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馬老涼子にとって暗闇は幼少の頃から恐れる対象ではなかった。むしろ積極的にその闇を覗き込むのが趣味であって、それがどのような種類の闇なのか品定めするだけの判断力は昔から鋭い方だった。郊外の倒れかけた探偵事務所に就職すると、その能力にはさらに磨きがかかり、審美眼とも言えるようなものが身についていった。
探偵業において、依頼者に伝えるのは調査対象者の客観的な情報に過ぎない。しかし彼女はそのさらに奥、調査対象者の心理までを論理的に想像するのが好きだった。当然、調査対象者の内面までは依頼者に伝えたりはしない。依頼者は精神鑑定を依頼したわけではないからだ。
彼女は、それに飽きていた。
浮気調査に採用調査、盗聴器の捜索は次第に物足りなくなっていった。それでも、天職と思える探偵業を辞めるつもりはない。そこで彼女は、探偵である以上、人の心的機制を思考したところで愚にもつかないものと看做されるのならば、調査対象者が一般人とはどこかかけ離れた存在であれば自分の空虚感を満たしてくれるのでは、と考えた。その時はちょうど国家による市民の監視と相反するようにプライバシー保護法が強化され、個人における調査はほぼ不可能の域に達していた。そういった経緯から彼女の探偵業は地下化した。今では零細ながら街の中ではそれなりに名を知られた事務所となっている。
「単刀直入にもう一度訊く。薬物を撒いてるの野郎は一体誰なんだ」
「結論から言うと、まだ何も。怪しい人物のリストにひとり追加したけど、増えただけで絞り込むことはできなかったわ」
鏡介は苦々しげに嘆息し、事務所のローテーブルに並べた資料に目を通す。涼子は、執拗で疑り深い彼の性格を時に疎ましく思いながらも、蓑輪組の組長としてのその人望や昔気質の義侠心には一目置いていた。目じりの皺は深く、頻繁に笑う人物であるようにも思えるが、笑顔など一度も見せたことがない。むしろ、三白眼の瞳と下顎の傷跡が容易には人を寄せ付けない風格を持ち出している。
一方で、鏡介の目の前、革張りのソファーに座りローテーブルの菓子をパクつく信吾には、そういった才覚は微塵も感じられない。肩はなで肩で全体的な線が細く、ややくたびれたスーツ姿は中堅サラリーマンと同系色の感がある。基本的に表情が薄く、良くも悪くも動じることがない。しかし、その得体の知れなさは逆に自身の属する紙之宮組でも恐れられているようだった。彼は常に組長の名代として参上するが鏡介に引けを取ることはない。それが何よりも彼が普通ではないことを証明していた。
「そういえば馬老さん、〈標本瓶〉を雇ったんだって? それって何、未練?」
信吾は湯呑を置いて目も合わせずに言う。視線は菓子の盛り合わせに釘付けになったままだ。あまりにも的確に見透かされ、涼子は少し言葉を詰まらせた。
「私のプライベートがあなたに何か関係あるのかしら」
「棘のある言い方だなぁ。こんなのちょっとした世間話の範疇だって。別に、あんたのプライベートなんか知りたくもない。でも、〈標本瓶〉にはちょっとした興味がある。通販で売ってるのなら今度買ってみたいんだ」
正偽の判別が難しい軽飄な言い草に涼子は怒りを覚えた。しかし、こうした揶揄いは今まで一度や二度ではなく、感情を抑え込むのも含めもはや慣れていた。
〈標本瓶〉はその名の如く、中には標本のように人間の脳が詰められている代物である。瓶の形状に合わせて脳は変形しているが脳自体の肉感や脳梁などは見て取れ、標本と名付けられるだけの概観をしている。しかし実際にはそれは、人工神経細胞のケーブルで自身の脳と接続することにより、前頭前野に働く負担を代替えする機能を有するものであった。つまり〈標本瓶〉は、真っ当な人間に生じる暴力や殺人などでの精神的負担を瓶詰の脳に肩代わさせるという、ごみ箱的な装置だ。
睦希はまさにその良い例で、男をひとり切りつけても狼狽えることはなく、その眼光は次に暴力を振るうであろう者に対して殺気を放っていた。彼女は自身の所持する〈標本瓶〉を「姉」だと言い張っていたが、それはほぼ間違いない。〈標本瓶〉として接続できるのは遺伝子的なクローンである一卵性双生児同士だけだ。
「とにかく、鏡介さん。また進展はなし。捜索はいつも通りの硬直状態ってことで」
「このままやられっぱなしでいられるか!」
鏡介は誰ともなしに恫喝し、呑気に構える信吾を脅すように事務所のテーブルを叩いた。蓑輪組と紙之宮組はこの街で協力・共存関係にあるが、シノギとしている覚醒剤のルートが三年前から荒らされており、どちらの組もその根源を潰すことに躍起になっている。売人の手がかりはあるものの正確性に欠け、両組とも手をこまねいているのが現状だった。
「話は住んだようだから帰らせてもらうよ。結局、これまでと同様の地味で尾籠な人海戦術に頼った捜索しかないってことで」
「勝手にまとめて帰んじゃねぇ!」
「なら、他に何か?」
煽るような物言いに鏡介は怒りを逆なでさせられたが返せる言葉はなく、信吾はそのまま事務所を出ていった。涼子は一刻でも早くこの場を退出したかったが、今月の分の調査料をまだもらえていなかった。探偵として依頼され捜索したのだから、誰であろうと支払いはしてもらわなければならない。
鏡介はすでにローテーブルに用意していた茶封筒を涼子に投げつけ、追い払うように手を振った。客は選ぶべきだがこれは自身で選んだ客だ、と涼子は自身に言い聞かせる。茶封筒を丁寧にカバンへ入れ、静かに事務所を退出した。
涼子は疲労感と共に帰宅するなり、スーツ姿のままリビングのソファーに横になった。無駄な力が入っていたのか、右足だけ神経を潰されているような痛みがある。あの二人に挟まれての鼎談ではそれが常だった。ヤクザが勢力を縮小させているとはいえ、腐ってもヤクザに変わりない。彼女らが顔役として街を管理できていたのは一世代以上前の話だが、彼女らと対面する時に生じる動物的な恐怖心は常に拭えなかった。街では、ジョージ・オーウェルの『1984』に準え、賞賛もしくは皮肉的な意味合いを込めて、二人を偉大な兄弟と呼ぶものもいる。当然、涼子が対等に話せるような仲ではなかったが、客に対して迎合すればそれは弱みを握られていることに変わりないと腹を括っていた。商売を妨害されるわけにはいかない。それに、涼子はそんな二人に臆することなく振る舞うことに格別な達成感も感じていた。
「おかえり。どうしたの?」
一ヶ月前から同居人となった睦希はダイニングテーブルに座り〈標本瓶〉を眺めていた。初日は会話が成立しないほど小声で無口だったが、ここ数日は表面的な会話ならば問題なくできている。彼女は次第に家に慣れてきているようで、その様子に微笑ましさを感じた。ここ数日で、彼女は涼子のささやかな癒しのようになっている。
「大したことじゃないわ。ちょっと日頃の疲れが出た程度。あなたは今日もそれをずっと眺めていたの?」
「学校にいる時以外は。今日は人工血液の透析もしたし、お姉ちゃん元気そう」
涼子は仰向けになって上体を起こした。夕餉を作る気力はなかったが、同居人がいることを考えるとそうもいかない。
「馬老さん……居候の身として深く詮索するつもりはないけど、ナイトテーブルの引き出しに入ってる写真、あれは誰?」
突如、睦希が毛を逆なでされた猫のように警戒心を強めた。この様子だと写真の彼女が着ている服や手にした煙草なんかも家で発見したんだろう。この家には彼女の匂いが残り過ぎている。睦希の表情は真剣で、答えなければ永遠に見つめられるような気がした。この家に来て私の顔をちゃんと見てくれたのは初めてかもしれないと思うと、涼子は複雑な気持ちになる。
「恋人」
自分で発した言葉がひどく懐かしい。彼女との思い出を常に忘れないようにしようと記憶の中で何度も思い出し、その鮮明さを昨日と比較し続ける日々の中で、彼女のことを誰かに対して口にすることは滅多になかった。言葉を発したその瞬間、これまでの三年間何度も再生してきた記憶よりもはっきりとした像が脳裏に蘇った。
「名前は? ……もし、よかっただけど」
「白城茜。もうずっと前に私の前から消えたの。私って未練がましいでしょ。今でも彼女のものを家に残してるだなんて」
睦希は気まずそうになって口を噤む。涼子は白城が消えてから一年が経った夜、家に残された彼女の私物を処分するかどうか悩んだことを思い出した。結論的には捨てていないが、それが正しい判断だとは今でも思えていない。この三年間、彼女の代わりとなるような存在を身近に置くことで、心に深く空いた穴を埋めるよう努めてきた。恋人を新しく作るたびに彼女の私物の処分を検討した。そして恋人ができるたび、彼女を忘れ去ろうとしている自分が心底嫌いになった。新しい恋人探しには困らなかったが、新しい恋人とは決して長続きしなかった。だから、もっと簡便な関係を望んだ。家出をして居場所を失った女性を誘い、善意を装い家に泊めることにしたのだ。睦希も形式上は私兵として雇ったがそれはあくまでも副次的な理由だった。
「馬老さん、今日は私が料理していい?」
睦希は部屋着の袖を捲った。励まそうとしてくれていることに、涼子は少し可笑しくなった。こんなに優しくて可愛いのに、殺し屋だなんて嘘みたい。
「ありがとう」
ダイニングテーブルの上に置いた〈標本瓶〉の正面をキッチンに向け、睦希はキッチンに立った。しばらくすると軽快な音が聞こえ始め、白城の幻を見た。
ねぇ涼子、今日は私が作るよ。涼子は塩少なすぎ、高血圧じゃないんだから。涼子、調味料の位置ってこっちの引き出しにしていい? 取りづらくて。今日はお腹空いてるからいっぱい作って。涼子はお腹空いてない? 涼子、ローリエって家にあったっけ? 涼子、私の好み憶えてる? 卵は半熟で、パスタはちょっと固めがいい。
思えば、料理を二人でする時は茜が主導権を握っていた。私は茜の料理にケチをつけたりしなかったけど、茜は私の料理が気に食わないとはっきりとそれを口にした。喧嘩をすると二日間は絶対に私の手作りは食べなかった。そして三日目に動けなくなるほど食べてくれた。
涼子は溢れ出てくる思い出にひとつも喜べなかった。どの記憶を取り出してみても二度と自分の手元には戻らない。熱い涙が零れた。蟀谷を伝っていく。目を瞑り、記憶の濁流に身を預けた。時間も光景もその感触も、すべてがただ虚しかった。