霧島亜紀と名乗る女性
「……今、この人……霧島亜紀って言ったよね?」
どこか放心状態に近い直美の声に、俺もまた僅かに頷いて見せるのが精いっぱいだった。
心の中が激情で乱れている……同時にどこか空虚さと言うか冷めた感情もある。
(これが……あの、霧島……?)
過去の……いや行方不明になる間際の幼馴染の姿と比べても面影すら見いだせない。
少なくともあいつは、見た目だけはそれなりに優れていた……はずなのだ。
しかし目の前に映る女性は、俺とは同い年にすら見えないほどにくたびれ果てていた。
『史郎っ!! ねぇ史郎に会わせてっ!! 居るんでしょ史郎っ!! 私あなたのところに帰ってきたんだよっ!!』
入り口で声を張り上げ続ける女性、それもまたかなり耳障りな……枯れ切った音に聞こえた。
「……私、よく覚えてないけど……こんな人だったっけ?」
「いや……まるで別人だ……」
「そうだよね……」
(一体どんな人生を送っていればこんな風になるんだ……?)
『史郎っ!! どうして返事をしてくれないの史郎っ!! 私のこと忘れちゃったのっ!? 私は一日だって忘れたことなかったのにっ!!』
「…………おかしいなぁ、私結構この人のこと憎んでるのに……今だって自分勝手な言い分に腹が立ってるのに……何か……虚しいよ」
直美の言うことはよくわかる、俺もまた同じような心境だったからだ。
(昔はずっと憎んでた……今は直美のことがあるから許すわけにはいかないと思ってた……だけど……)
目の前のカメラに映る女性はとても弱々しく見えて、しかも必死で縋りつくように声を上げている。
どうしようもなく痛々しい、これがあの霧島亜紀だとは思えないのだ。
だから憎むに憎めない……困惑する気持ちのほうが強すぎるのだ。
『史郎ってばぁっ!! どうして無視するのぉおお……ねぇ……お願いだから顔を見せてよ……声を聞かせてよぉ……うぅ……』
ついにはドアに縋りついて泣き始める女性、しかしいくら経ってもどこかへ行く気配はない。
「……史郎さん、警察呼ぼうか?」
「……それは最後の手段にしよう……向こうが俺の名前を呼んでる以上は民事不介入とか言われかねないし、俺と直美の関係を突っ込まれるほうが怖い」
「けど、あんな玄関で騒がれたらそれこそ大変な騒ぎになっちゃうよ?」
直美の言う通りだ。
玄関先でずっと騒がれたら、流石に何かしらの公的機関が介入してきそうだ。
そこで下手にあの女が余計なことを言えばどうなることか。
「分かってる……だから俺が出て少し話してくるよ」
「……大丈夫? 私も行こうか?」
不安そうに俺を見る直美、恐らくはトラウマ関連のことと女の異常な態度を警戒してのことだろう。
確かに何をしでかすかわからないほど感情的になっている……だからこそ直美をあんな奴の前に出すわけにはいかない。
「俺は大丈夫……それよりも直美はここで監視してて、万が一の時はそれこそ警察とかに連絡してくれ」
「う、うん……わかったけど……本当に無理しないでよ?」
直美に力強く頷き返しながら、俺は玄関に近づき鍵を開けてドアを開いた。
「あっ!? あ、あの……し、史郎はっ!?」
「……お前、本当に霧島なのか?」
「そ、そうだよっ!? わ、私霧島亜紀だよっ!! ねえ、史郎はっ!?」
こちらに詰め寄る女は俺の正体に気づいていないようだった。
本当の霧島亜紀は当時この家に住んでいた俺と両親の両方と面識がある。
だから成長した俺の顔がわからなくとも消去法で気づきそうなものだ。
(やっぱり別人なんじゃないか……?)
やはりどうしてもこいつがあの霧島亜紀だとは思えない。
しかしだとすれば、何故こいつは幼馴染の名を語っているのだろうか。
「……史郎に会ってどうするんだ?」
「あ、謝るのっ!! 私が悪かったってっ!!」
「悪かったって……何がだよ?」
正直霧島亜紀に謝られる理由がわからない。
事実として俺はあいつの変化を憎んでいたし、当時は謝罪と言うか釈明を求めた。
だけど踏ん切りがついた今、冷静になって考えればあいつはただの幼馴染でしかない俺と縁を切っただけの話なのだ。
(そりゃあ俺は好きだったし寝取られたような心境だったけど……告白も何もしてない俺にフラれただのなんだの言う権利があるわけなかったんだ……)
精神的苦痛こそ与えられてきたかもしれないが、霧島の視点からすれば俺に謝罪する必要などないのだ。
そう……あいつが謝らなければいけないのは俺に対してではない。
「史郎が私を想ってくれてたのに裏切っちゃったこと……私馬鹿だったから史郎の気持ちがわからなくて……だけどもう気づいたのっ!! だからこれからは絶対裏切らないからっ!!」
「……他に何かないのか?」
「ほ、他って……わ、私は本当に悪かったって思ってるのっ!! 史郎に会えば伝わるからっ!! ねぇ史郎を出してよっ!! 会わせてよっ!!」
(何も伝わらねぇよ……何が言いたいんだよこいつは……)
だんだん苛立ってきた、こいつが本当に霧島亜紀だというのなら最初に言わなきゃいけないことはそれではないのだ。
そもそも俺の家に来て俺の名前を呼んでいることからして間違いだ。
「お前が本当に霧島亜紀なら、他にもっと謝罪しなきゃいけないことが……」
「私が霧島亜紀なのっ!! 史郎を出せばわかるからっ!! 意地悪しないで史郎を出してよっ!!」
「その前に答えろっ!! お前が今最初にしなきゃいけないことは何だっ!!」
「だから史郎に謝ろうとしてるのっ!! それ以外に大事なことなんかないでしょっ!!」
「お前はっ!? 自分の家族について何とも思わないのかっ!?」
ついに怒りが堪えきれずに怒鳴ってしまった。
(お前が霧島亜紀なら……まずは直美の心配をすべきだろうがっ!!)
「あんな奴らより史郎のほうが大事なのっ!! 私を否定しかしない両親なんかどうでもいいっ!! 私を受け入れてくれる史郎だけいてくれればいいのっ!!」
「両親以外の家族もどうでもいいのかっ!?」
どこまでも直美を無視する目の前の女に対する怒りが止まらない。
だというのに、こいつは不機嫌そうに……あり得ない台詞を怒鳴り返した。
「何が言いたいのあんたはっ!? 他に家族なんかいないわよっ!!」
「なぁっ!?」
信じられない台詞に、俺は一瞬あっけにとられてしまう。
しかしすぐに正気を取り戻すと同時に、烈火のごとく怒りが湧き上がってくる。
「いいから史郎を……」
「ふざけんなっ!!」
「っ!?」
反射的に胸ぐらをつかみ上げていた。
女が着ていた汚れ切った衣服は脆く、繊維が千切れる音がしたが俺は気にせずそのまま壁に叩きつけた。
「お前は直美に対して何とも思わないのかっ!?」
「ぐぐぅ、な、直美って……誰よっ!?」
「っ!? て、てめぇえっ!!」
『史郎さん駄目ぇっ!!』
咄嗟に本気で首を締め上げそうになった俺を、インターホン越しに聞こえた直美の声が押しとどめた。
何とか強張る両手から力を抜いて、目の前の女から距離を取った。
(危なかった……今俺は本気でこいつを……)
「……い、今の声……女の……そ、それに史郎って……あ、あなたが史郎なのっ!?」
「……だとしたら何だよ?」
「う、嘘ぉ……だ、だって史郎はもっとオドオドしてて……そ、それにもっと若くて……」
「俺だって歳をとれば変わるんだよ……お前と同じだろ」
「っ!?」
俺の言葉に何か思うところがあったのか黙り込んでしまう女性。
「それよりお前が本当に霧島亜紀なら……」
「あ、亜紀だよぉ……どぉしてわかってくれないのぉ……史郎ならわかってくれるって信じてたのにぃ……」
「分かるわけないだろ、ずっと離れてたのに……」
当時なら……霧島亜紀とずっと共に居た頃ならば俺は絶対に見間違えたりはしなかっただろう。
何せ、俺の……愛する女性だったから。
「きょ、距離は離れてても心はずっと一緒だったでしょっ!! 私のこと好きなら気づいてよっ!!」
「もうとっくに好きじゃない……お前に振られたあの日から……いやあの日俺の好きな霧島亜紀という女の子は居なくなったんだ」
「み、見た目が変わっただけじゃないっ!! どうしてそんなこと言うのよっ!!」
「見た目だけじゃないだろ、中身も変わった……」
「か、変わってないっ!! ううん、少なくとも今は戻ったのっ!! 本当にあなたのことしか想ってないのっ!! 信じてよっ!!」
(自分は俺の変化に気づかなかったのに俺には分かれと言って……自分から別れを告げておいて未だに好きで居ろって言うのかよ……)
どこまでも自分本位なことを言い続ける女、仮にこいつが霧島だとして……反省していないのは明白だ。
(反省したふりだけして……また俺に寄りかかろうとしてる……当時の悪いところだけ戻ってるな……)
霧島は変わってから、いろんな面で問題のある行為ばかりするようになった。
だけどただ一つだけ、ある意味で他人を頼るということだけは無くなっていたように見えた。
他人に言われた通りに動くのではなく、自分の頭で考えて行動を決めていた……楽な方へと転がって行っていたが少なくともそれは自分の意志で決めて動いていたはずだ。
(援助交際だか何だか知らんが自分で考えて判断してやっていたはずだ……その唯一の成長すら潰してやがる……)
もう目の前にいる生き物がとてつもなくおぞましい何かに思われて、正直関わり合いになりたいとすら思えない。
何より完全に直美のことを忘れていることが、俺の中にある情を断ち切らせるには十分すぎた。
「とにかくお前が霧島亜紀だろうとそうじゃなかろうと……俺には何をしてやる気もない、さっさと今までいたところに帰れよ」
「ど、どうしてそんなこと言うのよぉおおっ!! 私がどんな目にあってきたかも知らないでさぁっ!!」
「俺から離れていった奴のことをどうやって知れって言うんだよ……悪いがもう興味もないんだ、早く帰らないと警察呼ぶぞ」
「な、なんで……嘘だぁ……あんなに私に優しかった史郎はどこ行ったのぉ……」
「さっきも言ったがお前が変わったように俺も変わったんだ……いい加減現実を認めてくれ……」
放心した様子でその場に座り込みぶつぶつと呟き続ける女だが、これ以上ここに居てもらっても困る。
俺は追い出すために女の背中を押して、強引に敷地から連れ出そうとする。
しかし不意に女ははっと顔を上げて立ち上がり、叫び出した。
「……ああ、そうか分かったっ!! 私が変わった時みたいに史郎も変な女に騙されてるんだねっ!!」
「何を言ってるんだお前はっ!?」
「その直美って女に史郎は騙されてるのよっ!! 大丈夫、私には本当の史郎が分かってるからっ!! あの時のあなたと違って私は途中で離れたりしないよっ!!」
「いい加減にしろよお前……直美を何だと思ってんだっ!?」
「知らないけどあなたを騙す悪い女よっ!! 私が居なくて寂しいからそいつの誘惑に引っかかったんでしょっ!! けどもう私が帰ってきたからそんな女に関わらなくていいのっ!! だからそいつじゃなくて私を……うっ!?」
騒ぎ立てる醜悪な女の顔に平手打ちして黙らせる。
「次に直美を侮辱したら本気で殴る……いや、殺すぞ」
「ひぃっ!? な、なんで……どうしてぇぇ……そんな訳の分からない女より私を見てよぉ……幼馴染の私を大事にしてよぉ……」
「お前はどこまで……っ!?」
「さっきから聞いてればぁ……どうしてあんたは自分の都合ばっかり言うのっ!!」
いまだに世迷言を言う女を黙らせようとしたところで、怒りに顔をしかめた直美が飛び出してきた。
「な、直美っ!? 何で出てきたっ!?」
「史郎さんゴメン、だけどどうしてもこいつに言っておきたくて……」
「あ、あんたが直……っ!?」
出てきた直美を睨みつけようとした女は、しかしその顔を見た瞬間に固まってしまう。
それも当然だ、何せ直美はかつての……美しかった頃の霧島亜紀にそっくりなのだから。
「貴方に裏切られてから史郎さんがどれだけ苦労してきたかわかってるのっ!? 私のことを忘れてるのはいいけど、どうして史郎さんにしたことをそんな軽く捉えられるのっ!? しかも史郎さんが支えるのが当然みたいなこと言って……史郎さんだって苦労してきたんだよっ!!」
「いや俺のことは良いんだ……大事なのは直美の……」
「よくないよっ!! だってもしもこいつがもっと早く戻ってきたら……史郎さんが立ち直る前に戻ってきてこんなこと言われたら絶対耐えられなかったっ!! 史郎さんを追い詰めてたっ!! そう考えたらこんな勝手なこと言うやつ絶対許せないっ!!」
「直美……」
いくらこんな奴とはいえ、実の母親に完全に忘れ去られていたことはショックだったはずだ。
なのに直美は自分のことではなく俺のことで怒っている……本当に強く良い子に育ってくれたと思う。
だからこそ俺は、こんな直美のことを完全に忘れて侮辱までする目の前の女が一層許せなくなる。
「あぁ……直美ってあの時のガキかぁ……まだ生きてたんだ……」
「てめぇっ!! 何だその言い方はっ!?」
「あぁ……あはは、そっかっ!! そういうことかぁっ!! そりゃあ昔の私そっくりな可愛い女の子が居たらこんなおばさん興味ないよねぇっ!! やっぱり史郎も若い女が良いんだぁっ!! しょせん史郎も男なんだねっ!!」
「何であんたはそう言う目でしか見れないのっ!? 顔で違う男を選んだのはあんたでしょぉがっ!!」
「うるさいっ!! 生意気言うなっ!! 誰があんたを産んでやったと思ってんのっ!? ああもぉ、人の男奪ってぇこのクソガキっ!! お前なんか産まなきゃ……ぐぅっ!?」
絶対に言ってはいけないことを言おうとしたクソ女の顔を、俺はもう一度平手で叩いた。
拳で殴らなかったのは直美が見ていたから……余り暴力的なところを見せたくなかったのだ。
「もういいよ、お前が霧島でもそうじゃなくても……目障りだからさっさと消えろ」
「ぐぅぅ……何で……どうして…………ずるいっ!! 何で私ばっかりこんな目にあわなきゃいけないのっ!! どうして私ばっかりこんな不幸にならなきゃいけないのっ!? 私と同じ顔のそいつばっかり恵まれててずるいよぉおおっ!!」
(直美が……恵まれてるだとぉっ!?)
よりにもよって直美の人生を不幸に追い込んだ張本人が言っていい台詞ではない。
少なくとも霧島は変わるまでの間はちゃんと面倒を見てくれる両親もいて、お金にも困らず生きてきた。
それに対して直美は両親すらおらず、俺以外の誰からも見放され……この間まで洋服を買うお金すら節約して過ごしていたのだ。
「お前は自分が何を言ってんのかわかって……っ!?」
「ううん、確かに私は恵まれてたよ……史郎さんって言う素敵な男の人がすぐ隣に住んでたんだもの……だけどそれはあんたも同じだったでしょ? むしろあんたのほうが先に出会ってて遥かに有利だったはずじゃん……なのに自分から手放しておいて今更ずるいだなんて……そんなこというあんたのほうがずっとズルいよっ!!」
「違うっ!! 私はただ勘違いしてただけでずっと史郎を想ってたっ!! 史郎が私をもっと強く引き留めてくれれば間違えなかったっ!! あんたみたいに愛されてれば問題なかったのっ!! 何で私の時はそれぐらい強く守ってくれなかったのぉっ!?」
「どうして史郎さんが何かするのが当たり前みたいに言うのっ!? 愛し合ってるなら互いに支えあうものでしょっ!? 何で一方的にしてもらうのが正しいみたいに言うのっ!? あんた頭おかしいよっ!?」
「直美、もういいから……ありがとう」
俺のためとはいえ激高する直美をこれ以上見たくなかった……この子には笑顔が一番似合うから。
「でもこいつ史郎さんを……」
「良いんだよもう……どうせ赤の他人なんだ、放っておこう」
「…………違う、違うよっ!! 私そいつの母親だものっ!! あんたらの交際なんか絶対認めないからっ!!」
「今更何を言うかと思えば……別にお前に認められようがどうしようが知ったことじゃない」
「残念でしたぁっ!! そいつまだ未成年でしょっ!! 親の私が許可しなきゃただの犯罪だからぁっ!! あはは、私を受け入れないならもういい……あんたらの幸せもぶち壊してやるっ!!」
「なっ!?」
狂ったような笑い声を上げたかと思うと、一転して俺たちを睨みつけ立ち去っていく女。
一瞬追いかけようかとも思ったが、それで引き留めたところで何になると言うのか。
どうせ説得しようにもあの調子では聞く耳を持ちそうにない、それどころか下手に構うと逆上して襲い掛かられそうだ。
(無いとは思うが刃物とか隠し持ってて直美を狙われたら困る……その手の物理的脅威がなくなっただけでも良しとしよう)
「し、史郎さん……わ、私やっぱり余計なことしちゃったかな?」
「ううん、直美は何も悪くない……俺の代わりに怒ってくれてありがとう」
「だって史郎さんが先に私の為に怒ってくれたから……だけど私が娘だって気づいちゃったから……なんか変なことしてきそうで不安なの……出てくるなって言われてたのに……ごめんなさい」
「大丈夫だよ、直美は何も悪いことしてないんだから謝らなくていいし心配もしなくていいんだ……」
確かに厄介なことになりそうだがこれは直美の責任ではないし、心配することでもない。
この問題を何とかするのは大人であり、男である俺の役目だ。
(これを何とかできないようじゃ直美の旦那に相応しい男になれない……ずっと俺を支えてくれた直美のためにも絶対に乗り越えてやるっ!!)
俺は強く決意を固めると、まずは直美の不安を解消させるために肩を抱いて一緒に家の中へと戻るのだった。




