無為
青年はしばし考える。
「なぜ自分は生きているのだろうか」
答えは出ない。
出るわけもない。
なぜなら、本気で考えていないからだ。
常に脳内のどこかへつきまとう疑問を感じながら、彼は出かける支度をする。
手提げのカバンに最低限のものを突っ込んで、彼は家を出る。
大学生だ。
カリキュラムは自分で決める。
年度の初めに自身の手で登録したこととはいえ、律儀に授業に出る必要がどこにあるのだろうか。
彼はぼんやりと考える。
答えは出ない。
出るわけもない。
なぜなら、本気で考えていないからだ。
親が悲しむ、外聞が悪い、クソ野郎だと思われたくない。
そんな表面的な思いが脳の襞をくすぐっている。
もちろん、授業料というものがある。
払ってしまっている以上、出ないのは経済的な損失だ。
両親に無意味な損失を負わせるのを無視できるほど、彼は無頼ではない。
一人暮らしの家を出て、のんびりと大学に着いた彼はぼんやりと授業を受ける。
哲学の授業だ。
「クオリアとは何か」
教授が語る話は、彼の鼓膜を揺らしはするが、彼の心は既に授業にない。
クオリア。
個人が世界を感じる感覚そのもの。
赤いものを赤いと感じる感覚。
なぜ赤でなくてはならないのか。
他人が赤と感じていることを、なぜ自分も赤と感じているのか。
そもそも自分の感じている赤は、赤なのだろうか。
自分の赤は、他人にとっての緑であったり紫であったりはしないのであろうか。
確かめる術はない。
彼に色盲の診断を下す医者は、少なくとも今まで生きてきていなかった。
そもそもクオリアは各人に依存する超個人的な感覚であり、それがその人にとって正しい感覚であるかは、本人にすら確かめる術はないのだ。
彼はぼんやりとそんなことを考えながら、配られたプリントに落書きをする。
お気に入りのギターの絵、特徴的な教師の似顔絵、お気に入りの漫画のキャラ。
正確な表現をするだけの画力などないことを再確認するような非生産的な作業。
それでも彼はぼんやりと筆を動かす。
気づけば、妙に漫画のキャラの再現にこだわっている自分がいる。
授業など、彼の意識の中にはない。
少なくともここ数十分の彼にとって、授業よりも、高次な思索よりも、漫画のキャラクターの顎の輪郭の方が重要であったことだけは間違いないようだ。
無意味なことにこだわっていると気づいたところで、終業のベルが鳴る。
他の生徒と同じく教室を出た彼は伸びをする。
気になる女の子がいないわけじゃない。
やってみたいことがないわけじゃない。
それでも、彼はそちらに踏み出すことなくぼんやりと日々を過ごす。
きっと、こうして日常は過ぎ、しかるべき時に就職活動をし、やがて卒業して就職するのだろう。
彼が耽った思索は、彼の人生になんの価値ももたらさず記憶の彼方に潰えることとなるのだろう。
そこまでわかっていながら、彼は踏み出すことをしない。
どうしようもなく虚無的な自分を感じながら、それもどこかで諦め受け入れている自分を感じているからだ。
その先にどんな後悔が待っていようと。
いや、後悔が待っていることがわかっていながら。
彼は今日も無為に一日を過ごしていく。