平日①
「忘れ物は……よし、じゃあ行ってくるね」
入念に持ち物と格好を確認して、ようやく俺は立ち上がった。
有給期間も終わり、ついに転職先に初出社する日がやってきたのだ。
(最初が肝心……まあ見知った人ばかりだけど、だらしないところ見せるわけにはいかないからな)
今度こそ失敗しないようにしないといけない。
直美の面倒を見るためにも長続きさせなければいけないのだ。
(見限られないように……前のように嫌われないようにしっかりしないと)
自分に気合を入れて、早速出発しようとした。
「ちょっとちょっとっ!! おじさんストップぅっ!! 大事なこと忘れてるよぉっ!!」
「えっ!? な、何か足りないものあるっ!?」
直美の言葉に心臓が飛び跳ねた。
今日だけでなく昨日からしっかりと準備しておいたはずだが、何か抜けていたらしい。
(あ、危なかった……直美ちゃんが指摘してくれなければ初日からやらかすところだった……)
こんなことで会社の人に呆れられたらと思うと……もしも失敗したらと思うと血の気が引いてくる。
今度こそ仕事を長続きさせなければいけないのに、前の職場のように疎まれたら大変だ。
「ええと……な、何が足りないかな?」
「もぉ、おじさんはしょぉがないなぁ……お出かけ前にすることあるでしょぉ?」
「す、すること……着替えも歯磨きも済んでるけど……」
「だぁかぁらぁ……行ってきますのキスだってばぁっ!!」
そう言って俺の前に回り込んで唇を尖らせる直美。
どうやらいつものおふざけだったようだ。
肩から力が抜け落ちて、張りつめていた気持ちが緩んでしまう。
(はぁ……流石にこんな時に冗談はやめてほしい……)
「あのねぇ……おじさん真面目に初日だから緊張してるのよ……」
「だから解す意味も込めて、行ってらっしゃいのチューっ!!」
「はいはい……じゃあ行ってくるからね」
何やら朝からドッと疲れてしまった……だけどどこか気持ちが軽くなった気がした。
(ちょっと気負いすぎてたかな……そうだよ、失敗しても良いんだ……別にこの職場だけが全てじゃないんだから)
転職活動は大変だが、駄目そうなら無理にここに通う必要はないのだ。
そんなことも忘れるぐらい自分で自分を追い込んでいたことに気が付いた。
(また直美ちゃんに助けられちゃったなぁ……本当にもう頭が上がらないや)
俺は心の中で直美に感謝しながら、ドアに手をかけた。
「待ってってばぁっ!! 新婚さんはキスしなきゃ行っちゃ駄目なのぉっ!!」
「……し、新婚って……と言うかお願いだから仕事行かせてよぉ」
「ちょ、ちょっとキスすればいいだけでしょぉっ!? なんでそんなに拒……っておじさん、ネクタイ歪んでるよぉ」
「えぇっ!? お、おかしいなぁ?」
不意に直美が真面目な顔になってネクタイに手を伸ばしてきた。
しかしさっき鏡で確認したときはちゃんと真っ直ぐになっていたはずだ。
不思議に思いながらも直美に任せていると……ニヤリと笑ってネクタイを引っ張って顔を手繰り寄せてきた。
「な、直美ちゃ……んっ!?」
強引に口づけされてしまう。
直美の柔らかい唇の感触が脳裏に焼き付いていく。
これでは今日一日、直美のことを忘れることは出来なさそうだ。
(し、仕事に集中できるかな……ああ、直美ちゃんの唇柔らかい……ずっとこうして……だ、だから駄目だってっ!!)
「ん~っ……ぷはぁ、よぉし完璧ぃ……行ってらっしゃいあ・な・た」
「うぅ……こ、ここまでしてまでしなきゃいけないことなのぉ」
「どぉせーしてんだからあったりまえじゃぁん……これから毎日だかんねぇ~」
「そ、そんなぁ……勘弁してよぉ」
「あはは、いいからいいからぁ……ほら遅刻しちゃうぞ?」
「あ、や、ヤバい……じゃ、じゃあ行ってくるねっ!!」
時計を見ると乗る予定の電車に間に合うか、ぎりぎりの時間になっていた。
尤もトラブルに備えて一時間は早く着くようにしているから多分遅刻はしないとは思う。
それでも何かあったら困るから俺は急いで家を飛び出すのだった。
「うん、行ってらっしゃい……えへへ、行ってらっしゃいっ!! 行ってらっしゃぁいっ!!」
外に出てきて俺に手を振りながら、直美は何度も何度も同じ言葉を口にして送り出してくれる。
今まで家族も誰もいなくて……言えなかった分を取り戻すかのようにだ。
「うん、行ってくるよ……それで帰ってくるからね、直美ちゃんのところにっ!!」
「うんっ!! 直美待ってるからぁ~っ!! 行ってらっしゃぁいっ!!」




