霧島と史郎⑩
「じゃあ直美……ママ行ってくるから……」
「ままぁ……はやくかえってきてね……」
不安そうに私を見つめる直美に何とか笑顔で答えて、私は部屋のドアを閉じた。
「はぁ…………」
途端に笑顔がくずれて、ため息まで漏れてしまう。
これからやりたくもないことをしに行かなければいけないのだ。
だからどうしても気分が落ち込んでしまう。
(しっかりしろ私……これから直美を育てていくんだぞ……史郎たちにいつまでも迷惑かけてちゃ駄目なんだから……頑張らなきゃ……頑張ろう……)
他に方法はないのだからと、何度自分に言い聞かせてもやる気は出てこない。
それでも何とか史郎の部屋まで移動すると、軽くドアをノックした。
『何?』
「ごめん、今からちょっと出かけなきゃいけなくて……直美の事お願いします……」
僅かに開かれたドアの隙間からメモを差し出す史郎に頭を下げる。
すると史郎は新しいメモを書いて寄こす。
『どこ行くんだ?』
「……お仕事……お金稼いでくるよ」
『就職したのか? いつの間に?』
「まあ……ちょっとね……とにかく直美をお願いねっ!! じゃあ行ってくるからっ!!」
「……っ」
まだ何か言いたげな史郎との会話を強引に打ち切ると、私は一度一階に降りると居間の窓からそっと隣の様子を伺った。
私の知っている通りなら母は仕事中のはずだが、警戒するに越したことはない。
(明かりはついてない……よし、大丈夫そうだ……今のうちに……)
私は足早に雨宮家を後にすると、男と約束している駅前へと急いだ。
待ち合わせ場所に到着して、早速合流しようと周りを見回しているとそれらしい男がこちらに気が付いたようで下種な笑みを浮かべながら近づいてきた。
「へぇ、君みたいな子が……本当に良いの?」
じろじろと私の身体を舐めまわすように見つめる男の視線が、どうしてかとてもおぞましく感じてしまう。
これまでは全くそんなことはなかった、むしろ自分の魅力を認められているようでどこか誇らしかったというのに。
(我慢我慢……お金を稼ぐため……直美の為……史郎に迷惑をかけないため……だから我慢しなきゃ……)
「……約束のお金は?」
「ちゃんと用意しているよ……じゃああっちに俺の車があるからそれで移動しようか?」
男は早く移動したいとばかりにこちらに手を伸ばし引っ張って行こうとする。
込み上げる感情を堪えながら男の誘導に素直に従おうとした私は……だけど手が触れる寸前で史郎のことが思い出されてしまった。
(や、やっぱり嫌……駄目っ!!)
「つぅっ!? な、何すんだっ!?」
「あ……」
反射的に手を振り払ってしまった私を男は睨みつけてくる。
だけどやっぱり私にはもうこんなことはできそうになかった。
私は何とか男を断ろうと口を動かそうとした。
「亜紀ぃっ!! 見つけたわよっ!!」
「え……お、お母さ……ど、どうして……仕事は……」
「もうとっくに首になったわよっ!! それもこれも全部あなたの……まだ男遊びがし足りないのあんたはぁっ!?」
「ひぃっ!? お、俺は関係ないからっ!!」
そこへ目を血走らせた母が割って入ってきて、その余りの形相に男はさっさと逃げ出してしまう。
私も逃げようとしたけれど手を掴まれてしまって、物凄い力で締め付けられて振り払うこともできなかった。
「ほら帰るわよっ!! 直美はどこなのっ!? 直美出て来なさいっ!!」
「お、落ち着いてお母さん……直美はここにはいないから……」
「じゃあどこに隠したのよっ!? どうして貴方は私に逆らって馬鹿にして……いい加減にしなさいよっ!!」
駅前で騒ぎ立てる母親のせいで周囲の注目が集まってくるが誰も関わろうとはしてこない。
しかし世間体を気にする母は、今更ながらにこの状況が耐えかねるようで周りを見回した後で私に焦ったような声をかけてくる。
「とにかく一度帰るわよ亜紀っ!! ほら来なさいっ!!」
「お、お母さん痛い……そんなに引っ張らないで……」
「こうしないとあなたはすぐ何処かに行くでしょうがっ!! 本当に私の言うことを聞かない駄目な子なんだからあんたはっ!!」
私の抵抗も虚しく、母は信じられないぐらいの力で無理やり私を引っ張り強引に家まで連れ帰ってしまう。
途中で雨宮家を通り過ぎる際に助けを呼ぶかとも思ったけど、止めておいた。
せっかく直美は庇えているのに、下手に声をかけて出てこられたらそれこそお終いだ。
何より……もうこれ以上私の事で史郎に迷惑をかけたくなかった。
(これも私のミスだもんね……私が母に見つからなきゃ……あの時男の手を払って注目を集めたせいで……どうして私って馬鹿なんだろう……)
「それで直美はどこなのっ!! どうせあんたのことだから何処かの男にでも押し付けてきんでしょっ!? あの子まであんたみたいに男狂いになったらお終いよっ!! ほら早く話しなさいっ!!」
「……お母さん……私が悪かったから……謝るから……直美のことは放っておいてあげてよぉ」
「何を言ってるのよっ!! 私はあの子のことを思って言ってるのよっ!! あんたみたいにペット扱いしてるわけでもないしちゃんと保護者として責任を感じて動いているのよっ!! 何でそれが分からないのっ!!」
奇声を上げる母からは、かつての面影は全く見られなかった。
「直美苦しそうだったよ……怒るなら私だけにしてよ……悪いのは私でしょぉ……うぅ……謝るからぁ……もう直美は勘弁してあげてよぉ……」
謝罪しながらも私は涙が止まらなかった。
ここまで母をおかしくしてしまったのは私のせいでもあるのだ。
(どうして私はお母さんがこんなになるまで、何もかも押し付けて遊び惚けてたんだろう……あれだけ止めてって言われた男遊びなんかしてたんだろう……)
父が帰らなくて母がストレスを感じていることは知っていた。
それでも私は面倒ごとは何もかも放り投げて、好き放題生きて尻拭いは全て母に押し付けてしまっていた。
そうして誰にも相談できず一人で悩みを抱え込んで……母は壊れてしまったのだろう。
私も直美と二人きりになって、誰にも相談できないという母と同じ立場に置かれて今更ながらそれがどれだけ辛かったのかわかってしまった。
(史郎にも相談できなくて、辛くていやだけどこうするしかないって方法を選ぶしかなくて……それでも直美が笑ってくれるから何とか耐えられそうだったけど……私はお母さんに笑うどころか文句ばっかりつけて……ごめんねお母さん……もっと早く気づくべきだったね……)
「ふざけないでっ!! あなたが謝ったって何も変わらないでしょぉっ!! それより直美はどこなのっ!! いい加減白状しなさいっ!!」
「っ!?」
だけど私の想いは全く母には届かなかった、もう手遅れ過ぎたのだろう。
手を振り上げたかと思うと、私の頬に思いっきりビンタしてきた。
同じ女とは思えない力で、私は体勢を崩して床に崩れ落ちた。
「あなたはどうしてっ!! 何で私にっ!! こんなに頑張ってるのにっ!! あの人もあなたも直美もっ!! みんなみんな私を馬鹿にしてっ!!」
「っ!? お、おかっ!? あうぅっ!?」
もう正気すら失っているのか、母はぶつ切りの声を発しながら私にのしかかり殴り掛かってきた。
こんな風に暴力を受けるのは初めてで私はショックのあまり、抵抗もできずただ顔を守ることしかできなかった。
(痛い……凄く痛いよぉ……けど多分お母さんも……)
ちらりと母の顔を見れば、物凄い形相で……だけど涙を流しながら両手を振り下ろしていた。
その両手がぶつかるたびに身体が痛くなり、それ以上に心が苦しくなる。
「お、お母さん……ごめんなさい……うぅ……ごめんなさぁい……」
「今更っ!! そうやってっ!! 何が御免なさいよっ!! 嘘ばっかりっ!! ああもうっ!! こんなの嫌ぁっ!!」
もう私の言葉は全く母には届かないようだ。
そしてついに母は両手を使って、私の首を締め上げてきた。
「お、おかあ……さ……」
「もうこんなのならいっそこのまま二人で……死……」
涙を流しながら母は両手に力を込めていく。
どんどん息苦しくなっていって、だけど私は何やらどうしようもなく虚しくて抵抗する気になれなかった。
(私のせいだもんね……私が馬鹿だから……ごめんねお母さん……せめて一緒に……)
私は何もかも諦めてゆっくり目を閉じようとした。
『ままぁ……はやくかえってきてね……』
(な、直美っ!?)
だけどその瞬間、別れ際に交わした直美との約束を思い出した。
不安そうに寂しそうにつぶやいた直美、もしこのまま私が帰らなければあの子はどれだけ悲しむだろうか。
「あ……あぁああああああっ!!」
「っ!?」
あの子を泣かせたくない、そう思ったら自分でも驚くぐらいの力が湧いてきた。
強引に母を振り払うと私は玄関に飛びついて、外へと逃げ出した。
「待ちなさい亜紀っ!!」
「あうっ!?」
だけど母もすぐに起き上がると、私に飛びついて再度地面に組み敷いてくる。
そしてどこから取り出したのか、果物ナイフを握り締めていてその手を思いっきり振りかぶった。
「もう逃がさないっ!! あなただけはっ!! 私がっ!!」
「い、嫌っ!! た、助けて……史郎ぉっ!!」
土壇場のピンチに私が助けを求められる相手は一人しかいなかった。
「亜紀っ!!」
「っ!?」
そして……いつだって史郎は私のそんな声に応えてくれる。
「じゃ、邪魔しないでっ!!」
「逃げろ亜紀っ!! 家に入って警察呼べっ!!」
「う、うんっ!!」
「ま、待ちなさい亜紀ぃいいいっ!!」
史郎が母を抑えている間に、私は急いで雨宮家に戻ると即座に警察へ通報した。
そしてすぐに史郎を助けようと戻ろうとした私の脚に、気が付いたら直美が涙目で縋りついていた。
「ま、ままぁ……うぅ……」
「ごめんね直美、今だけは部屋に居て……絶対にすぐ戻るからお願いっ!!」
「やぁ……なおみままといっしょにいるぅ……こわいのぉ……」
「な、直美……」
どうしても直美は離れてくれなくて、私は結局史郎の無事を祈りながら警察の到着を待つことしかできなかった。
(史郎……お願い無理しないで……史郎……無事でいて……どうか神様、私はどうなっても良いですから史郎だけは……お願いです……)
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