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二話

 ベッドに入ったのが午後十二時。それからまどろむまで、私の記憶が確かなら三時間はかかった。


「最悪……」


 重い足を引きずり通学路を往く。気分は断頭台に向かう死刑囚。大袈裟かもしれないが、私にとって今回の件はそれほどの意味を持つものであったと理解してほしい。

 朝起きてから数分の間、今日は休んでしまおうかとベッドの中で真剣に考えたが最終的にその案は脳内会議で否決された。もし今逃げたとしても問題を先延ばしにしていることは否めないし、何よりまだ選挙の原稿チェックを終えていない。私一人が責められるのはいいが、私のせいで他人が迷惑を被るのは性格上我慢ならない。

 そう、目下の問題はそれだ。放課後までにまとまった時間が取れるとすれば、昼休みくらいなものだ。しかしそれでも一人で片付けるにはギリギリアウトといったところか。

 もう一人応援が必要だ。


「めんどくさ……」


 口ではそう呟きつつも、私は校門を通り抜けて真っ直ぐに彼女の教室へと歩を進めた。




 後から思えば、それは数人いる同級生の生徒会役員の子に頼むのが一番手っ取り早い方法だっただろう。

何でその選択肢が頭に浮かんでこなかったのか。

 あれだけ出来る限り関わり合いになりたくなかった女の所に、どうして私は真っ先に足を向けたのか。

 言い訳なら何とでも言える。だけどここでは敢えて本音を話そう。

 どういった切っ掛けでもいい。会うことが出来たなら、何らかの形で機会は訪れるかもしれない。

 私は、もう一度だけ見たかったのだ。

 時任陽菜の、本当の素顔を。





 一年の廊下を歩くと、それなりに注目を浴びる。何だかんだで学内で生徒会の人間は

 悪い気はしなかったが、実際大勢の人の目に晒されるのは慣れていないので少し居心地が悪い。これでも来年は会長としてやっていくつもりなので、この程度で動揺しててはまだまだだと自覚する。

 確か彼女のクラスは五組。一番端っこだ。

 流石に教室にまで顔を出すのは恥ずかしかったので、廊下にいる子を適当に捕まえる。


「ねぇ、時任陽菜さんいる? ちょっと呼んでほしいのだけれど」


「へ? って、副会長!? ど、どどどうしたんですかこんなところまで」


「どうしたって……今言ったんだけど。時任陽菜さん、もう登校してる? 生徒会のことで伝えたいことがあるから」


「は、はいすぐ呼んできます!」


 変に緊張した様子で頷いたその子が教室に入って数秒、時任陽菜は相も変わらず落ち着き払った様相で私と顔を合わせた。


「……何ですか?」


 抑揚の無い声。平坦な眉。引き締まった唇。いつもの彼女だ。昨日走り去る前に、しどろもどろで謝罪の言葉を口にした人間と同一人物とはとても思えない。

 もしかしたら私は白昼夢でも見ていたのだろうか。そんな馬鹿馬鹿しい錯覚すら抱かせるくらいに、目の前の時任陽菜は徹頭徹尾平常運転だった。


「ちょっと、先輩? 用事あるんならさっさと言ってほしいんですけど」


 はっと我に返る。気付けばじっと時任陽菜を見つめてしまっていたようで、そのせいか周囲が変にざわめき立っている。意図しなくても私と時任陽菜の仲を噂するような発言が耳に付くが、そんなことはどうでもよかった。

 この時、私は少し混乱していたのだろう。原稿チェックの手伝いの申し出なんかよりも、私はそれを確かめずにはいられなかった。


「……昨日放課後、私と貴女って生徒会室にいたわよね?」


 何をトンチンカンなことを言っているのかと我ながら思う。だが、その質問に時任陽菜の顔色が明らかに変わった。僅かに強張った双眸からは動揺の色が見て取れ、ひゅっと息を呑む音が確かに聞こえた。

 あっ、と思った。

 これだ。やっぱりあの出来事は、私の勘違いなどではなかったんだ。

 瞬間、時任陽菜が私の手を強引に取った。かと思ったら、何も言わずに私を引っ張っていく形で、ずんずんと歩きだす。


「え、ちょ、何処行くの」


 反応は無し。背後からは色めきたった女子の黄色い声。おい、ちょっと待て。多分勘違いしてるぞ君ら。私と時任陽菜はそういう関係じゃない。まぁそう疑われてもおかしくないことをしでかしているのだが。て言うか先導しているこの女はこんな行動取ってしまって大丈夫なのか? 後で思いっきり噂されるパターンじゃないだろうか、これは。

 そんな取り留めのないことに思考を割いている間に、私は屋上へ通じる扉の前にまで連れられてしまっていた。因みに扉は南京錠がついていて開かない。普通学校の屋上なんてそんなものだ。

 繋がれた手が解かれる。結構な力で握られていたから少し手が赤い。


「――どういうつもりですか?」


「へ? どういうって……何が?」


 話が見えない。主語と述語をハッキリさせてほしい。

 ポカンとする私とは裏腹に、時任陽菜は苛つくような仕草で私を睨んできた。


「き、昨日のこと、あんな所で蒸し返して……」


 …………はぁ、そういうこと。


「あー、いや別に他意はないんだけど」


「なら何しに来たんですか」


 怒ってる。だけど言っちゃ悪いが全然怖くなかった。例えるなら、仔猫が気を逆立ててプルプル震えている感じというか……

 可愛い、なんて言ったらそれこそ怒り狂いそうだ。ポロっと零さないよう注意しなければ。


「あぁ、そうそう。昨日の続きなんだけど……頼める? 結局最後まで終わらなかったから……」


「なっ……!?」


 さっと頬に朱が差し、時任陽菜は二の句が継げないといった様子で口元をわななかせる。

 え? 何? そんな驚くようなこと言ったか? だって単に原稿の――


「あ」


 その時だった。自分の発言が時任陽菜にどう解釈されたのか理解してしまった。

 数秒餌を待ち構える鯉みたいに口をパクパクした後、ようやく頭の中で弁解の言葉が構築されて一気にそれを吐き出す。


「ちちちちちち違うから違うから違うから! そういう意味じゃない! 私はただ昨日の内に原稿チェックが終わんなかったから昼休みでも貴女に手伝ってもらおうと思ってただけで!」


 ああもう何でこんなにテンパってるんだ。馬鹿か私は。

 時任陽菜は時任陽菜で、片手で顔の下半分を覆いつつ視線を泳がせていた。両サイドの髪の隙間から見える耳は、火傷したんじゃないかってくらい真っ赤だ。斯く言う私も多分そうなってる。もう嫌だ死にたい。


「……話はそれだけですか?」


 溜め息と共に、呆れた口調で時任陽菜が微妙極まりない沈黙を破る。


「えぇ、それだけ」


「場所は?」


「生徒会室、でいい?」


「分かりました」


 淡々とそれだけ確認すると、時任陽菜は足早に去って行った。

 再び静寂。階下から響く朝の喧騒が、ここではないどこか遠くの世界のように感じられる。それもその筈、今この瞬間までここは確かに夕暮れ時の生徒会室だったのだから。

 私も早いところ教室に行かなければならない。登校してきた時間的に、あと数分で予鈴が鳴ってしまう。

 なのに、どうして私はその場から一歩も動かずに立ち尽くしているのだろうか。


「……わけ分かんない」


 時任陽菜も、私も。

 だけどここまでされて、もう気にするなっていうのが無理な注文だ。頭の中から時任陽菜のことを忘れようとすればするほど、さっきの赤面顔やら上ずった声が鮮明に想起される。その度に、私もまた彼女と同じような状態になるのだ。


「いやいやいやいや」


 おかしいおかしい。落ち着け私。相手は女だ。冷静になれ。多分これはアレだ。単に恥ずかしいだけだ。よくある話じゃないか。吊り橋効果とかそういうのだろう。違うか。

 思考が全くまとまってくれず、時間だけがただ徒に過ぎる。そうこうしている内に予鈴が校舎内に鳴り渡ってしまい、学内にいるのに朝っぱらから全力疾走する羽目に陥ってしまった。

 そうだ。こんなもの一過性の微熱のようなものだ。時間を置けばじき引いていく。

 きっとそう。というか、頼むからそうであってほしい。

 自分が自分の一番の理解者、なんて言葉は嘘だ。

 だって私自身が、自分を信じることが出来ていないのだから。

 



 

 面倒くさいことに、微熱は引かなかった。

 だからって昼休みに生徒会室で時任陽菜と何かあったなんてことはない。ちゃんとやることだけやって、時間は極々平和に過ぎていった。

 終わってから言えることだが、生徒会室で時任陽菜と二人きりだったあの時、これっぽっちも期待していなかったと言えばそれは嘘になる。何を期待していたかなんて訊くのは野暮だと理解してほしい。それを声に出して言うか首を括るかの二択を迫られたら、多分迷わず後者を選ぶ。

 何度かしょうもないことを考えては、その都度自己嫌悪に陥る様を時任陽菜に見咎められなかったのは運が良かった。もしかして見て見ぬふりをされていたかもしれないが、それでも面と向かって指摘されるよりマシだ。世の中には知らずにいた方が幸せないことがゴマンとある。


 この気持ちを何と形容すればいいのか分からない。まぁ薄々はそういうことなんじゃないのかと思っているものの、それを明確にしてしまえば色々と戻れない気がする。まだ確定ではないのだ。今の私が冷静ではないことくらい自覚している。

 ましてやそれを時任陽菜になんて気取られるわけにはいかない。もし私一人の勘違いだったとしたら、それこそ衝動的に屋上から飛び降りてしまいかねない。

 早とちりはダメだ。急いては事をし損じるって、昔の人も言っている。でもこのままでいるのも精神衛生上良くない。何となく。


 それから数日は別に何事もない日が続いた。

 しかし定期的な生徒会の集まりで時任陽菜を見る度に、何かと落ち着きがなくなってしまう自分がいた。

 だからその後しばらく考え込み、生徒会役員選挙が終わった頃――私は決めた。

 私からではなく、彼女から決定的なアクションを起こしてくれるのを待つ作戦だ。

 言っちゃ何だが、現状況下で時任陽菜から迫られたら多分私は拒まないだろう。ヘタレなり何なり蔑みたければ蔑むがいい。思い込みで暴走して自爆することを考えたら、これが最低限の妥協案なのだから。

 正直時任陽菜が私に対してどれだけ興味を持っているのかは不明瞭だ。だからそれを確かめるといった意味合いでも、私は少し冒険することにした。

 勘違いならそれはそれでいい。ちょっと寂しいけれど、いらない傷を負うよりマシである。





 それは気象庁から例年よりかなり早く梅雨入りが発表され、今日も今日とてジメジメした雨が降る嫌な感じの日だった。


「月乃ー今日隣のクラスの子と帰りに駅前のケーキ屋さん行くんだけど、一緒しない? て言うか行こ? 行くよね?」


 帰りのホームルームが終わって各々帰る用意をし始めた時、突如背後から誰かが抱きついてきた。

 振り返らずとも声で分かる。双葉あさぎ。席は私のすぐ後ろ。ついでに一年の頃からの友人でもある。


「んーパス」


「ええええええええええ!」


「っ!? うるさいわね……て言うか何でこんな雨降ってるのに、わざわざ駅前なんか行こうとしてるのよ」


「いや、なんか梅雨時は雨降ってる日に限定メニュー出る所でね、そこのケーキがめっちゃ美味しいの! ねーえー月乃もいこーよー」


 肩を掴まれ前へ後ろへと揺さぶられる。うぅむ、確かに気になる。あさぎの言う『めっちゃ美味しい』はかなり信用出来る。それは今までの経験から立証済みだ。最近甘いもの食べてなかったし、わりとそそられる話ではある。

 だけど、やっぱりその提案には乗るわけにはいかなかった。

 流石にケーキのために生徒会の仕事をほっぽり出すのは、責任放棄にも程がある。


「あーほら、今週私終業当番だから放課後まで残んなきゃいけないの。ゴメンね、折角誘ってくれたのに」


 終業当番とは、今言った通り放課後ギリギリまで残って教室の見回りだとか校舎内で目に付いた所の掃除だとか、そういった点検作業のことである。基本的に生徒会が執り行っており、基本的に二人一組で週毎に担当することになっている。


「なーんだ、そんなら仕方ないか。つーか一番めんどくさい時に当番になったね。今日もそうだけど、六月雨多いし」


「まぁね。でも早い内からノルマ減らして損するわけでもないし」


 この当番は年間通じて、定められた期間数の担当を受け持たなければならない生徒会規則がある。だから春夏秋と当番を先延ばしにしていれば、冬にほぼ毎日放課後まで残らなければならない事態に陥るというわけだ。

 だが本当に皆が嫌がるのは、今あさぎが言ったように六月だ。雨は降ってるわ、そのせいで校舎内はそこかしこが濡れて掃除が必要になるわで、去年もあからさまに先輩達がこの月だけは避けていたのを覚えている。結局厳正なるじゃんけんで当番は決定したが。

 因みに少なくとも初週は苛烈な当番決めは行われなかった。何故なら真っ先に立候補した生徒がいたから。


「終わんのって何時頃?」


「全部点検して日誌書いて、学校出たら五時半とかじゃないかな」


 残念そうに「そっかー」と呟きつつも、あざみはすぐに気持ちを切り替えて微笑みかけてくる。こういうあっけらかんとした性格が、私は気に入っている。


「ならまた今度ね。六月の間はずっとフェアやってるだろうし、来週はちゃんと予定空けといてよ?」


「はいはい。て言っても雨降らなきゃ意味ないんじゃないの?」


「そういう心持ちでいてっていうこと。そんじゃねー」


「ん、また明日」


 最後まで陽気なあざみが教室から出ていくのを、私は手を振って見送る。

 さて、私も行こう。彼女が――時任陽菜が待っている。




 最初、誰もやりたがらない六月の当番に私が手を挙げた時、皆少なからず驚いた。

 次にパートナーのよしみだからと、もう一人に時任陽菜を名指しした時の彼女の顔は当分忘れることはないだろう。

 時任陽菜は特に拒まなかった。それは単に先輩の私に逆らえなかったのか、面倒だっただけなのか、はたまた別の思惑があったのかは分からない。だけど何はともあれ避けられてはいないのは確かだった。もしそうだったとしたら、私が最後に日誌を職員室まで返しに行く間、昇降口で律義に私の帰りを待ってくれているわけがない。


「ごめん、お待たせ」


 奇妙な連帯感も、三日経てばそれはもう当たり前のこととして私も時任陽菜も(多分)受け入れていた。

 既に革靴を履いて、正面玄関の前で佇んでいた時任陽菜はじろりと私を睥睨し、


「遅いです。十分は待ちました」


「私のせいじゃないんだって。職員室で運悪く生徒指導の小宮山に鉢合わせちゃって……全く、アンタが言わなくてもこっちの方で風紀関係はちゃんと取り仕切ってるっての」


「それは言い訳ですか?」


「いや本当のことだから」


 ちぐはぐな会話を交わしつつ、私達は各々傘を差して帰路に就く。どうでもいいが、見かけによらず彼女の傘可愛いな……スカイブルーを基調にして、白抜きの星型のペイントが散りばめられたデザインをしている。

 指摘したらそれはそれで面白そうな反応が見られるかもしれないが、彼女だと本気で機嫌を損ねそうなので止めておく。しょうもないことで空気を悪くしたくない。

 だけど話題がない。昨日も一昨日も、私と時任陽菜の通学路の分かれ道に差し掛かるまで殆ど無言だった。思った以上にチキンな自分にほとほと参るが、実際どうしていいか思いつかないから困る。他愛もない雑談ってこんなに難しいことだったっけ。

 思い返せば、生徒会の業務繋がりで何かとさりげなく時任陽菜と行動を共にしてきたものの、現時点会話らしい会話を展開出来た記憶がない。一体何をしているんだ私は。これじゃ一人相撲もいいところだ。

 時任陽菜を見ながら弱気になってそんなことをぼんやりと考えていたら、半分独り言のような感覚で私はふと言葉を紡いだ。


「時任さんは……あの時私と一緒に終業当番することになって、嫌だなーとは思わなかった?」


「? 今更何言ってるんですか?」


「あ、えっと……何となく、って言うか……」


 言ってしまってから失言に気付く。何自分で墓穴を掘ろうとしているんだ。会話がないからって空気悪くしてどうする。

 案の定時任陽菜の表情に悩ましげな影が差し、その瞳は明らかな苛立ちを湛えていた。


「……先輩には、私が嫌々やってるように見えます?」


 一オクターブ低い声に、私は自分でもびっくりするくらい即座に反応した。


「そんなことない! …………ないわよね?」


 本来なら彼女が決めることだというのに、どうして私はそこまで強い口調で断言してしまったのだろう。それは願望なのか、或いは――

 時任陽菜はまず面食らったかのように目を丸くし、そしていつもの小馬鹿にするような嘆息を漏らしてぽつりと言った。


「――どうなんでしょうね」


 その時ちょうど顔が傘に隠れたため、彼女の表情を読み取ることは出来なかった。

 代わりに今まで聞いたことのない時任陽菜の声の調子に、私の心臓が一際大きく脈打つ。

 何気ない一言。それでいて、私をざわめかせる一言。

 いけない。こんな筈じゃないのに。私が時任陽菜をその気にさせたいのに、その逆になってどうする。


「どうなんでしょうねって……やっぱり私、迷惑だったりした?」


「……わざと言ってますよね」


「何のこと?」


「……チッ」


 あ、今舌打ちした。


「全く、どうしてそうなるんですか」


「だってハッキリ言ってくれないと分からないし」


「――ハッキリ言ったら、理解してくれるんですか?」


「え――?」


 あ、あれ? そう来るの? ちょっと想定外なんだけど。

 調子に乗ってふざけていたムードが一気に霧散する。急に真剣な声色になった時任陽菜はいつしか私の前へと回り込み、立ちはだかるようにしてその歩を止めた。

 必然的に私もまた立ち止まらざるを得ない。

 途端に世界が遠のいた。人気のない歩道。時折通過する車、バイク。水しぶきが飛び散る。傘に当たる無数の雨粒。自然のノイズがヴェールとなって、私達二人を外界から隔離する。

 互いの顔が辛うじて確認出来る薄暗さの中、時任陽菜の瞳はやけに光って見えた。

 黒真珠のような二つの眼に、今の私はどのように映っているのだろうか。


「え、と……何?」


 動揺を気取られないように冷静を装った気でいたが、声にしたその言葉は明らかに震えており我ながら滑稽としか思えなかった。

 すると時任陽菜はすぅと目を細めて、


「それだけ、ですか?」


「へ?」


「この期に及んで、それだけなんですか?」


 意味が分からない。それだけ、とは何を意味しているんだ。

 困惑する私に反して、時任陽菜はまるで私を目の敵にしているような視線を投げかけてくる。

 怒っている……? 違う、これは……


「そうやって、貴女はまた――」


 大型トラックが横切り、時任陽菜の言葉は途中で掻き消されてしまう。

 訊き返すことは出来なかった。何故なら私が呼び止める間もなく、時任陽菜は踵を返して走り去ってしまったから。

 残されたのは私一人。

 馬鹿みたいに突っ立って、もうとっくに見えなくなった時任陽菜の姿を目で追う。

 まるで足の裏に根が生えたように、私はその場から一歩も動けなかった。

 手を伸ばして、彼女の手を掴むことも出来た筈だ。ましてや、呼び止めることも。

 なのに私はそれさえしなかった。しようとすら、しなかった。


(あの子……泣いてた……)


 当然だが初めて見る時任陽菜の涙。改めて現状を認識し、罪悪感が湧きあがってくる。原因が不明な分、呼吸が苦しくなるほどの混乱も生じている。


 私は、彼女に何をしてしまったんだ?

 私は、どこかで間違ったのか?

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