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一、孤独な男

一人でいい。 僕は絵筆を小さく動かした。

 乾いた音がアトリエに反響して、カンバスの上に一滴の葡萄の粒が転がる。

 絵を描く事は孤独だ。 孤独な者の特権だ。

 筆先が、虹色の光を帯びた葡萄をカンバスに垂らした。

 書き上げた絵を少し遠くから眺める。

 いい感じじゃないか?

 黒い痩せこけたテーブルの上に一粒だけ零れた色を失った葡萄は、決して元の房へと戻る事は無いだろうとそう思えた。

 出来上がった絵画を軽くチェックして筆を置くと、カンバスの前、小さなテーブルの上に置かれたアクリルの飼育箱からよく見える様にイーゼルを回転させる。

「どう……かな」

 ケージの中のカナヘビは少しのあいだ、その黒いつぶらな瞳でじーっと絵を見ていたが、ふっと飼育箱の岩陰に潜ると、淡い茶色の細長い尻尾だけを岩の外に出した。

「だめか」

 がっかりとうなだれる。 彼が気に入らないならきっとこの絵は売れないだろうと思う。

 カナヘビにあげる餌の虫を虫かごから取り出そうとして、それが最後の一匹な事に気がついた。

「しまったな……捕まえて来ないと」

 僕は数日ぶりに家から出る事になった。

 家から出ると言っても、庭までだ。 虫網を持って僕は何とか玄関にたどり着ける程度には草を刈った庭で、数匹の小さな虫を捕まえる。

 それから、ポストの中にいっぱいになった手紙を抜き取ってまた、家に帰った。

 土間に座って手紙を広げると、それを一枚一枚手に取った。

 とは言え、僕宛の手紙なんて大した物はない。  光熱費の支払いの催促状、なんだかよく分からない化粧品のチラシ、それからこれは……僕の所属している美術団体『絵画の会』からの懇親会の知らせ。

 支払いの紙を冷蔵庫に貼って、その他諸々のチラシやらをゴミ箱に押し込む。

 それから懇親会のお誘いの手紙も一緒にゴミ箱に入れた。

 僕は人とのコミュニケーションが苦手だ。 懇親会なんて行った所で一人寂しく食事をするだけになるだろう事は想像に難くない。


 そういえば今日は土曜日だ。 そうようやく思い出したのは、つい予定の時間の二時間前の事だった。

 僕は散らばった絵の具や飲みかけのコーヒーを片付けると玄関からアトリエまでを軽く掃除機をかける。

 そこまでやってふと思い出して、庭の草を歩きやすいように刈った。

 汗だくだ。 軽くシャワーを浴びて髪を拭いた頃にはもう予定の三十分前だった。

 慌てて彼女の道具を準備して、ポットに新しいお湯を入れておく。

 そこまでやって椅子に座ると、やっぱり人と関わるのは大変だと独り言が漏れた。

 この絵画教室をはじめるまでは、殆ど絵以外とは関わって来なかったのだ。 家族もいない。 当然、アトリエに人を呼んだ事等ないので最初はこれでいいのかと少し不安だったが、彼女は特に何も言わずに僕の出すお茶やお菓子を楽しんでいた。

 話すのは苦手でもせめて茶葉くらいはと、少し奮発したのが良かったのかもしれない。 


 彼女の描きかけの絵を見る。

 河原の側、マンションの建ち並ぶ一角を切り取っただろうその風景は眩い夕方の光に煌めいている。 瞳の水分に滲む様な浅くぼやけた描写は、彼女の意図した通りにその灰色の無機質なビルの外観を、実際以上の美しさに昇華しているだろう事は一目見て明らかだった。 

 僕が食い詰めてはじめたこの絵画教室に彼女が通い始めてもう一年になるだろうか?

 彼女の成長は凄まじい物がある。 

 この一年で僕の絵画の技術を乾いたスポンジの様にグングンと吸収した。 この絵を見れば解るだろうが、今では僕なんかの絵よりずっと美しい絵を描く様になっていた。

 その事について僕は少し申し訳なく思う。 僕の様な無口な先生の元でこれ程の才能が開花したのだ。 きっともっと教える事の上手い先生の元でなら彼女は超一流の画家となり得ただろう。

 いや、これからそうなって欲しいと思わずにはいられなかった。 

 ただ、彼女の絵について僕は少し思うところもあった。


 壊れてしまってしばらく経つ僕のアトリエのインターホンの代わりに玄関をノックする音がアトリエに響く。

 彼女が来た様だ。


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