『霧島』②
「どぉ? お家の鍵合いそう?」
「多分変える余裕はなかったと思うけど……ほら開いた」
処分していなかった鍵を使って、俺は霧島亜紀に譲り渡した元自宅へとお邪魔していた。
あいつの入院に際して何か私物があれば届けてやろうというのと……一つだけ確認したいことがあったからだ。
「引っ越してからまだ二カ月ぐらいだよねぇ……でもなんかすっごく懐かしい気がするぅ」
「俺もだよ……ずっと暮らしてたからなぁ」
何せ三十年以上もの間、俺はここで暮らしてきたのだ。
今もふと油断したらただいまと口にしてしまいそうだ。
「さてさて、中はどうなってぇ……うわっ!?」
「……良く短期間でこれだけ汚せるもんだ」
ドアを開けて廊下を覗き込んだだけで、あちこちに服やらゴミやらが錯乱している。
一体どれだけ自堕落な生活を送っていたのだろうか。
(しかもこの臭い……生ゴミだけじゃないなぁ)
長年住んできた家が汚されているのを見ると、何やら無性に腹が立ってくる。
しかし怒ったところでどうしようもない、大体一度渡した以上どう使おうがあいつの勝手なのだから。
俺は感情を堪えながら奥へと進んでいく。
「あぁ……こんなにゴミ溜めてぇ……しかもお弁当の容器がこんなにぃ……自炊とか全然してないのかなぁ?」
「せっかく調理器具も最低限残しておいたのになぁ……」
「全くぅ……っ!? し、史郎さんここの床こんな焦げ跡ついてたっけっ!?」
「いや、なかったよ……あいつボヤまで起こしてたのかよ……」
何だか物凄く呆れてしまう。
(こんなんでどうやって生活していく気だったんだよあいつは……この調子だとやっぱりあの件は……)
少し嫌な想像をしてしまいそうになり、頭を振って一旦考えを打ち切った。
そのまま手分けして目的の物を探そうとあちこちを探して回るが、目ぼしい物は何も見つからなかった。
尤も見つからなくて当然、あれば良いなぁぐらいの……或いは無いほうがいいかもしれない程度の物だ。
「……こっちはないよ、そっちはどうだい?」
「ぜぇんぜん……とりあえず万が一意識を取り戻した時用にお洋服と日常品は揃えたけどぉ……」
「そうか……じゃあ、後は二階だけ探して……無かったら諦めよう」
一階を探し終えて、残るは二階だ。
恐らくはそっちに霧島亜紀の自室はあるだろうし、目的の物があるとすればそこだろう。
「そうだねぇ…………もし何も無かったら、私たちで決めちゃって良いんだよね?」
「その辺は弁護士さんも病院の人も協力してくれるから……直美の決定に俺は従うよ」
「ありがとう史郎さん……よぉし、行こうっ!!」
俺の言葉に直美は頷くと、深く深呼吸してから二階へと上がり始めた。
「あいつの部屋は確か私が使ってた……あれ? ここにベッドと机、運んだよねぇ?」
「ああ、確かにここに運び込んだはずだ」
俺の部屋では窓から元の自分の家が見えて、色々と落ち着かないだろうと思ってわざわざこっちに家具を置いておいたのだ。
しかしそれらの物が一切見当たらず、また部屋も余り使用されているようには見えない。
(何だかんだで直美もこの部屋に殆ど入らないで、夜も俺と一緒に寝て可愛が……ま、まあ今はどうでもいいな)
とにかくここには何もなさそうで、俺たちは違う部屋を探して回ることにした。
果たして想像通りというべきか、俺たちが運び込んだ家具の全てが……元俺の部屋に移されていた。
ご丁寧なことに俺が暮らしてた時の……学生時代にしていた配置に並んでいる。
(ベッドも机も重いだろうに……そこまでする必要あったのか……?)
窓から外を見ると、全ての窓が締まり切って閑散としている隣の……霧島家が見えた。
既に売却手続きはされているようで、あちこちに立ち入り禁止の張り紙がされているのがわかる。
(やっぱりこうしてみると……寂しいもんだなぁ……)
何だか俺の思い出まで売り出されているような気になって、どうにも落ち着かない。
霧島はこれを見て同じ気持ちを抱いたのだろうか、それとも清々したとでも思っていたのだろうか。
もう俺には……全く分からないことだった。
「史郎さぁん、サボってないでお探しするのぉ~」
「ごめんごめん……あそこから直美が顔を出すんじゃないかって思うとついつい目が行っちゃうんだよ」
「全くぅ、ちょぉし良いんだからぁ~」
呆れたように俺を見ながらも、直美自身もまた思うところがあるのか何度も窓の外へ視線を投げかけている。
「……いっつもあそこから話しかけてたよねぇ」
「そうだねぇ、直美があっちに引っ越してから……ほとんど毎日お話したねぇ」
「トラブルが起きた時、あそこから声かけたらすぐに来てくれたよねぇ……」
「こんな可愛い子に泣きながら助けてって言われたら誰だって飛んでいくよ」
「ううん、来てくれたのは史郎さんだけ……本当に嬉しかった……」
直美がニコッと笑って、こちらに身体を寄せてくる。
それをそっと抱き留めて、しばらく二人で隣の部屋を見つめていた。
「……そろそろ探し物に戻ろうか?」
「うん、そうだねぇ……早く帰って史郎さんと良いことしたいもんねぇ……」
顔を見合わせて頷き合うと、改めて俺の元部屋を探して回る。
「……あぁ、こんなところにお金隠してぇ……ぎんこぉに預ければいいのにぃ……」
「口座なんか持ってないだろうし……作り方も知らなかったのかもなぁ」
俺が選別に渡したであろうお金を数えてみると、ちょうど五十万ほどは使われた後だった。
(二カ月でよくまあ五十万も使えたよなぁ……けどまだ残ってるのにどうしてこのタイミングで使い渋りだしたんだ?)
霧島とトラブルを起こした男曰く、出会った当初は要求すれば幾らでもお金を渡してくれていたらしい。
しかし最近になって急に無駄遣いに口出しされるようになり、また働くように示唆されたことで頭に来て暴力を振るったと語っていた。
てっきりお金が尽きたからだとばかり思っていたから、逆にこれだけ残額があることに驚いてしまった。
「史郎さん、ゴミ箱に履歴書が……」
「えっ!?」
直美に言われてゴミ箱を見ると、確かに書き損じた履歴書が何枚か捨てられていた。
取り出して日付を確認すると、霧島亜紀の名前が入院する二週間ほど前の日付と共に記載されている。
高卒な上に空白の期間が長く資格欄も空っぽ、まして書き方もセオリーから逸脱していて……だけどしっかりと丁寧な文字で書かれていた。
(まだお金が残ってるのに……本気で就職する気で……働こうとしてたのか?)
書き方が酷いのは履歴書の書き方も知らなかったからだろう。
しかしそれでも綺麗な文字からは、本人のやる気が感じられるようでもあった。
まるで霧島の、僅かな改心の跡が見えたようで……だからこそあの結末に至ってしまったことが虚しかった。
「……」
「……」
やるせない気持ちを抱えたまま、俺も直美も何を言うこともできなかった。
だから無言で室内を探して回ったが、結局それ以上の収穫はなかった。
「……やっぱりなかったねぇ」
「……まあ、わざわざ書き残すようなことじゃないからなぁ」
「日記とかつけるような人じゃないしねぇ……」
もうこの場にいる理由もなくなり、俺たちは少し落胆しながら……同時にどこか安堵に似た気持ちを抱えながら家を後にした。
(このお金は霧島の入院費の足しにするか……その後もやっぱり……)
「あ~あぁ、こんなに郵便も溜めちゃってぇ……っ!?」
郵便受けから溢れかえる手紙やチラシを眺めていた直美が、不意に息をのんだ。
俺もまた顔を寄せると、手紙の殆どは……企業からの不採用通知だった。
(実際に応募してたのか……あの経歴じゃあこうなるだろうけど……ん?)
その中に一つだけ、妙な封筒があった。
宛先不明で送り返されてきたその封筒の表面には電話番号しか記されていない。
(そりゃあこんなの届くわけ……この番号どこかで見覚えが……っ!?)
少し考えて思い出した、これは俺の持っている携帯電話の変更前の番号だった。
恐らく接触禁止で連絡先すらわからなくて、一か八かにかけてこうして送ったのだろう。
日付を見ると霧島が入院する……二日ほど前の日付だ。
「……史郎さん」
「ああ……」
何度も俺の携帯にかけていた直美も気づいたようだ。
俺はゆっくりと封を破って中に入っていた手紙を取り出し、直美と共に読み始めた。
『雨宮史郎様へ、もしも何かの間違いでこの手紙が届いていたらその奇跡に免じてどうか最後まで読んでください』
『手紙の書き方などよく分からないので変なところがあっても気にしないでください』
『早速で申し訳ないのですけれど、今回お手紙をお出ししたのは……お金の無心をするためです』
「……あいつ、改心してたんじゃなかったのかなぁ」
「履歴書より後に書いてあるし、先に出した会社に断られて心が折れたとか……だとしてもなぁ……」
いきなりお金のことが書かれていて、何だか裏切られたような心境になってしまう。
それでも一度開封してしまったのだからと思い、最後まで読み進めることにした。
『恥知らずだと思うでしょうが、私には働き方がわかりません……履歴書も書いて出してみましたが上手く行きませんでした』
『このままではいずれ頂いたお金は尽きてしまうでしょう……そうなったら私にはどう生活していいかわからないのです』
『いっその事かつてしていたように身体を売ることも考えましたが、この見た目ではろくなお客を取ることもできないでしょう』
『何より……お腹の子供のことを考えたらとても選べませんでした』
「な、直美っ!?」
「し、史郎さんっ!?」
手紙から顔を上げて直美と顔を見合わせる。
(あいつ……やっぱり気づいてたのかっ!?)
霧島亜紀が妊娠していることは、病院での検査結果と共に担当医師が教えてくれた。
同時にその子へどう対処するのかも聞かれて……そのために俺たちはわざわざここへやってきたのだ。
万が一にも霧島亜紀の意向を確認できるものが残されていたら、それがどんな結果であれ従うつもりだった。
(霧島の考えが俺たちの望まない方だったらと思うと……いっそ見つからないほうがとも思ったが……)
恐らくこの先には霧島なりのお腹の子供への考えが大なり小なり記されているはずだ。
俺たちは深く深呼吸して、感情を落ち着かせながら手紙の続きへと戻った。
『どうも私は妊娠しているようです……いつどこで相手にした誰の子供かもわかりません』
『最初は堕ろそうと思いました、私は自分のことで精いっぱいなので子供など産んで育てる気にはなれませんでした』
『だけどあの部屋から隣を見て……空っぽになった元の家を見て、自分が一人ぼっちなのだと今更ながら気づきました』
『そう自覚した途端、私はとても寂しくなり……虚しくなり……人の温もりが欲しくなりました』
『だから一番温かかったころを思い出して……そのころの記憶に従って、とある同居人と暮らすようにしましたが全く空虚さは埋まらないのです』
(一番温かかった思い出……俺と呼び合っていたころの記憶……だから『史郎』か……)
「……形だけ整えても仕方ないのになぁ」
「……そうだよね」
自然と口から零れた言葉に、直美が悲しそうに頷いて見せた。
『こんなはずじゃなかったのにと毎日のように考えています、手紙を書く時もあなた方が私をもっと……などと怒りを覚えながら書いておりました』
『ですが不思議なもので文章を整えようとして言葉を考えていると、どこか冷静にならざるを得ないのか……自分の愚かさが痛いほど分かってしまいました』
『すみません、話が逸れましたね……本題に戻りますが私はこの寂しさを埋めるためにお腹の子供を産んで家族を作ろうと思っています』
「……産む気だったんだぁ、そっかぁ」
直美はどこか安堵したようにため息を漏らした。
『ずっと考えていました、何をどこで間違えたのか……貴方と別れたことか子供を放置したことか……私にはわかりませんがこれはやり直すチャンスなのではないかと今更ながらに思いました』
『あなた方から頂いたお金と家で今度こそちゃんと子育てをして……家族と一緒に暮らしていければ私の寂しさも少しは埋まるのではないかと思うのです』
『しかしそのための出産費用と生活費が足りません……今更ながら節約も始めましたがお金は既に半分ほど使ってしまったのです』
『どうかお願いします、私の為ではなくこの子の為に当座の資金を用意してくれないでしょうか……もちろん借金という形で構いません』
『自分勝手で恥知らずなことばかり述べてしまいましたが、私には今も昔も雨宮史郎様しか頼れる相手が居ないのです……どうか連絡をお待ちしております』
そう締めくくられた手紙は、ところどころ涙で滲んでいるように見えた。
(本当に自分勝手な話だ……俺には霧島の面倒を見る義務も何もないのになぁ……)
だけどその我儘は今までのとは違いお腹の子供のためのものだ。
もちろん自分の寂しさを埋めるつもりも大きいだろうが、それでも決して楽とは言えない道を選ぼうとしていたことは見て取れた。
その僅かな成長は嬉しいが、だからこその現状を思うと……悲しくて仕方がなかった。
「……史郎さん」
「何だい直美?」
同じ様に手紙を読み終えた直美は、何か決意を固めたような真剣な表情で俺を見つめてくる。
だから俺もまっすぐその目を見つめ返す。
「あいつ、やっぱり自分勝手なところはあるけど……子供産みたいって書いてあったよね?」
「そうだね……流された結果じゃなくて自分なりに考えて決めたみたいだね」
こうして霧島の意志が確認できた以上、担当医師には出産させる方向でお願いすべきだろう。
ただこのまま産まれてしまえばその子の面倒をまともに見れる人はどこにもいない。
(霧島の他の親族は全員入院中……居るとすれば霧島ではなくなった……)
「ねぇ史郎さん……私物凄い我儘……言ってもいい?」
「当たり前だよ、直美は俺の可愛い奥さんなんだから……旦那の俺を頼ってくれていいんだよ」
力強く頷いて見せると、直美もまたまっすぐ俺を見つめて頭を下げた。
「お願いです史郎さんっ!! 私、私の兄弟を放っておけないのっ!! 助けてあげたいのっ!! 私が味わったあんな思いは絶対させたくない……だからお願い史郎さんっ!! 子供を引き取ってあげてくださいっ!!」
直美の言葉にはとても感情が籠っていた。
実の両親からろくに面倒を見てもらえなかった直美には……俺に出会えなければどうなっていたかわからない直美からすれば産まれてくる兄弟のことは他人事には思えないのだろう。
だから俺も直美に優しく、だけどはっきりと言葉を返した。
「違うだろ直美、俺たちの兄弟だよ……さっきも言ったけど俺は直美の旦那なんだからさ……もちろん俺も自分の義兄弟を助けたいっ!! だから直美……俺に協力してくださいっ!!」
そして俺も直美に深々と頭を下げた。
妻に協力してもらうのだから当然のことだ。
「し、史郎さん……ありがとぉっ!!」
途端に感極まったかのように、涙すら流しながらも笑顔で俺に飛びつく直美。
そんな彼女を抱きしめて、俺も笑顔を返してあげた。
(これから大変だぞ……)
口で言うのは簡単だが、直美はまだ学生で俺にだって仕事はある。
生まれてくる子供を育てると言っても簡単には行かないだろう。
また子供を引き取る以上は親である亜紀の世話もしなければいけない……恐らく今まで以上に大変な日々が待っているはずだ。
(だけど大丈夫……俺には直美が……いつだって隣で笑っててくれるんだからなっ!!)
「直美、一緒に頑張ろうな……それでみんなで幸せになろうっ!!」
「うんっ!! 私も史郎さんが居てくれれば大丈夫だからっ!! ずっと笑ってられるからっ!! 史郎さんも子供も……みんなで幸せになっちゃおうねっ!!」
俺たちははっきりと覚悟を決めるとお互いに笑顔を見せて……そっと口づけを交わすのだった。
「……ありがとう直美、大好きだよ」
「……ありがとう史郎さん、大好き」




