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涼子が幼いころ、彼女の父親は「ちゃんと見るように」と口癖のように言って教えた。彼女はその箴言を疑わなかったし、子供ながらに父を尊敬していた。小学生になった頃、父はテレビのニュースをつまらなそうに眺めていた。そのニュースは大規模なストライキの映像を伝えたもので、涼子はストライキとは何なのかを尋ねた後に、どうしてストライキが起こってしまったのかを父に訊いた。父はその時も「ちゃんと見るように」とだけ言って聞かせた。その言葉の意味が「物事の本質を見抜くように」という含意があったことに気づいたのは中学生の時だった。涼子はそこでようやく印象に残っていたストライキのニュースを「ちゃんと見る」ことができた。企業内の労使の対立でも思想主義の発露でもない。涼子はそれを情報ギャップによって生まれた人生の質の危機だと解釈した。それには「無敵の人」が国内で増加傾向にあることも思考の手がかりとなった。
誰にも必要とされない人が大勢いる。それは個人の独自性という意味ではなく、個人の人生におけるすべての事柄において。涼子は最終的に、この国に「人間」はいらないと結論付けた。
そうした変化があの街にも起き始めている。涼子はその変化を阻止するつもりはなかった。保守的になったところで変化は止まらない。物事の本質は「テセウスの船」のように人々の記憶の中にしか残らないのだ。
ならば、と翻って主観的に思考した。私はあの街の変化を歓迎しているわけではない。それでも変化を許している。それは客観的に変化を歓迎していることにはならないだろうか。長時間の退屈で次第に考えることがなくなり、答えの出ない問題を考え始めていた。
車内で、フロントガラスの手前に暗視カメラを置き、調査対象者が事務所から出てくるのを待ち続ける。調査対象者の車に着けた発信機からこの事務所にいることは間違いなかった。
相手は覚醒剤のルートを妨害している者を捜索している最中に浮かび上がってきた男だった。他の依頼をこなしながらではあるが、すでに三か月ほどは同じ男に張り付いている。
男が事務所から出てきた。涼子はその姿を数枚隠し撮りし、男が自身のクラウンに乗り込んだのを確認して自分もエンジンを始動する。助手席に置いた携帯端末が鳴ったのはギアを入れるのとほぼ同時だった。
「もしもし」
スピーカー越しに睦希の尋常でない荒い息遣いが聞こえてくる。彼女とは付き合い始めて一週間が経っていた。
睦希は落ち着かない様子で電車に乗っていた。涼子には尾行を中断し、そのまま車で走りながら途中で拾うように伝えた。座席は空いていたが精神的に座る余裕がない。車窓から射す杪冬の陽は刻々と沈んでいく。
白城はどうして今更連絡なんてしてきたのか。頭の中は混乱していたが立ち止まっている時間はない。睦希はスクールバッグの隙間からケーブルを伸ばしジャックに嵌めた。冷静になっても彼女の真意は汲み取れない。
電車を降りて指定した南口から出ると、涼子の乗った車はすぐに見つかった。すぐに乗り込んで車を発進させる。時間帯的にある程度混雑はしていたが車が進まないほどではなかった。
「何があったの」
「狙われてる。家にもあの街にもしばらく戻らない方がいい」
「そんなこと知ってるわ。狙われてるからあなたを雇ったんだもの」
命の危機であるというのに、涼子は特に動揺した様子もなくハンドルを切った。車はそのまま首都高速に乗り目的地もなく加速する。睦希はスクールバックからカフェイン錠剤を出して五粒を一気に飲み下す。身体を捻り、夜の暗闇に浮かぶ後続車のヘッドライトを何度か確かめた。
「後ろにつけてる黒塗りのBMW、さっきからずっとつけてきてる。距離を詰めてきたら絶対に仕掛けてくる」
「どうして言い切れるの」
「勘」と答えた。説得力は限りなく皆無だったが、白城さんが教えてくれた、とは言えなかった。カバンから装備を取り出して、「標本瓶」を腰に下げる。拳銃のスライドを引いてデコックした。
その瞬間、発砲音と破裂音が同時に響いた。車体が大きく揺れて、破裂した片側の後輪に車体の重心が偏る。睦希は助手席の窓から身体を乗り出し、追手のヘッドライトに目を細めながら続けざまに発砲した。車体が安定せず、射線に上手く捉えることができない。追手は挑発するようにテールライトを破壊する。
「頭下げて!」
闇に炎が散り、リアガラスが粉々に砕け散って散弾が車内に飛散した。手ごたえのないまま、弾倉を落とし交換する。運転席からの銃撃。相手は一人。しかし防弾なのは厄介だった。タイヤ、ボンネット、フロントガラスを撃ち、確実に命中はしていたがまったく怯まない。9x19mmパラベラム弾では為す術なく、睦希は苦い顔をしてシートに身体を預ける。顔を出さないでいると牽制するような銃弾しか飛んでこない。タイヤが破裂し、こっちはもう虫の息だ。狐狩りを楽しんでいるとしか思えない。それも手負いの狐を。
「涼子さんは誰に恨みを買われてるの」
「分からないわ。職業柄、逆恨みも多い」
「たぶん私の見立てではヤクザ。車的に」
カンッ、と甲高い音にミスマッチな殴られたような衝撃が座席に伝わってくる。
「捕まって」
涼子は表情一つ崩さず直線を避けるためハンドルを切った。追手を誘導するため直前で車線を変えたせいでスキール音が尾を引き、車体は後輪を滑らすような形になる。自動料金所をすり抜け高速を下りると、そこは仄暗い街灯と実際的な民家の明かりが集約したスラム街だった。
路地を何度か折れたところで車を捨てた。長くは走れない上、発信機をつけられている恐れがあった。辺りはビル街の喧騒に反して静かだったが、囁くような会話が戸口から漏れていた。辺りを警戒しながら睦希が先導する。辺りには朽ちたオフィスビルが立ち並んでいた。ひとつのビルに何世帯かが暮らしているようで、割れた窓には雨風を凌ぐ布が掛けられてある。道路はひび割れ、外側線の上には砂埃とゴミが堆積していた。饐えた臭いと糞尿の異臭が鼻を突き、それは密集した民家を奥へと進むたびに強くなっていく。足を止めずに逃げ続けていると、朝が遠く、明けぬ夜のなかを永遠に歩いているような、暗澹たる気持ちになっていった。
睦希は、先導はするがスラムに足を踏み入れたことは今までになかった。スラムは都心からごく近い数キロの場所に位置しているが、多くの者が足を踏み入れたくない場所のひとつと認識している。海面上昇によってもぬけの殻になった都市の一部に、外国人労働者や浮浪者が住み着いた場所だ。以来、バラックのひとつも見当たらないこの土地は、老朽化に歯止めをかけることができないまま多種多様の文化を内包し成長し続けている。家賃はあってないようなもの。住民の移動は特定できない。違法な商売や売春宿が横行しているが法執行機関も手を出すことができず諦めていた。実際のところ、労働集約型の工場の多くはこうした場所で生活する人々によって支えられている。
「睦希……一ついい?」
「何」
「私、どんなに逃げてもあの街からは出る気はないわ」
足を止めて降り返った。却下しようとした。そんなことを言っている場合じゃない、と。瓦礫の散らばるアーケード商店街の真ん中で、涼子は真剣な眼差しのまま立ち尽くしていた。足場の悪い道を長距離移動したせいで息が上がっている。彼女の表情に滲むのは覚悟というより諦観だと判断した。そしてそれなら尚更、彼女をここから連れ出さなくてはならない。
「勝手に諦めないで」
睦希は強く彼女の手首を握る。
「そういう意味じゃないのよ」
物憂げなその表情に、睦希は悟った。あの街にいる者は望んでそこにいるのだ。勝手に押し込められて逃げ出す機会を窺っているわけではない。遠くで野良犬が吠えた。辺りからは人の囁き声は消え、生活感のない建物が整然としている。迷路のようなスラムを進み、浸水の激しい地区へと近づいていた。
「だとしても変わらない。私兵として仕事を引き受けたんだから」
「律義ね。他の言い方もあるんじゃない」
涼子は弱々しく笑って見せ、睦希の手に指先を重ねた。表情は優しかったが指先は少し震えていた。
追手の気配は常に消えない。気のせいではなく、あれだけ遊んで追い詰めないはずがない。監視されているような視線だけが追い詰めてくる。疲労から永遠に走り続けるわけにもいかず、小休憩を取りながら逃げていると、時刻は日の出に近づいていた。
狭い路地裏に差し掛かる。その瞬間、細く路地に差し込んでいた街灯が陰り、広い通りへと続く路地の先に黒く長身の貌があった。睦希は反射的に涼子を押し倒す。轟音が頭上を掠める。起き上がり際、肩越しに逆光に立つ相手に狙いを定め引き金を引いた。眉間を射抜くはずの弾丸は素早い機転と身体能力によって躱され、二発の散弾が脇の壁を抉った。敵は大通りへと出て姿を消す。
三発の散弾。それで相手は引いた。
日本の猟銃所持の法令では、散弾銃には三発までしか装填してはならないことになっているのを思い出す。博打的な発想だったが刹那に決断を下した。引き留めようとする声が背中にぶつかる。頭を低く構え大通りへと飛び出て銃口を向けた。
ゴーストタウンの静寂がそこには満ちていた。割れた道路の先に捨て置かれた運輸会社の倉庫が鎮座している。速やかに辺りを見回すが、人の姿はおろか動くものの気配さえない。呼吸が荒くなっている。「姉」と接続していながら緊張によって心拍数が上昇していた。一歩踏み出すごとに、自分の呼吸だけが世界に木霊する。
その時、廃車となった鉄くずから影が飛び出した。拳銃を構える前に距離を詰められナイフに手を掛けたが、次の瞬間には靴先が鳩尾にめり込み内臓が拉げたのを理解した。罠に嵌められたのだ。睦希の身体は荒れたコンクリートの上を転がり、うつ伏せに制止する。口から吐瀉物が漏れ、うまく呼吸ができない。目だけで見上げる先、鉄骨のような散弾銃を突きつけるその顔面は、半分だけが街灯の光を浴び浮かび上がっていた。
「……白城」
「睦希ちゃんなら……選んでくれる?」
質問の意図を思案する間もなく、拳銃を蹴られ手から離れる。白城が表情を翳らせると、銃声が響いた。睦希の右脚の関節が無造作に手折られた枝のようになる。鮮血が暗闇を吸って黒ずんでいく。〈標本瓶〉によって怯懦は微塵も感じなかった。しかし、激痛と虚脱感が身体を支配して筋肉が錆びついたかのように動かない。
白城の腕が上がり、銃身は水平に路地の方へ向けられる。睦希の視界の端に、へたり込んだまま身体を硬直させる涼子の姿が映った。
睦希は自分を見つめる彼女の目に、白城の影があることを知っていた。寄せられた熱い視線に応えようとすれば取り繕われ、あしらわれる。そのたびに気が遠く、透明な冷たい手で心臓を握られているような痛みがあった。しかし今こうして、二人が奇跡的な運命に祝福され再開していると思うと、ただ感謝したくなる。頭を地に擦りつけひれ伏し、永遠に感謝だけをどうしようもなく壊れた機械のように繰り返したくなる。
白城は無表情に引き金の遊びを絞る。そしてほんの一瞬だけ、睦希に微笑んだ。余裕のあるたおやかな笑みだった。
――涼子は声もなくその場に硬直した。睦希の手にはナイフが握られ、湾曲した刃には血が滴っている。
腕と左脚で飛び跳ねるように起き上がった睦希が、白城の頸動脈を冷静に素早く掻き切ったのだ。彼女は後ろによろけ、膝から崩れた音が朽ちた大通りに響く。もうすぐ死体になるであろう彼女は道路で仰向けのまま喉から呼吸を漏らし、喘鳴と血を吐き出していた。
紺碧の空にうっすらと陽光が差し始め、雲が星を攫おうと流れる。虚ろなビル風が遠くで吹いていた。




