史郎と亮とオタク少女な直美ちゃん52
『…………ら……で……』
『…………で…………なの……』
ドア越しに耳を当てると、最初はほんの微かに二人が会話する声が聞こえて来た。
途切れ途切れで詳しい内容はわからなかったが、それでも耳を強く押し付けて神経を集中させていると徐々に詳細が聞き取れるようになってくる。
『……で、中学校から嵐野君とも同じ学校に通うようになって……良く三人でゲームやったりしてたんだよ』
『ふぅん……』
『でもあの二人はちゃんと成績も維持してたけど私は……本当に駄目な子だったから宿題すら史郎に頼りっぱなしで……おかげであんな学校に行く羽目になっちゃって……』
『でもその学校って確か史郎おじさん達も通ってた……勉強できたんでしょ? 何で?』」
部屋の中では霧島が自分と俺達に関わる過去を話しているようだった。
それを聞きながら直美は興味なさそうに相槌を打ちながら、時折気になることを尋ね返していた。
一体どちらから話を振ったのかはわからないが……少しだけ胸がざわめいた。
何故なら話は今まさに、俺達の人生が大きく狂い始めた高校時代に突入しようとしていたからだ。
(俺にとっても辛い時期だったけど、多分今の霧島なら当時の自分は尤も唾棄すべき存在のはず……まして直美ちゃんだって自分がこの頃に産まれたって分かってるはずだ……)
尤も亮や直美に支えられ、そして今の霧島を見て吹っ切れつつある俺はまだいい。
しかし未だに自分の産まれた環境に翻弄されている直美や、過去を悔やみ反省してやり直そうとしている霧島にとって、この話題は離す方も聞く方も辛くなるだけなのではないかと不安になる。
(だけど多分、直美ちゃんからしたら聞きたくてたまらない話でもあるはずだ……自分がどうして産まれたのか……何で捨てられたのか……気にならないわけがない……ましてそれを母親本人から聞けるとなれば……だけど……)
霧島が直美の育児放棄をした本当の理由は俺だって知らないが、それでも真っ当な理由ではないことは明白だった。
それを聞いた直美が……自分が望まれない子供だったと言われた直美がどれだけ傷付くかと思うと今すぐにでも割って入って会話を止めたくなる。
(……だけど……それはいずれ向き合わないといけない問題でもあるんだ)
幾ら隠そうとしたところで直美が霧島に……実の母親に捨てられた事実は変わらないのだ。
それでももしも本人が過去の事なんかどうでもいいと割り切れるのならば、或いはずっと真実と対面させないというのも一つの手だと思う。
だけど直美は未だに自分の出生について拘っている……気にしてしまっている。
それを解消するにはやはり正面から事実に向き合うしかないのかもしれない。
(そしてそれは……多分霧島にしかできない……)
当の本人であり内心を含めて全ての事情を知っているというのもそうだが、俺や亮では直美が愛おし過ぎて……仮に覚悟を決めていたとしても傷つけるかもしれない内容を口にするのは難しいのだ。
(もしもこの話し合いが直美ちゃんから持ち掛けられたものなら……自分なりに過去と向き合おうと覚悟を決めていたってことになる……そんな直美ちゃんの成長を止めるような真似は出来ない……)
だから俺は飛び込みたい気持ちをグッと抑えて、二人の会話に耳を傾け続けた。
もしも不穏な空気に成ったり、直美や霧島のどちらかに限界な雰囲気を感じ取ったらその時こそ踏み込もうと覚悟を決めながら……。
『……嵐野君は史郎と本当に仲が良かったから同じ学校に通って遊びたいって言ってて……それで史郎は……史郎は……何もできない私をフォローするために……私の為に付いて来てくれて……なのに私……』
『……それって……史郎おじさんとおか……あんたは付き合ってたってこと?』
『ううん……あくまでも幼馴染だったよ……周りからはそう見られてたし、多分史郎は私のこと好きなんだろうなって思ってはいたけど……私も嫌ではなかったし、だから多分そのうち自然と付き合うようになるんだろうなって思ってて……だけど私、本当に馬鹿だったから……顔がいいだけの男に詰め寄られて……多分緊張か恐怖で心臓が早くなっただけなのに、このトキメキが恋心なんだって思い込んで……』
(……そうか……霧島もあの男と出会うまでは俺の事そう思って……)
知る由もなかった当時の霧島の内心を聞いた俺は、自然と安堵の息を洩らしていた。
てっきり俺は最初っから霧島に嫌われていて……傍にいてお世話をしていることも嫌がられていたのではと思い込んでいた。
だからなのか……少しだけ救われたような気持ちに成れたのだ。
『……自分の好きな人も分からないなんて……すっごいお馬鹿』
『うん……本当に馬鹿だったの私……周りにいる上辺だけのお友達がダサいって言っただけで史郎をダサいって思い込んで……強引に迫ってきた男が格好良いって言われてるからこの人と付き合うべきだって思い込んで……その人に教えられたズルい真似が賢い事だって思い込んで……真面目にやってる史郎を見下して……最低だよね……ごめんね、こんな駄目な女で……』
直美の呆れたような言葉を受けても霧島は全く言い返すことなく、ただ申し訳なさそうに呟くばかりだった。
(そうだよな……当時の霧島は楽な方楽な方へと流されてた……誰かが強引に来たら逆らえるはずがなかったんだよな……だからこそ霧島のことが本当に大切ならしっかりと繋ぎ止めてあげなきゃいけなかったんだ……)
霧島は自分だけが悪いというけれど、俺は自分のヘタレさが情けなくて仕方がなかった。
もしも俺がもっと早く自分の気持ちに素直になって霧島に告白していれば……恐らく何もかもが変わっていたはずだ。
それこそひょっとしたら早い段階で恋人同士になれていたかもしれないし、霧島もかぞくも道を踏み外すことなく幸せな家庭が続いていたかもしれない。
(……過ぎたことを悔やんでも仕方ないよな……それにその場合は確かに幸せかもしれないけど、直美ちゃんは産まれてこない……そんなの俺は耐えられないや)
『……それで……史郎おじさん達と縁を切って……それで……何で……どうして……』
『……私、自分の面倒も見れない駄目な女だったから子供の面倒なんか見れるはずないって思い込んでて……ううん、多分私はどうしようもなく無責任なお子様で責任のある母親っていう立場に成りたくなかったんだと思う……だから産まれた子供とも向き合えなくて……お世話を全部お母さんに丸投げして……逃げたの……』
『……っ』
『そうしたらお母さんは……元々お父さんが浮気してて、しかも私の素行も悪いから周りから変な目で見られて精神的に追い詰められてどんどんおかしくなっていって……それが怖いから私は家からも逃げ出そうとして……そしたらもっとおっかない反社会組織の男に引っかかっちゃって、借金とか背負わされて帰れなくなっちゃったの……』
ついに核心の話に触れ始めると、直美は息をのんだ様に何も声を発しなくなった。
その間も霧島は悲痛そうな……それでいて申し訳なさそうな声で話し続ける。
『本当に全部私のせい……自業自得……だけどそのせいで貴方が……ごめんなさい本当に……』
『……』
『許してなんて言わない……許されるようなことじゃないって分かってるし……私本当に最低だったから……だから幾らでも憎んでくれていい……顔も見たくないっていうなら今すぐ出ていくつもり……ただ一つだけ信じてほしいの……今更だけど……白々しいとか恥知らずだとか思われるかもしれないけど……私、貴方を産んでよかったって本気で思ってる……貴方が立派に育ってて凄く嬉しいの……それを見れて、こうして少しでもお話が出来て……それだけで十分幸せだから……』
『……っ』
やっぱり黙り込んでいる直美に霧島がそう言い切ったところで、すっと身体を起こす物音が聞こえて来た。
『ありがとう最後まで聞いてくれて……こんな私の話を聞きたいって言ってくれて……だけどごめんね、こんな最低な内容しか話せなくて……じゃあ私、別の部屋で寝るから……そ、それとも同じ家にいるのが嫌なら今日は外で時間を潰し……っ!?』
『……っ』
『えっ!? そ、その……い、いいのっ!?』
『……っ!!』
(な、なんだ……何がっ!?)
そこで不意にバサリと毛布らしきものが跳ねのけられる音が聞こえたかと思うと、霧島が戸惑ったような声を洩らし始めた。
しかし直美が黙り込んでいるために何が起きているのかさっぱりわからず……そのままギシリと何かが軋むような音が聞こえたかと思うと室内は途端に静かになってしまう。
『……っ』
『……ふふ、ありがとう……本当に立派に育って……うん、大きくなった……産まれたばっかりの頃に抱っこしてあげたことあったけど、全然違う……よしよし……』
(……まさか……いやでもこの霧島の声からして……何かさっきとは違う意味で邪魔しずらくなってしまった……)
二人が密着しているらしい状況を察した俺は、何やら立ち入るタイミングを逃してしまったような気持ちになってくる。
しかしそれ以上に二人がこんなに親し気にしている状態を邪魔しようとも思えず、俺はこのままそっと耳を離して遠ざかろうとした。
『……こ、子ども扱いしないでよぉ……うぅ……そ、それよりも最初に言ってた史郎おじさんの面白エピソードもっと聞かせてよぉ』
『ふふふ、はいはい……それじゃあ何にしようかなぁ……そう言えば知ってる? 史郎って昔、授業中に格好良い小説を書いてたことがあっ……』
「あああっ!! 良いお風呂だったぁあああっ!!」
「「っ!!?」」
だがそこで二人の話が飛んでも無い方向に飛んでいきそうな気配を感じた俺は、逆に勢いよくドアを開いて会話を止めてやるのだった。
(そ、そんな話されてたまるかぁああっ!! 何気軽に人の黒歴史穿り返そうとしてるんだよっ!? というか最初は俺の面白エピソードから始まったって……い、一体何を話しやがったんだこいつらぁっ!?)
「お、遅かったじゃん史郎おじ……はにゃぁあああっ!?」
「お、お湯加減はどう……あ……へぇ~……」
「な、なんだよ二人してっ!? 何を見て……はぅっ!?」
「し、史郎おじさん何っ!? 何なのそんなに肌を晒してっ!? 半裸でゆーわくしてるの直美の事っ!? で、でも直美いきなりすぎてちょっと心の準備をっ!?」
「史郎って意外と身体が引き締まってるんだね……うん、凄く素敵だけど急にどうして……ま、まさかもしかして三人でとかっ!? だ、駄目だからね史郎っ!!」
「ち、違っ!? ちょ、ちょっと着替え忘れてただけで……ふ、二人してジロジロみないでよぉおおっ!!」
色々叫びながらも目を皿のようにして俺の身体を上から下まで舐めまわしてくる二人の視線を受けて、俺は必死に身体を両手で隠しながら逃げるようにその場を立ち去るのだった。




