりながら俺は食事を平らげていく。
「ふぅ、御馳走様でした……今日も美味しかったよ直美」
「はい、お粗末様……ゆきなも食べ終わったら幼稚園のお仕度しなさいね」
「はぁい……うん、ごちそうさまでした」
ぺこりと頭を下げるゆきな、物凄く可愛くてまたしても気が付いたら抱き上げてしまっていた。
「パパが抱っこして洗面所とお部屋まで連れてってあげるからねぇ」
「わぁいっ!! パパだいすきぃ~っ!!」
「もぉ、すぐに甘やかすんだからぁ……むぅ……」
今度は直美が俺に抱っこされたゆきなを羨まし気に見つめている……けれどこっちも口元は緩んでいて本気でゆきなを妬んでいるわけじゃないとはっきりわかる。
何だかんだで俺も直美も子供たちが好きすぎてたまらないのだ……できればその上で妻とも従来のように愛し合いたいが、これがなかなか難しい。
(……やっぱり守幸がもう少し大きくなるまで我慢かなぁ……まあ仕方ないけどさぁ……)
少し不満を抱くが、俺の腕の中で幸せそうに微笑むゆきなを……直美の腕の中で幸せそうに眼を閉じる守幸を見ればそれだけでどうでもよくなってしまう。
それどころか直美が隣で微笑んでくれていた頃のように、もっともっと頑張ろうという気持ちになれるのだ。
洗面所で二人並んで歯を磨き、そのままお部屋まで言ってお着替えさせる。
「ゆきなはしっかり者だねぇ、もう全部一人で出来ちゃうだねぇ」
「だってぇ、ゆきなはおねえちゃんなんだもんっ!!」
とても自慢げに答えるゆきな。
(この歳で下の子ができたら嫉妬とかするかもって心配だったけど……本当に良い子だなぁ……)
どうも弟ができたことが本当に嬉しいようで、暇があればいつでもゆきなは弟の面倒を率先して見てくれている。
守幸もまだ一歳だというのにそんな姉に懐いているようで、どんなに愚図っていてもゆきなが近づくとかなりの確率で泣き止むのだ。
だからついついゆきなに色々とお任せしてしまい、ちょっと申し訳ないぐらいだ。
「パパ、そろそろお仕事の時間っ!! ゆきなもお着替え出来た?」
「できたよぉ~、どうママゆきなかわいい?」
「可愛い可愛い……ママちゅぅしちゃうからっ!!」
「やぁん、ママくすぐったいよぉ~」
さっとゆきなを抱き上げてほっぺにキスする直美……俺もしたい。
「よ、よぉしパパもゆきなとママにキスを……」
「じゃあもりゆきにあいさつしてくるねぇ~」
タタッと駆け抜けていくゆきな……キスし損ねてしまった。
「うぅ……じゃ、じゃあせめてママだけでもぉ……」
「全くパパは今日は特に甘えんぼさんだねぇ……困った人ぉ……」
そう言いながらも子供二人の目が無くなった隙を待っていたのか、直美も微笑みながらそっと近づき……キスしてくれた。
文字通り夢にまで見た久しぶりの直美の唇は柔らかくて、俺はいつまでもこうしていたいと思ってしまう。
「……はいしゅぅりょぉ~、この続きは……また今度ね?」
「今夜は……期待していいのかなぁ?」
「さぁねぇ……あの二人次第だしぃ……それより本当に仕事遅刻しちゃうわよぉ~」
「うおっ!? ほ、本当だぁっ!?」
直美に言われて時計を見ると確かに俺もゆきなもギリギリだ。
慌てて部屋を飛び出しゆきなが居るであろうベビーベッドへ向かう。
「じゃあおねえちゃんはいってくるからね~」
「ねえね……ねえね……」
「ほらおててはなして、またかえってきたらちゅうしてあげるからね」
(い、今なんかチュウって……ほっぺたかおでこだよなぁ……いや子供がやることだから気にしても……)
「パパ、いこうよ」
「あ、ああ……」
いつの間にか俺の足元に近づき、ズボンのすそを引っ張っていたゆきな。
一瞬その姿が初めて会った時の直美と重なって見えた。
だけど全く違う……とても健康的で幸せそうな笑顔を浮かべていた。
「……行こうかゆきな」
「うんっ!!」
抱き上げて一緒に出ようと玄関に向かうと、挨拶をするために待っていた直美がこちらに幸せそうな笑顔を向けてくる。
(ここまで……色んなことがあったよなぁ……)
今日に至るまでの過去を思い出し、そして今こうして幸せそうに笑えている事実に嬉しくなる。
「行ってらっしゃい、今日も頑張ってね……史郎さん」
「ああ、行ってくるよ……直美」
俺もまた直美に笑顔で挨拶すると、ゆきなを連れて勢いよく家を飛び出していくのだった。
「……そぉだパパぁ……つぎはあきおばあちゃんのところにいついくのぉ?」
「うーん、もう少し先かなぁ……」
「そっかぁ……ゆきなね、こんどはいっしょにおりがみさんやるってやくそくしてるの……たのしみだなぁ」




