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「六時になりました。ニュースをお伝えします。今日昼過ぎ、SKホールディングス代表取締役会長、過本正一郎氏が自宅の書斎で殺害されているのが発見されました。妻はおらず、子どもである中学生の二人は現在行方不明ということです」
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スクールバックの奥底で弾薬を一発見失っていた。探そうと中を漁るほど、望んでもいないヘアゴムが何度も出てくる。過木睦希は舌打ちをする寸前でその苛立ちを胸の裏側へ落とし込み、何とか堪えた。
舌打ちやため息をすると幸福が逃げていく。それと汚い言葉も。単なるジンクスに過ぎないことだったが、懐疑心を持ちながらも睦希は常にジンクスのもたらす光明を信じていた。ジンクスは時としてその効果を発揮し、思いもよらない方向へと人生を導く。それはジンクスの信奉者のみに与えられた特権だ。そんな些細なことでも幸福が運ばれてくる可能性があるのだとしたら、それを否定する必要性はない。
「出勤初日で申し訳ないわね。大丈夫、心配しないで。きっと簡単な仕事になるわ」
運転席からする艶のある声は、車内に木霊する雨音でより蠱惑的な印象になっていた。後部座席からは、肩までのウェーブの掛ったアッシュブラウンと左手首の腕時計からしか印象を窺えない。
涼子とは初めて会ってからまだ一時間ほどしか経っていない。初対面時に感じた清潔感のある妙齢の貴婦人といった印象はその時のまま記憶されているが、仕事の説明を手短に済ませ彼女の運転するレクサスに乗車すると、具体的な顔つきや顔面のパーツ、身体的な特徴などは匂いを持たない煙のように記憶の指先からするすると漏れ、大気と同化していった。睦希は彼女がそれを意図的に行っているのかは分からなかったが、確実にそれが彼女の探偵という職業柄功を奏していることは理解できた。
「さっきも伝えたように、あなたに頼みたいのは私の護衛。なるべく銃の使用は避けること。相手との話は私の仕事ね。相手はサービスの常識も知らないような蛮族だから、そこだけは覚悟しておいて」
嫌気と呆れを含んだ忠告を聞き流しながら、バックの底を漁っていると、睦希は涼子が身に着けていた腕時計のデザインをふと思い出した。オニキスブラックの文字盤にレザーのバンド、白抜きで細かく数字が刻まれたベゼル、計器のように配置されたクロノグラフ。女性の手首には無骨だが彼女には似合っていた。きっと彼女にしか似合わない。漠然とそんな考えが浮かんだ。
見つからない弾薬は諦め、一発不足した弾倉をすっかり手に馴染んだSIG SAUER P228に装填し、スライドを引いてデコックしてからホルスターに収める。マガジンの考案者は腕利きの時計職人だったという。それからの連想ゲームで腕時計が思い浮かんだのだ。
首都高を下り、しばらくすると窓ガラスにネオンの光が写り込み始めた。目的地が近いと察して、スクールバッグから1500mlペットボトルよりも一回り小さいくらいの円柱状のガラス管を取り出す。金属プレートとケブラー繊維の布で何重にもプロテクトが施したそれには、細い縦長の隙間があり中身が常に確認できるようにしてある。睦希はそれを学校制服の上から身に着けたタクティカルベルトの堅牢な金具に、ポーチのようにぶら下げた。ガラス管の側面に内蔵したケーブルを伸ばし、後頭部の髪に隠れたジャックに接続する。
濡れたキャミソールと肌の体温。これから行う仕事とは真逆の「姉」に優しく抱かれている感覚に、身体が心地よく脱力していく。睦希にとってその接続の瞬間が人生の何よりも意味のある瞬間だった。
お姉ちゃん、今日は簡単な仕事らしいよ。
仕上げにカバンに入れている茶色の小瓶から、手のひらに五、六粒のカフェイン錠剤を出して口に放り込む。目的地に到着したのはそれから数分してからだった。
車を駐車し下車すると、雇用主である涼子は颯爽と夜の街に足を踏み入れた。その姿を見れば彼女がこの街に慣れていることは明白だった。この街に慣れている人にまともな人はいない。それが睦希の持論だった。この街では、どこか狂っていて、酔狂で、顔面を剥ぐと弱って虚ろな顔をしている人が大半だ。彼女もきっとそんな例に漏れていない。
室内は適度に光量が抑えられ、各所に並べられたインテリアにはセンスが感じられた。しかし、ニコチンやタール、アセトアルデヒドなどが綯い交ぜになった有害物質の空気には、また別の違法な薬用植物を燻した悪臭もふんだんに混ざっているようで、空気は最悪だった。涼子が騒がしい人の波を切り分けるように進むたび、注がれる視線は打ち込まれていく釘のように深く皮膚に突き刺さる。睦希はこの数分で、雇い主というより飼い主に付き従う犬になった気分だった。
涼子が急に足を止める。目の前にはブルーのカウチに凭れる痩身の男がいた。不健康そうな女性を片腕に抱いて、アルコールを煽る男の姿。如何にもなリーダー格風の佇まいは、備えた品格の一旦というより意図的に醸し出している感がある。その陳腐な居住まいが想像と概ね合致していたことに、睦希は少し物足りなさを感じた。
「吉田隼人はその後よくやっているかしら」
「何かと思えば、冗談を手向けに来たのか。はっきり言って、彼は使い物にならない。あんたの見当違いだったよ」
「そう。見当違いだから料金を支払わないと」
「話が早い。そういうことだ」
涼子は僅かに長く目をつぶり目頭を揉んだ。男が帰るように出口の方へ手のひらを差し出す。左手にいた直参が厳つい体格に見合わぬ小ぶりのナイフをちらつかせた。
「申し訳ないけど、私は見当違いをした憶えはないし、見当違いなことを言った憶えもない。あるとすればそちら側の誤認。ならば、私の商売は正当なものであって、利用したならばその対価を支払うのが当然だと思わない?」
「非はこちらにあると?」
「話が早い。そういうことよ」
両者が静かに睨み合う。男は、顔は涼しげだが見下されることが遺憾なのかゆっくりと立ち上がった。直参が抜いたナイフを手で制する。視線は睦希に向けられていた。
「そこの女、ただの高校生ってわけじゃなさそうだな。腰にぶら下がってる〈標本瓶〉。俺は女の子の流行に疎いが、それは聞いたことがある」
男の視線が一瞬右側に逸れるのを睦希は見逃さなかった。足音が気配となってテクノミュージックの波に漣を起こす。足音は一人ではない。戦力と看做した睦希の首許に向かって幾本かの鈍色が牙を向けていた。
刹那、奇妙な悲鳴が上がった。それは女性特有の高い声音ではない。野太く、吐瀉物を吐き出す時に発するような情けない絶叫だった。
睦希の手には、刃に向かって反りのついたナイフ、S&Wのカランビットナイフが握られていた。白兵戦において人を殺すためだけにデザインされたそのナイフは、彼女の常用する得物のひとつだった。
タンクトップの男は腋下から血を零し続けている。渋面が冷や汗で引きつり、竦んだ足では立っているのが精々のようだ。睦希は当然その男の絶叫も返り血も浴びていた。それでも脳内は驚くほどクリアで、冷静以外の何物でもなかった。むしろ、ひとり切りつけたことで感覚が研ぎ澄まされ、自分を狙う他の男たちにどう対応するかを思考していた。
この一瞬で、この空間においてどちらが主導的地位に位置しているのかが明白になり、薄ら笑いを浮かべる涼子とは対照的に、リーダー格の男は顔面蒼白だった。片腕に抱く女性の腕にばかり力が入り、女の顔が見る見るうちに歪んでいく。
「私のところで行っている採用調査は良心的な値段だと自負している。私の目的は支払いだ。お前のようなちんけなマフィア気取りに恥の概念があるかは知らんが、あるのであれば速やかにやることを為した方がいい。一人倒れるごとに名を落とすことになるのはお前の方だぞ」
これまでの華やかな声音とは別の、深海の無音のような凄みを帯びた脅しだった。睦希はこの時感じた表裏一体の印象だけは、二度と忘れることがないような気がした。室内の熱気はいつの間にか消え失せ、彼女だけがこの空間の覇者となっていた。
帰宅途中の車内で、涼子は銃を抜かなかったことを褒め、抜かなくても十分な戦力になったことをさらに褒めた。睦希は行使させられることとなった自分の価値について、誇示も卑下もするつもりもなかった。やることをやっただけ。初めに伝えられた通り、今日の仕事は簡単だった。
しばらくして、車内の沈黙が嫌なのか涼子は先ほどの集団が何者であるのかを話し出した。彼らはマフィアになりかけた半グレであり、近頃徐々に支配範囲を広げつつある、ある意味で有望株の半グレであると説明した。加えて、彼女は衰退するヤクザについても語った。規模は縮小し、一時は伝説的にもなっていたがその概念は形骸化しつつある。彼らは一部を残して次第に社会から消えるか、半グレもしくはマフィアと同化したという。彼女はそれが暴対法に始まる各々の地域での条例による規制が激しさを増したからだと言い、プライバシー保護法の規制がダイレクトに影響する探偵業もそれに似ているところがあると自虐的な笑いを漏らした。
「腰につけていた〈標本瓶〉、本当に本物なのね」
疲労でうつらうつらしていたころへ投げかけられた質問に睦希は虚を突かれた。リーダー格の男と平然と対話していたので、自分の〈標本瓶〉については既知で、戦力は信用されているものだと思っていた。半信半疑でありながら大見得を切った涼子に、初対面で本名を言い当てられ感じた、底の見えない不気味な違和感が再燃した。
「そんな呼び方しないで。名前はちゃんとある。過本奈美希。私のお姉ちゃん」
「それは失礼。でも、給料は一人分、妹のあなたの分しか払えないけどいいかしら。見ての通り、私の事務所はあんな行儀のなっていない半グレを客にしなければならないような貧乏事務所。最初から二人雇うような契約はしていない」
「もちろんそれでいい」
「それと、一時の間眠るところを探してたわよね。それについては安心して、ちゃんと確保してあるから。暖房も冷房も私が思う生活必需品はちゃんと完備してあるところよ。それにしても面白いわね。殺し屋の家出なんて」
それを聞いて睦希はシートに深く背を預けた。仕事のあとはどの程度の仕事量であれ疲労感が表れる。特に頭痛が顕著だった。深く息を吐き出すと眠気がすぐに襲ってくる。警戒心を解いたわけではなかったが、意識はすぐに軽やかなロードノイズへ解けた。
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