史郎と亮とオタク少女な直美ちゃん72
「おっ風呂出ったよぉ~、ドライヤーも持ってきたから髪の毛よろしくねぇ~」
「は、早かったね意外と……というか髪の毛乾かしてこなかったの?」
「にひひ~、だってぇチマチマやるの苦手なんだもぉ~ん」
ニコニコと笑顔で部屋に戻ってきた直美の手の中には言葉通りドライヤーが握りしめられていた。
ちょうど直美のお友達と通話を終えたタイミングだったこともあり、一瞬だけドキッとしてしまうが向こうの様子からして俺達が話し合っていたことには気づいてなさそうだった。
(危なかったぁ……亜紀が直美の話を嬉々として続けるもんだから長くなっちゃってたし……だけど向こうも亜紀の想いをわかってくれたみたいだし……とにかくよかったよ……)
最後まであの二人から完全に警戒心が消えることはなかったが、態度自体はかなり軟化してきていたのが話しているだけでも伝わってくるほどだった。
あの調子ならば恐らく亜紀が何かをやらかさない限りは直美と亜紀の関係を見守り続けてくれることだろう。
(ずっと直美のことを大切に想ってくれてた二人だもんな……亜紀がどんな人間か分からない状態だと不安で仕方がなかっただろうし、これで少しでも安心してくれるといいんだけど……そして亜紀も自分の存在が直美ちゃんに良い影響を与えつつあるって自負を持ってくれたら……)
何れ亜紀は自らの所業がどれほど直美の人生を歪めてしまったのか、否が応でも気づくことになるだろう。
その際に自分が傍にいてはいけないと思い込んで姿を消すような真似ではなく、これから先の行動でとり返そうと思ってくれる程度に自信がついてくれていなければ困るのだ。
(直美ちゃんは亜紀に心を許しかけてる……こんな状況で例えどんな理由であれまた亜紀が姿を消したら……多分今度こそ立ち直れないぐらいの傷を負ってしまうだろうからな……)
また今の亜紀が直美の傍から離れようとするときは、恐らく自分という存在を絶対に許せないほどに思い詰めてしまっていることだろう。
それこそ下手をすれば自ら命を絶ちかねないほどに……だからこそそんな事態にだけは陥らないようにしなければならないのだ。
(そこを調整するのこそ俺の役目なんだろうな……慎重に進めて万が一にもそんなことにならないようにしないと……ただ、もう一つだけ残っている課題の方は……)
「ほらほらぁ~、早く髪の毛乾かしてヨォ~」
「ふふ……はいはい、今してあげるからね……私がやっておくから史郎はゆっくりお風呂に入ってきていいよ」
「ふひひ、史郎おじさぁん……直美の残り湯、じゆーに使ってくれていいからねぇ~」
「はいはい……じゃあ後は任せたよ……」
直美の可愛らしい我儘に微笑みを浮かべながら答えようとする亜紀……そんな彼女の行動を直美は当たり前のように受け入れていた。
もう亜紀に触れられるのも何かしてもらうのも嫌ではないようだ。
(本当に直美ちゃんは亜紀に心を許しかけてるんだなぁ……亜紀も自分から提案できるぐらい打ち解けてるって確信してるみたいだし……だけどやっぱり最後の一線だけはまだ……)
俺も二人のやり取りに微笑ましさと覚えるが、同時にとあるモヤモヤした気持ちも抱いてしまう。
だから表面上は呆れた風を装って部屋を出て……すぐにドアに耳を付けて二人の会話を少しだけ盗み聞きすることにした。
『ほら、髪の毛乾かすからベッドの前に座ってね』
『はぁ~い、じゃぁその間直美はゲームしてるからよろしくねぇ~』
『はいはい、だけどあんまり頭は動かさないでね……』
俺が居なくても二人は和やかに会話を続けていて、その仲の良さが見せかけだけではないとはっきりわかる。
しかしどうしても二人の会話には違和感があり、俺の懸念が正しいことも分かってしまう。
(やっぱりまだお互いに相手の名前を呼んだりはできてないんだな……多分これが二人に残った最後の課題になるんだろうなぁ……)
亜紀も直美も親し気に話していながらも、お互いを呼び合うことだけはなかった。
恐らくは最初の頃のやり取りが未だに尾を引いているのだろう。
(亜紀は一度直美ちゃんを捨てた負い目もあるし、自分のしたことを深刻に受け止めて反省している……だからこそ直美ちゃんから許可を貰えるまでは絶対に名前で呼んだりしないだろうな……それに対して直美ちゃんは多分亜紀のことをお母さんって呼びたいんだろうけど……)
今までずっといなかった母親が現れて自らの行いを反省した上でちゃんと母親として傍にいてくれているのだ。
本当はもっと素直に甘えたり頼ったり……母と呼んで仲良くしたい気持ちがあるはずだ。
だからこそ何度もお母さんと呼びそうになり、実際に夢の中では呼んでいるのを聞いている。
(それでも言えないのは既に高校生にもなってお母さんと呼んで甘えるのが恥ずかしいって気持ちもあるんだろうけど……それ以上に、まだ完全に亜紀のことを許し切れていないのかも……)
直美はずっと母の所業で苦しめられてきて、恐らく心中では何度となく憎むこともあったはずだ。
それこそ再会したばかりの頃はあんな奴は母親じゃないと……憎むべき敵だと言わんばかりの態度を取っていた。
逆に言えば亜紀のことを母親だと認めるということは、直美の中ではそれまでの憎しみも含めて全てを許すことと同意になってしまっているのかもしれない。
(仕方ないよなぁ……それだけ直美ちゃんは苦労してきたんだから……むしろそれでも亜紀のことを呼び捨てにしたりおばさんだとか他人行儀で読んだりしない辺り……心の底では既に亜紀を母親だと受け入れているのだろうなぁ……)
恐らく直美が亜紀のことを母と呼び、それに対して亜紀が直美を名前で呼べるようになった時こそが二人が本当の親子に戻れる瞬間なのだろう。
そしてそれは同時に直美の精神がまた一つ、良い方向に改善することでもある……そう俺は確信していた。
(だけどこればっかりは俺が干渉することじゃないよな……あくまでも亜紀が誠意をもって行動して、それを見た直美が判断するしかないもんなぁ……)
自分が関わってやれないことにモヤモヤとした気持ちが湧いてくるが、それでもこの二人ならきっと良い形に収まるに違いない。
『……えへへ』
『ふふふ……』
ドライヤーが動き出す音が聞こえ始めると室内は静かになったが、そこにぽつりぽつりと二人が漏らす笑い声だけが響き渡る。
その本当に楽しそうな様子に安心した俺は、そっとドアから耳を離しお風呂場へと向かうのだった。




