第二話 淳之介達、東大視察に東京へ(初日)
十月二七日、土曜日。朝七時頃。
「淳之介、勝手に先々進んじゃダメよ」
淳子はオレンジ色のセーターにデニムのジーパンというスタイル。
「姉ちゃん達と固まって歩くのは恥ずかしいし」
淳之介はデニムのジーパンに黒地に白の英字がプリントされた長袖トレーナー。
「東京旅行、とっても楽しみだね淳之介くん」
「うん。今日は東京の方も天気いいみたいだね」
万由里は鶯色のカーディガンにグレーのスカート。
「淳之介お兄ちゃん、迷子にならないようにね」
「心配なのは菜摘の方だろ」
菜摘は青色のサロペット。
四人ともそれほど派手ではない私服を身に纏って家を出て、JR西宮駅前へと向かって歩いていく。皆、柄は異なるもののリュックサックを背負っていた。
改札を抜け、ホームへ辿り着くと、
「それでは点呼を取るね。菜摘」
「はーい」
「万由ちゃん」
「はい」
「淳之介」
「姉ちゃん、べつに点呼は取らなくても」
「うち、小学校教師志望だから、今から低学年の担任になった時の予行演習をしておこうかと思って。全員揃ってるわね。では出発、みんなはぐれないようにね」
淳子は生徒の引率を任された学校の先生のように振舞う。とても楽しんでいる様子だった。
四人はほどなくしてやって来た快速電車に乗り込み、新大阪駅で下車。
淳之介、万由里、菜摘、淳子の順に新幹線乗換口の改札を抜けて、新幹線ホームへと向かっていく。
無事辿り着くと、当駅始発のためすでに停車していた東京行きのぞみ号、自由席となっている二号車に乗り込む。
富士山が眺められる進行方向左側の二列席を回転させ、淳之介と淳子、菜摘と万由里が向かい合う座席配置に決めた。
まもなくのぞみ号の扉が閉まり、動き出す。
「東京って初めてだな」
淳之介は少しわくわくしている様子。
「富士山、すごく楽しみ♪ なんてったって日本の山の横綱だもん」
窓側席の菜摘は、まだ次の京都駅にも辿り着いていない今から興奮気味だ。
「二人は東京初めてだもんね。うちも初めてだけど。今日は静岡の方もお天気いいみたいだから、くっきりと見られそうね」
「私は新幹線で東京へ行くのは初めてだよ。小学校の頃、家族旅行で行った時は飛行機だったから。私も富士山とっても楽しみ♪ さてと、富士山が見えて来るまでまだ時間たっぷりあるし、それまでにお勉強をしておこう」
万由里はこう呟くと、古文のワークをリュックから取り出した。
「さすが万由ちゃん、京大志望なだけにいい心構えね。淳之介も見習いなさいね」
「分かってるって」
「淳之介お兄ちゃん、旅行中はお勉強休んでいいよ。あたしも休むから」
「菜摘、完全に旅行モードだな」
淳之介は嬉しそうだった。
「うん、あたし、遊ぶ時は遊ぶもん」
菜摘はきっぱりと言う。
「じゃあ、私もお勉強やめよう」
万由里は古文のワークをリュックに仕舞った。
「ねえ、今から力士の四股名しりとりして遊ぼう」
菜摘は誘ってくる。
「そんな菜摘しか楽しめないような遊び、つまらないわ」
淳子はにこっと微笑みながら意見する。
「あーん、柚花お姉ちゃんがいたら楽しめただろうなぁ」
こんな風に、楽しそうに会話を弾ませていくうちにどんどん時間が過ぎていく。
「おおおおおっ、富士山だぁっ! やっぱ生はいいね。来年の夏こそは登りたいよ」
途中、京都と名古屋に停車し、のぞみ号がまもなく静岡駅を通過しようという頃、富士山の姿が車窓に見えて来た。菜摘は興奮気味に叫びながら、携帯電話のカメラを窓に向け撮影する。
「山頂の方、雪被ってるね。もう秋も深いもんね」
「これからどんどん白い部分が増えてくるんだろうな」
「見られて良かったわ。帰りは夜になるから、今撮影しとかなきゃ」
他の三人も楽しそうに携帯電話で撮影した。
のぞみ号が新横浜、品川と停車し、まもなく東京駅に到着するという車内アナウンスが流れると、
「みんな、ちゃんと切符は落とさず持ってる?」
淳子は確認を取った。
「はい、持ってます」
「持ってるよー、淳子お姉ちゃん」
万由里と菜摘はそう答えて、切符を淳子の眼前にかざす。
「姉ちゃん、小学生じゃあるまいし、いちいち確認取らなくてもいいだろ」
淳之介はやや迷惑顔。彼も当然のように落とさず持っていた。
やがて、のぞみ号は終点、東京駅に到着。
淳子は自分以外を先に下車させ、車内に忘れ物がないかの確認をしてから下車するという最年長らしい所を見せた。
「はぐれないように、うちのあとに付いて来てね」
淳子は注意を促す。
「はーい!」
菜摘は嬉しそうに返事し、淳子の手を握り締めた。
「親子みたいだね。淳之介くんも、私と手を繋ごう」
「えっ!」
万由里に右手を握り締められ、淳之介はびくっと反応する。マシュマロのようにふわふわ柔らかい万由里の手のひらの感触が、じかに伝わって来たのだ。淳之介はその状態のまま進まされることに。彼の頬はだんだん赤くなってしまった。
改札出口を抜ける時にようやく手を離してもらえ、淳之介はホッと一息つく。
「まだ早いけど、正午頃になると混んでくるからもうお昼ご飯食べちゃいましょう」
淳子はこう提案した。
他の三人も彼女の賛成し、四人は東京駅構内の飲食店街を散策する。
「ここの洋食レストランでいいかな?」
十数店舗の看板や食品サンプルを見てみて出した菜摘の希望に、
「うん、周りのお店と比較して入り易そうな雰囲気だからね」
「私もそこがいいな」
「まあ、いいんじゃないか。店が他にもいっぱいあり過ぎて選んでるとキリがないし」
淳子も万由里も淳之介も大いに賛成。
こうしてこの四人は菜摘の希望した洋食レストランへ。
「四名様ですね。こちらへどうぞ」
店内に入ると、ウェイトレスに四人掛けテーブル席へと案内された。
菜摘と淳子、万由里と淳之介が向かい合うような形に座ると、菜摘がメニュー表を手に取りテーブル上に広げる。
「あたし、グリーンカレーにするぅ!」
「やっぱりそれか。菜摘、辛い物好きだもんな。俺は、天ざる蕎麦」
「淳之介、渋いわね。うちも渋めにかき揚げうどんにしよう。出汁が真っ黒で関東風だから、関西との文化の違いを感じるわ」
菜摘、淳之介、淳子の三人はすんなりとメニューを決めた。
「……」
まだ迷っていた万由里に、
「万由ちゃんはどれにする? いっぱいあり過ぎて迷っちゃうよね? じっくり決めていいわよ」
淳子は優しく話しかける。
「あっ、あのね、私……お子様、ランチを、食べたいなぁって思って……」
万由里は顔をやや下に向けて、照れくさそうに小声で伝えた。
「万由ちゃん、今でもお子様ランチ食べたがるなんてかわいい」
「万由里お姉ちゃん、あたしにも気持ちはよく分かるよ」
淳子と菜摘はにっこり微笑みかける。
「でも、さすがにこの年ともなると恥ずかしいから、トルコライスにするよ」
万由里はさらに照れくさくなったのか、希望を変更。
「万由里お姉ちゃん、本当は食べたいんでしょ? 食べないときっと後悔するよ。ここでは年齢制限ないみたいだし」
「万由ちゃん、大人のお子様ランチというのもあるから、恥ずかしがらなくてもいいのよ」
「俺も、気兼ねすることなく食べた方がいいと思う」
三人がこうアドバイスすると、
「じゃあ私、これに決めた!」
万由里は顔をクイッと上げて、意志を固めた。
「あたしが注文するね」
菜摘が呼びボタンを押し、ウェイトレスに注文する。
それから五分ほどして、
「お待たせしました。お子様ランチでございます。はい、お嬢ちゃん。ではごゆっくりどうぞ」
万由里の分が最初にご到着。新幹線の形をしたお皿に、旗の立ったチャーハン、プリン、タルタルソースのたっぷりかかったエビフライなど定番のものがたくさん盛られている。さらにはおまけのシャボン玉セットも付いて来た。
「……あたしのじゃ、ないんだけど」
菜摘の前に置かれてしまった。菜摘は苦笑する。
「あらっ、菜摘が頼んだように思われちゃったのね」
淳子はくすくす笑う。
「菜摘ちゃん、若手に見られてるってことだから、気にしちゃダメだよ」
万由里は少し申し訳なさそうに、お子様ランチを自分の手前に引っ張った。
(ウェイトレス、普通はそう思うよな)
淳之介は笑いを堪えていた。
「……確かにあたし、一四歳だけど小学生に見えるよね」
菜摘は内心ちょっぴり落ち込んでしまった。
さらに一分ほど後、他の三人の分も続々運ばれてくる。
こうして四人のランチタイムが始まった。
「エビフライは、私の大好物なの」
万由里はしっぽの部分を手でつかんで持ち、豪快にパクリとかじりつく。
「美味しいっ♪」
その瞬間、とっても幸せそうな表情へと変わった。
「モグモグ食べてる万由里お姉ちゃんって、なんかキンカンの葉っぱを食べてるアオムシさんみたいですごくかわいいね」
「万由ちゃん、あんまり一気に入れすぎたら喉に詰まらせちゃうかもしれないよ」
菜摘と淳子はその様子を微笑ましく眺める。
「万由里お姉ちゃん、食べさせてあげる。はい、あーんして」
菜摘はお子様ランチにもう一匹あったエビフライをフォークで突き刺し、万由里の口元へ近づけた。
「ありがとう、菜摘ちゃん。でも、食べさせてもらうのは恥ずかしいな」
万由里はそう言いつつも、結局食べさせてもらった。
「淳之介お兄ちゃん、育ち盛りなんだし天ざる蕎麦だけじゃ足りないでしょう? あたしのも分けてあげる。はい、あーん」
菜摘は、今度はグリーンカレーの中にあったチキンの一片をフォークで突き刺し、淳之介の口元へ近づけた。
「いや、いいよ」
淳之介は左手を振りかざし、苦笑顔で拒否した。恥ずかしいという理由はもちろん、彼は辛い物が苦手なのだ。
昼食を取り終え、レストランから出た直後。
「あの、私、おトイレ行きたいです」
万由里はもじもじしながら伝える。
「うちもちょうど行きたいと思ってたの」
「あたしもー。漏れそう」
淳子と菜摘も同調した。
「じゃあ荷物、持っててあげるよ」
淳之介は優しく気遣う。
「サンキュー、淳之介お兄ちゃん。頼りになるね」
「ごめんね淳之介くん、すぐに戻ってくるから」
「淳之介、ここから動いちゃダメよ。迷子になるからね。あと、知らない人についていっちゃダメよ」
こうして三人は荷物を淳之介に預け、最寄りの女子トイレへと向かっていった。
(余計なお世話だ、姉ちゃん)
淳之介は受け取ったリュックサックを自分の側に固め、近くの長椅子に腰掛ける。
(早く、戻って来ないかなぁ。人多過ぎて落ち着かないよ)
待っている間、そわそわしていた。
見知らぬ土地なので緊張感がより一層高まっていたのだ。ビジネスマン、家族連れ、外国人観光客、学生さんなど多くの人々がひっきりなしに彼の目の前を通り過ぎていく。
「お待たせ、淳之介くん」
「淳之介、よく出来たね」
「淳之介お兄ちゃん、誘拐されてなくて良かった」
五分ほど待って三人とも戻ってくると、淳之介はホッと一安心。彼もトイレに行って戻ってくると、
「菜摘、秋葉原は、やっぱりやめておいた方がいいと思うなぁ。菜摘には、刺激が強過ぎると思うわ」
「淳子お姉ちゃん、秋葉原の街をちょっとお散歩するだけでいいから」
淳子と菜摘はこんな会話を交わしていた。
「俺も正直、秋葉原は寄りたくない」
淳之介がこう意見すると、
「万由里お姉ちゃんはどう?」
菜摘は万由里の方を向いて問いかける。
「私は、ほんのちょっとだけ興味ある。柚花ちゃんと賢子ちゃんが秋葉原もお勧めって言ってたから」
万由里は若干乗り気だった。
「淳子お姉ちゃん、万由里お姉ちゃんも行きたがってるから、秋葉原行こう!」
菜摘は再び淳子の方を向いて、うるうるとした瞳で誘う。
「姉ちゃん、敏光も秋葉原へは絶対寄れよと言ってから、秋葉原へ行ってみよう」
淳之介も気は進まなかったが、一緒にお願いしてあげる。
「しょうがないなぁ。でも、毒されちゃうといけないから、長居はしないよ」
淳子はしぶしぶ認めてあげた。
「やったぁ!」
菜摘は満面の笑みを浮かべて大喜び。
そういうわけで四人は山手線の切符売り場へと向かっていく。
「あら?」
券売機の前で、淳子はジーパンのポケットに手を突っ込みながら突如こう呟いた。
「姉ちゃん、どうした?」
「あのね、財布、どこかへ落としちゃったみたいなの。帰りの乗車券入りの」
「おいおい」
淳之介は呆れ顔。
「大変。早く見つけないと、誰かに盗まれちゃうかも。拾い主が親切な人だったらいいんだけど」
万由里は淳子よりも深刻そうな面持ち。
「ついさっきまではあったの。レストランでお金払ってからからポケットに仕舞って。掏られたのかも」
「きっとその辺に落ちてるよ。探してあげる」
菜摘は淳子を責めることもなく、心配そうに接してくれた。
「ありがとう、ごめんね菜摘、迷惑かけちゃって」
淳子は申し訳なさそうに礼を言う。その時、
「おーい、姉ちゃん。床に落ちてたぞ」
淳之介が叫んで知らせてくれた。淳子がさっきいた場所から一五メートルくらい後方に落ちていたのだ。
「ありがとう淳之介。頼りになるわ」
淳子は深々とお辞儀してから受け取る。
「淳之介お兄ちゃん、いいところ見せたね」
「淳子ちゃん、見つかってよかったね」
菜摘と万由里はにっこり微笑む。
「姉ちゃん、財布はいくら取り出し易くてもポケットにそのまま突っ込むんじゃなくて、鞄に入れて置けよ。スリの心配もあるから」
淳之介は心配そうに注意した。
「分かったわ。今から気をつける」
淳子はてへっと笑って少し反省。
ともあれ一件落着。
淳之介が代表して四人分の乗車券を購入する。
「秋葉原まで一三〇円か。思ったより安いな」
運賃表を眺めての淳之介の率直な感想。
「菜摘は、まだ子ども料金でもいけそうね」
「淳子お姉ちゃん、不正はしちゃダメなんだよ」
菜摘はにこっと微笑んで淳子の肩をガシーッと掴んだ。
「いたたた、わっ、分かったわ菜摘」
淳子はすぐに反省。
「路線図がもの凄く複雑だね」
万由里はこんな感想を抱いた。
「俺もそう思う。関西も複雑だけどそれ以上だな」
淳之介は無事、秋葉原駅までの乗車券、大人料金四枚購入完了。
四人は大阪環状線にも何度か乗ったことがあるためか、山手線内回りに迷わず間違えず乗り込むことが出来、二駅隣の秋葉原で下車した。
電気街口から一歩外へ出ると、
「ここが秋葉原かぁ。理系の街って感じだね。それにすごい人ぉ! みんなアニメが大好きなのかなぁ?」
菜摘は興奮気味になる。
「なんか、人が多過ぎて落ち着かないよぅ」
「俺も、なんとなーく居辛い。早くこの街から出たい」
「……見るからにオタクって感じの人は、案外少ないわね。家族連れもたくさん」
他の三人も街の雰囲気に圧倒されていた。
「あっ、なんか凄い行列が出来てるぅ!」
菜摘は大声で叫ぶ。駅すぐ近くにあるとあるお店の入口付近に、大勢の男性とごく少数の女性が群がっていたのだ。
「美味しいシュークリームでも売ってるのかなぁ?」
万由里も興味深そうに行列をちらりと眺めてみる。
「それを望む人と明らかに客層が違うだろ。何かのイベントがあるんだと思う」
淳之介は苦笑顔で推測した。
「うち、あんな集団、正直、怖いな」
淳子は小声でぽつりと呟く。
(ああいうの、男の俺から見ても怖いよ。あそこに並んでるの、敏光がよく見てる、ライブイベントのブルーレイで声優さんが挨拶する度に、うをおおおおおーっ、とかオットセイみたいに叫んで、声優さんが歌ってる時はうぉうぉ叫びながらペンライトぶんぶん振り回してすごい激しく踊ってる集団と同じような客層なんだろうな)
淳之介は心の中で同調した。
四人は、中央通り沿いに差し掛かると、北方向へ歩いていく。
「淳之介のお友達の敏光君って子、こういう感じの女の子がいっぱい出てくるエッチなアニメが好きみたいだけど、淳之介はこういうのにのめり込み過ぎちゃダメよ。菜摘も」
とあるビルに飾られた、水着姿の瞳の大きな美少女キャラがたくさん描かれた巨大看板を目にし、淳子は困惑顔で注意してくる。
「はーい」
菜摘は素直に返事。
「分かってるって」
淳之介は迷惑そうに振舞う。
「アニメの女の子って、全般的に髪の色が現実的にはあり得ないカラフルなのが多いよね。あたしの学校でこんな髪の色で登校して来たら、即停学処分になっちゃうよ」
菜摘は微笑みながら呟く。
「俺の高校ももちろんだな」
淳之介は相槌を打った。
「私、あの可愛らしい女の子が出てくるアニメは知らないなぁ」
さっきの巨大看板を後ろ向きに眺めながら、万由里はぽつりと呟く。
「あたしも知らなーい。あそこのお店のポスターのも。未知のアニメがいっぱいだよ。さすがアニメの街だね」
菜摘は感心する。
(敏光の好きなエロゲ原作のアニメだな。これは菜摘や万由里ちゃんは絶対知らない方が良い)
淳之介の今の心境。
「秋葉原は、大人向けの変なアニメばかりが注目されて、菜摘の大好きなア○パンマンやド○えもんやク○ヨンしんちゃんみたいな、子ども向けアニメはほとんど扱われない街だったでしょ?」
淳子はこう問いかける。
「そうだね。思ったほどは面白い街じゃなかったよ」
それでも菜摘は満足そう。
「そうでしょう。早くこの街から脱出しましょう」
淳子はややせかす。
四人はすぐ近くにあった末広町駅から地下鉄を乗り継ぎ、本郷三丁目駅へ。
構内を出ると、本郷通りを北へ向かって歩いていく。
目的地へ辿り着くと、
「写真で見るよりもずっと格好いいね。さすが日本一の大学なだけはあるよ」
「そうだね万由里お姉ちゃん。この門の前に立ってるだけで、頭が良くなりそうな気がするよね」
万由里と菜摘はやや興奮気味になった。
四人が訪れたのは、かの〝東大赤門〟だ。
事前に、東京駅→秋葉原→東大の順に回ろうと計画していたのだ。
「うちらの他にも観光客けっこう大勢いるわね。うちらもみんなで一緒に赤門を背景に記念撮影しましょう」
淳子は提案する。
「いいねえ、撮ろう、撮ろう!」
「せっかく来たもんね。撮らなきゃ勿体無いよね」
菜摘と万由里は快く賛成したが、
「俺はいいよ」
淳之介は少し嫌がっていた。
「まあまあ淳之介くん、そう言わずに」
「まっ、万由里ちゃん……」
けれども万由里に腕をぐいっと引っ張られ、無理やり赤門前に並ばされてしまった。
淳子が近くにいた他の観光客に撮影をお願いし、無事記念撮影完了。
撮られた写真の並びは左から順に淳之介、万由里、淳子、菜摘。淳之介は若干硬い表情であったが、女の子三人とても満足そうな表情だった。
「菜摘ちゃんは、東大は志望校に考えてないの?」
万由里は気になって尋ねてみた。
「うん、全く。あたし、京大しか考えてないよ。藤太郎お爺ちゃんも京大が日本一って言ってたもん。でも、東大のキャンパスは見れて良かったよ」
菜摘は嬉しそうに言う。
「父さんは東大の中でも理Ⅲは別格の難しさだって言ってたけど、菜摘なら、あの理Ⅲにも受かるんじゃないか?」
「いやいや淳之介お兄ちゃん、さすがに東大理Ⅲはあたしなんかには絶対無理だよ。日本の大学受験において東大理Ⅲに次ぐ入学難易度といわれる京大医学部医学科もね」
淳之介の質問に、菜摘は謙遜気味に答える。
「賢子ちゃんも東大理Ⅲはどんなに勉強頑張っても絶対無理って言ってたから、恐るべき難関なんだね」
万由里は呟く。
「うちの高校の時の東大目指してた友達が言ってたけど、東京藝大は、理Ⅲよりも難しいみたいよ。別の意味で」
淳子の伝言に、
「東京藝大は生まれつきの才能がなきゃ無理だろ。宝塚音楽学校も同様に」
淳之介はすぐさま突っ込む。
「学力じゃ測れない最難関か。力士で例えるなら……雷電爲右エ門だね」
「菜摘らしい例え方ね」
淳子は感心していた。
四人はこのあとさらにもう少し北へ歩き、赤茶色の煉瓦造りの外観が特徴的な安田講堂も見学する。
「あたしの成績がさらに向上するように、ここで東大頭脳パワーを授からなくては」
菜摘は安田講堂に向かって両手をかざし、大きく深呼吸した。
「私もやるよ。これで次のマーク模試は九割超えれそう」
万由里もつられて真似をする。
「うちは、恥ずかしいのでやめておくわ」
「俺ももちろん」
淳子と淳之介は周りにいる東大生達の姿が気になってしまい、苦笑顔で呟いた。
「このあとどこ行く? 渋谷と原宿はどう? ハチ公とモヤイ像見て、毎年お正月に横綱の土俵入りやってる明治神宮お参りして、竹下通りを歩かない?」
「菜摘ちゃん、私、渋谷や原宿はちょっと。昔家族で行った時、都会過ぎて落ち着かなかったから。私、池袋のサンシャイン水族館に行きたいな。リニューアルしてからは、まだ行ってないから」
「いいねえ、池袋といえばナン○ャタウンも面白そうだよ」
万由里の希望に、菜摘は大賛成。
そんなわけで四人が次に訪れた観光施設は、池袋のサンシャイン水族館。
クラゲトンネル、マンボウの遊泳、ペンギンやアシカの泳ぐアクアリング、アシカショーなどを見て大いに楽しんで、水族館から出た後、
「展望台とナン○ャタウンはどうする?」
淳子が尋ねる。
「寄りたいのはやまやまだけど、やめておこう。そこも回ると、浅草と両国回る時間がなくなっちゃうよ」
「私もべつにいいよ。家族旅行でも行ったから」
「俺もいい。あまり興味が沸かない」
「そっか。まあ、ナン○ャタウンへ寄ったら、雰囲気的に無駄遣いいっぱいしちゃいそうだし、やめておいた方が良さそうだもんね」
こうして四人はサンシャインシティをあとにし、地下鉄を乗り継いで浅草へ。
「この下町の雰囲気は最高だよ。私は渋谷原宿より好き」
「あたしも浅草の雰囲気、すごく気に入った。人力車も走ってて、風情があるよね。雷おこしと人形焼、お土産に買って帰ろう」
「それにしても、凄い人混みだな。秋葉原以上に多いような気がする」
「超有名な観光名所だもんね。外国人観光客もいっぱいね」
かの有名な雷門の巨大提灯をしばし眺めたり撮影したりして、四人は仲見世通りへ。両サイドに立ち並ぶ土産物屋を覗きながら浅草寺本堂に向かってゆっくり歩き進んでいく。途中、宝蔵門の所でスカイツリーを背景に記念撮影もした。
本堂をお参りした後、
「次は花やしきに行かない? ここのすぐ近くだし。お化け屋敷が和風で面白そうだよ」
菜摘が提案すると、
「そこは、やめておこう」
淳之介は拒否した。
「さては淳之介お兄ちゃん、今でもお化け屋敷苦手なんでしょう?」
「淳之介、小学校の子ども会の遠足でひらパーのお化け屋敷行った時、逃げ出したもんね」
菜摘と淳子はにやけ顔で問い詰める。
「いっ、いや、今は、さすがに、そんな、ことは……」
淳之介は首を左右にぶんぶん振る。
「もう、隠さなくても。お顔を見れば一目瞭然だし」
菜摘はくすくす笑う。
「淳之介くん、私も今でもお化け屋敷苦手だから、そこには入らないようにするよ」
万由里は優しく話しかける。
「あの、皆、もうすぐ五時になるし、今から花やしき行ってもアトラクションあまり楽しめないと思う。そろそろ両国へ行こう」
淳之介は焦るように意見を伝える。
「もうそんな時間かぁ。じゃ、しょうがない。あたしも両国大好きだし、花やしきは諦めよう」
菜摘がそう言うと、淳之介はホッとした表情を浮かべたのであった。
こうして四人は浅草をあとにして地下鉄両国駅へ。
「敏光お兄ちゃんが両国を歩いたら、絶対力士に間違われてるね」
駅の南方向に向かって歩きながら、菜摘はにこにこ笑いながら呟く。
「きっとそうだね。光ちゃんは力士っぽいもんね」
「俺もそう思う」
「本物のお相撲さんが特に多い東京場所中だったら、より一層間違われそうね。浴衣着てたら百パーセントかも」
三人は思わず笑ってしまった。
四人はとある衣料品店へ寄り道したあと、来た道を引き返し通り過ぎ、両国国技館のすぐお隣にでっかく聳え立つ江戸東京博物館へ。普段は午後五時半閉館だが、土曜日は午後七時半まで開いている。そのため四人は池袋から浅草へと移動する最中に、ここを訪れることを決めていたのだ。
四人は閉館時刻に気を付けながらも展示物をゆっくりと鑑賞して回る。
「あたし、この絵、めっちゃ大好き。歴史の資料集にもカラーで載ってたよ」
江戸時代末期の展示がされてある場所で、菜摘は興奮気味に叫んだ。
ペリーに対抗にして、力士達が米俵を担ぎ上げている様子が描かれたものだったのだ。
江戸ゾーンでは力士の浮世絵も多数展示されていたため、四人の中で菜摘が一番楽しめたようである。
夜七時過ぎ、江戸東京博物館をあとにした四人は浅草へ戻り、今夜宿泊する高級旅館へチェックイン。淳子は、607号室を予約していた。
そこへ向かうため、菜摘がエレベーター横の《←》ボタンを押した。
しばらく待ち扉が開かれ、みんな乗り込む。
「淳子お姉ちゃん、ブザー鳴ら無くてよかったね」
「菜摘、お相撲さんじゃないんだから四人乗っただけで鳴るわけないでしょ」
淳子はぷくっとふくれた。
「確かにこの四人合わせても二百キロくらいだし、大柄なお相撲さん一人分よりも少ないもんね」
菜摘はにこにこ笑う。
こんな会話を弾ませているうちあっという間に六階へ。
部屋に入るとすぐに、
「わぁーっ、お部屋広くてすごくきれーいっ!」
万由里は嬉しそうに叫ぶ。
「一人当たり一泊一万円以上するからな。こんな高級な所に泊まっていいのかな?」
淳之介は少し罪悪感にも駆られていた。一五畳ほどの広い和室だったのだ。
「景色もきれーい。スカイツリーがよく見えるよ!」
「ハウビューティフル。さすが日本の塔の横綱」
万由里と菜摘は荷物を置くとさっそく窓に近寄り、興奮気味に叫びながらぴょんぴょん飛び跳ねる。
「確かに、すごくいいね」
「ロマンチックね」
淳之介と淳子も景色を眺め、深く共感した。
「淳之介くん、綺麗だね」
「うっ、うん」
万由里に上目遣いで見つめられ、淳之介はちょっぴりドキッとしてしまう。
「淳之介くんは東京タワーとスカイツリー、どっちが好き?」
「どっちも、好きかな」
万由里に無邪気な表情で見つめられ、淳之介はかなり緊張してしまう。
「わあーっ、すごーい! 中に羊羹とか、大福餅とか、人形焼とか、ゼリーとか、ジュースがいっぱいあるぅ」
菜摘は、今度は冷蔵庫を開けてみた。
「本当!?」
万由里もそこへ駆け寄る。
「これって別料金取られるんじゃなかったっけ?」
淳之介が突っ込むと、
「お父さんのお金なんだから、自由に食べていいと思うわ」
淳子は素の表情でこう意見する。
「それじゃ食べ放題だね」
「私は太るといけないから数控えとこ……」
菜摘と万由里は大喜びした。お目当てのお菓子に手を伸ばそうとしたところ、
「でも、今食べると豪華な晩御飯、入らなくなるわよ」
淳子は笑顔でこう忠告する。
「じゃあ、やめとこうっと」
「私もー」
二人は手を引っ込め、冷蔵庫をパタンと閉めた。
「あっ、関東ローカルだ」
淳之介はテレビを付けてみた。ちょうど関東地方の天気予報をしている所だった。
「おう、なんか新鮮だねぇ」
「旅行した時って、ローカルの番組を見たくなるよね」
菜摘と万由里は興味深そうに画面を凝視する。
「今夜は東京都心雨かぁ。でも明日は晴れるみたいね。よかった」
淳子も眺めてみる。
天気予報を見終えると、四人は夕食場所となっている宴会場へと移動していった。
「ご予約の香村御一行様ですね。ごゆっくりどうぞ」
従業員さんに席へ案内される。
宴会場は一二畳ほどの純和室となっており、長机一脚に座布団が四つ敷かれていた。
お皿の上には松茸や栗、伊豆諸島近海で今日昼過ぎに水揚げされたばかりの新鮮なマグロやカツオや鯛や伊勢えび、ウニの刺身などが多数並べられていた。他に副菜、デザートもたくさん。
「わー、すっごぉい。めっちゃ豪華じゃん! 脳を活性化させるDHAもたっぷり含まれてるね」
「どれもすごく美味しそう」
「すごいな」
「学食と比較にならないほど豪華ね」
四人は並べられている料理の数々に目を輝かせながら、座布団に腰掛けた。
「菜摘ちゃん、あぐらはかかない方がいいよ。パンツが丸見え」
万由里は向かいに座る菜摘に優しく注意する。彼女は行儀良く正座姿勢だった。
「はーい」
菜摘は素直に従い、お膝を伸ばした。
淳之介も淳子も、正座ではないが膝を伸ばしてくつろいでいた。
「伊勢えびの刺身、美味そうだぁーっ。小学校の修学旅行で伊勢行って以来かも」
菜摘が一切れお箸でつまみ、わさび醤油をつけてお口に運ぼうとしたところ、
「もーらった」
淳子が横からぱくりと齧り付いて来た。
「あああああああーっ! ちょっと、淳子お姉ちゃん、何するの!」
菜摘は大声を張り上げて、淳子をキッと睨み付ける。
「えへへ」
淳子はとても美味しそうに頬張りながらあっかんべーのポーズをとった。
「ひっどーい」
菜摘は淳子の両方のほっぺたをぎゅーっとつねる。
「いったぁーい」
淳子は、菜摘の髪の毛を引っ張って対抗した。
「淳子お姉ちゃん、いきなり取るなんてひどいよ。そんなに卑しいことしてたら、ぶくぶく太って豚さんになっちゃうよ」
今度は菜摘、体格の勝る淳子を片手で押し倒し馬乗りになった。
「ごめんね、菜摘。お姉ちゃんのをあげるから」
淳子、恐怖心を感じこれにて降参。これは敵わないなと思ったのだ。
「ありがとう、心優しい淳子お姉ちゃん♪」
菜摘は得意顔。淳子のお皿からついでに松茸も奪取。
「あーん、貴重な国産なのに」
淳子、やや涙目になる。
「姉妹ゲンカ、妹の菜摘ちゃんの圧勝だね」
その一部始終を万由里は微笑ましく観察していた。
淳之介は特に気にも留めず食事を進めていた。わりと最近まで香村家の食事時にけっこうよくあったことだからだ。
夕食を取り終えた後は、入浴タイム。一旦お部屋へ戻って持参した入浴セットを手に持ち、四人は旅館内大浴場へと移動していく。
「おっふろ、おっふろー」
菜摘はとても嬉しそうにスキップしながら女湯の暖簾を潜り抜けていった。
「ねえ淳之介も、一緒に女湯に入らない?」
淳之介が男湯の暖簾を潜ろうとした所を、淳子は淳之介の腕をぎゅっと掴んで引き止めて誘った。
「姉ちゃん、何言ってるんだよ」
淳之介は顔を顰め、淳子の腕を力ずくで振り解く。
「六年前までなら、淳之介くんも一緒に入れてたね」
万由里は笑顔で言う。
「……」
淳之介は逃げるように男湯の暖簾を潜り抜けた。
女湯脱衣場。
「湯船、横綱級に広いらしいから、クロールの練習しようっと」
「菜摘、ここで泳ぐのは禁止よ。注意書きを見なさい」
「菜摘ちゃん、ここではゆったり浸かるのがマナーだよ。泳ぐのはプールか海か川でね」
三人とも幼い子どものように、恥ずかしげも無く服を脱いで堂々と裸体をさらけ出し、バスタオルは手に持っていた。
「万由里お姉ちゃん、背が高くていい体してるねぇ。万由里お姉ちゃんもお相撲やってみない?」
「やらなーい。怪我したら嫌だもん。そもそもお相撲はやんちゃな男の子のするスポーツだよ」
「万由里お姉ちゃん、それは偏見だよ。洞窟のイドラだよ。お相撲はお淑やかな女の子にも人気のあるスポーツだよ。万由里お姉ちゃんも稽古すれば絶対強くなれるよ」
「あんっ! んっ」
万由里は二〇センチ以上も背の低い菜摘におっぱいを両手でわし掴みにされ、あっという間に壁際に押し込まれてしまった。
「菜摘、やめなさい。万由ちゃんすごく嫌がってるわよ」
淳子は優しく注意しながら、菜摘に背後から近寄る。
「それっ、小股掬いっ!」
「きゃんっ!」
淳子はスルンッと転び床にびたーんと尻餅をついた。さらには足がM字開脚状態になりあられもない姿に。
「淳子お姉ちゃん、足腰もっと鍛えた方がいいよ」
菜摘は片方の手で万由里を壁に押さえ付けたまま、もう片方の手で淳子の太ももの内側を抱え込み、バランスを崩すという器用な技を繰り出したのだ。
「もう菜摘、ひどいわ。動き早過ぎ」
淳子はあっと驚く。
「菜摘ちゃん、あんまりイタズラしちゃダメだよー」
万由里はにこっと微笑むと菜摘の両腕をしっかり抱え身動きを封じ、宙にふわっと浮かした。さらに左右に振り子のようにぶらんぶらん揺らす。
「あぁーん、万由里お姉ちゃぁん。離してぇー。あっ、あたし、吊り上げられると何にも抵抗出来なくなっちゃうのぉー」
「それが菜摘の弱点なのね」
淳子はにやりと笑い、菜摘のわき腹をこちょこちょくすぐり始めた。
「じゅ、淳子お姉ちゃぁん。やめて、やめてぇ。キャハハハハハッ。あたし、くすぐられるのもすごく苦手なんだぁーっ」
「菜摘ちゃん、もうお相撲の技掛けちゃダメだよ」
「わっ、分かったよ淳子お姉ちゃぁん」
菜摘が苦し紛れに返事をすると、万由里はそっと下ろしてあげた。
「さすがわが妹、菜摘、いい子ね」
淳子もくすぐり攻撃を止めてあげる。
「あたし、女の子としてもちっちゃいから、幼稚園や小学校の頃に女相撲大会に出た時はよく吊り上げられて一回戦負けしてたよ。あたし、もっともっと強くなって、いつか柚花お姉ちゃんに相撲で勝ちたいよ。学力では当然、あたしの方が遥かに勝ってるけど、それだけでは納得いかないもん」
菜摘は照れ笑いしながら打ち明けたのち、悔しそうに唇を噛み締めながら宣言する。彼女は小さいながらも突き押し相撲スタイルなのだ。何度敗れても変える事は無かった。
対照的に柚花は、変化や叩き、足技中心の奇襲戦法相撲を取り、大会で菜摘以上の好成績を残していた。
菜摘はそんな柚花の取り口が気に食わなかった。小学校時代まで柚花と相撲大会で対戦したことは、二学年差ということもあって一度もない。けれども稽古時やプライベートでは何十回かある。そのさい、菜摘は柚花に一度も勝てなかった。
去年、中学生の部で女相撲大会での対戦がついに実現したのだ。
だが、菜摘はその時も柚花に全く歯が立たなかった。立合いから一気に寄り切られ、力の差をまざまざと見せ付けられたのだ。
そんな過去の因縁から、菜摘は柚花のことを不倶戴天と敵と認識してしまっているようである。
浴室へ入った三人は、隣り合うようにして洗い場シャワー手前の風呂イスに腰掛けた。出入口に近い側から淳子、万由里、菜摘という並びだ。
「菜摘ちゃん、髪の毛洗ってあげよっか?」
万由里は菜摘の方をむいて話しかける。
「それはいい、自分で出来るから」
菜摘は頬をポッと赤らめた。
「菜摘ちゃん、かわいい」
万由里はにこっと微笑む。
「万由ちゃん。菜摘はね、つい数ヶ月前までシャンプーハットしてないとシャンプー出来なかったのよ」
淳子がこんなことを教えて来た。
「そうなんだ。でもそこが菜摘ちゃんらしいよ」
「もう、淳子お姉ちゃん、恥ずかしいからバラさないないでー」
菜摘は照れ笑いしながら言うと、淳子の背中をパチーッンと叩く。
「いったぁーっ! 菜摘ぃ、思いっきり叩いたでしょ?」
予想以上の衝撃に、淳子は両目を×にする。
「軽くだよ。あの、万由里お姉ちゃんは十一月の記述模試、自信ありますか?」
「うーん、どちらかと言われればないよ。マークはなんとかなるけど、記述になると特に数学は全然出来なくなっちゃう」
「あたしもだよ。マークは数学満点取れるけど、記述では満点取れないもん。絶対どこかで減点されちゃう」
菜摘は体を洗い流しながらそう言って、湯船の方へ駆け寄る。
「それーっ!」
そしてはしゃぎ声を上げながら、湯船に足から勢いよく飛び込んだ。ザブーッンと飛沫も大きく上がる。
「淳子お姉ちゃん、お姉ちゃん、見て。ホイヘンスの原理で波紋が円状に広がっていくよ」
そう伝えてさらに犬掻きのような泳ぎをし始めた。
「菜摘ちゃん、はしゃぎ過ぎだよ」
「菜摘、小学校低学年の子みたいね」
万由里と淳子は湯船の方を振り向き、微笑ましく眺める。
「菜摘ちゃん、心は幼いけど、頭脳は学者さんだね。マークでも高校の数学で満点は賢過ぎる。まだ中学二年生なのに。次元が違うよ」
「菜摘の出来なかったは、うちの出来たよりも遥かにいいからね。校内テストで数学は満点以外取ったことがないのよ」
「天才過ぎる。私は理系に進むつもりだけど、数学あまり得意じゃないから」
「うちも数学はかなり苦手だったわ。赤点はかろうじて回避してたけどね。菜摘、周りのお客様に迷惑かけちゃダメよ」
体を洗い終えた淳子はもう一度菜摘に注意して、湯船に静かに浸かった。
「ちょうどいい湯加減だし、広くて最高♪」
万由里も同じようにお行儀良く浸かると、湯船に足を伸ばしてゆったりくつろぎ、嬉しそうな表情を浮かべる。
「うちには、ちょっと熱く感じるな。うちは熱い風呂苦手なの。いつも三七度くらいで入ってるわ」
淳子が苦笑顔で言ったその時、
「そりゃぁーっ!」
二人の背後からバシャーッと湯飛沫。
「こら菜摘、熱いじゃない」
淳子はぷくっとふくれた。
「菜摘ちゃん、ダメだよ、そんなことしちゃ。他のお客さんにも迷惑になるからね」
万由里は優しく注意して、菜摘の頭を軽くペチッと叩いておく。
「はーい」
菜摘はちょっぴり反省。
「ねえ菜摘ちゃん、淳子ちゃん、明日はどこを回る? 私、明日は上野動物園へ行きたいな」
「あたしもそこーっ! 日本の動物園の横綱だもんね」
「うちは、そこと併せて国立科学博物館へも行きたいな」
「いいねえ。ガイドブック見たけどめっちゃ面白そうだったし」
「私も賛成」
「ものすごく広いみたいだから、館内全部じっくり見て回るのはちょっと無理っぽいけどね。あ~、体が火照って来ちゃった。もう出るね」
淳子はそう伝えて湯船からバシャーッと飛び出し、脱衣場へと早足で向かっていく。
(今何キロかなあ?)
そしてすっぽんぽんのまんま、脱衣場に置かれてある体重計にぴょこんと飛び乗ってみた。
「……えええええっ!? 健康診断の時より、二キロも増えてるぅ。なっ、なんでぇ!? バイキング食べ過ぎた?」
目盛を眺めた途端、淳子は目を見開き大きな叫び声を上げた。
「淳子お姉ちゃん、贅沢な悩みだね。少々太ったっていいじゃん。あたしは突進の威力高めるためにあと五キロくらいは増やしたいのに」
菜摘も駆け寄って来て、淳子に慰めの言葉をかけてあげる。
「菜摘は標準以上に痩せてるからそれでいいけど、うちは違うもん」
「体重気にした時の淳子お姉ちゃんの表情、タヌキっぽくってかわいかったよ」
「もう、ひっどーい。罰としてくすぐり攻撃しちゃおう」
「あーん、やだぁ」
すっぽんぽんの淳子に追われ、菜摘もすっぽんぽんで逃げ惑う。
「ジャックと豆の木のお話、思い出しちゃった」
万由里も脱衣場へ上がって来て、にこにこ微笑みながら眺めていた。
三人が大浴場から出てすぐの休憩所へ移動すると、
「淳之介お兄ちゃん、やっぱりまだ出てないね」
「淳之介、いつも風呂長いのよ」
「そうなんだ。淳之介くん、お風呂好きなんだね」
周囲を見渡して淳之介を探してみる。
いないことを確認したのち、
「ジュース飲んで待っておこう。どれにしようかな? ジンジャーエールかな」
「うちは、レモンミルクティーにするわ」
「私は、抹茶ラテにしよう」
自販機でお目当てのドリンクを買い長椅子に腰掛け、風呂上りの一杯を楽しむ。
三人とも飲み終えた頃に、
「みんなもう出てたのか」
淳之介も休憩所に姿を現した。
「お風呂上りの淳之介くん、文豪みたいで格好いいね」
万由里はパジャマ姿の淳之介を楽しそうにじーっと眺める。
「そっ、そうかな?」(なんか、女子特有の匂いが……)
淳之介はかなり動揺してしまう。女の子三人の体から漂ってくる、ラベンダーやオレンジ、ミントのシャンプーや石鹸の香りが、彼の鼻腔をくすぐっていた。
「おう、あそこにプリクラがあるじゃん。みんなで一緒に写ろう!」
菜摘は今いる場所から数十メートル先を手で指し示す。
旅館内のアミューズメント施設、言い換えればゲームコーナーであった。
「いいねぇ。私、プリクラ久し振りだし」
「ご当地の限定プリクラがあるかも」
万由里と淳子はかなり乗り気だったが、
「俺はいいよ。プリクラは、女の子だけで撮った方が楽しいと思うし」
淳之介は気が進まなかった。
「淳之介、高校時代の思い出になるわよ。一緒に写りましょう」
「私、淳之介くんも一緒がいいな」
淳子と万由里に手を引っ張られてしぶしぶ了承。
「あたしも淳之介お兄ちゃんと写りたい! このフレームにしよう!」
菜摘はいくつかあるプリクラ専用機の一つの前で立ち止まる。彼女の選んだ東京スカイツリーのフレームに他の三人も快く賛成した。
四人はその専用機内に足を踏み入れると、前側に菜摘と淳之介が並ぶ。
「一回五〇〇円か。けっこう高いね」
淳之介はこう感じながらも、気前よくお金を出してあげた。
撮影完了後、
「おう、めっちゃきれいに撮れてる!」
取出口から出て来たプリクラをじっと眺める菜摘。自分が見たあと他の三人にも見せる。
「菜摘、淳之介お兄ちゃんとデート、ハートマークとかって落書きしないで」
淳之介は迷惑顔になる。
「いいじゃん、淳之介お兄ちゃん、ほとんど事実なんだし」
菜摘はてへっと笑い、舌をペロッと出した。
「淳之介と万由ちゃんは、ちょっと表情が硬いわね」
淳子はにこっと微笑む。
「わたし、写真に写る時どうしてもこうなっちゃうの。笑ってるつもりなんだけど」
万由里は照れくさそうに打ち明ける。
「俺は、べつにプリクラで笑う必要なんてないかなっと思って、表情変えなかった」
淳之介は素の表情で言う。
「淳之介ったら、つれないな。うちは硬い表情で写ってるのは、学生証くらいよ」
「あたしも生徒証の写真は表情硬いよ。あの、あたし、次はこれがやりたいな」
菜摘は、プリクラ専用機すぐ向かいに設置されていた筐体を指差した。
「菜摘ちゃん、動物さんのぬいぐるみが欲しいんだね?」
「うん!」
万由里からの問いかけに、菜摘は嬉しそうに答える。菜摘が指差したのはクレーンゲームであった。
「動物さんのぬいぐるみは、特にかわいいよね」
万由里は同調する。
「あっ! あのピグミーマーモセットのぬいぐるみさんとってもかわいい! お部屋に飾りたぁい」
菜摘は透明ケースに手の平を張り付けて、大声で叫んだ。
「菜摘、あれは隅の方にあるし、他のぬいぐるみさんの間に少し埋もれてるから、難易度は横綱級よ」
「大丈夫! むしろ取りがいがあるよ」
淳子のアドバイスに対し、菜摘はきりっとした表情で自信満々に言った。コイン投入口に百円硬貨を入れ、操作ボタンに両手を添える。
「菜摘ちゃん、頑張れーっ!」
「菜摘、落ち着いてやれば、きっと取れるわよ」
「菜摘、頑張れよ」
三人はすぐ後ろ側で応援する。
「あたし、絶対取るよーっ!」
菜摘は慎重にボタンを操作してクレーンを動かし、お目当てのぬいぐるみの真上まで持っていくことが出来た。
続いてクレーンを下げて、アームを広げる操作。
「あっ、失敗しちゃった」
ぬいぐるみはアームの左側に触れたものの、つかみ上げることは出来なかった。
菜摘が再度クレーンを下げようとしたところ、制限時間いっぱいとなってしまった。クレーンは自動的に最初の位置へと戻っていく。
「もう一回やるもん!」
菜摘はとっても悔しがる。お金を入れて、再チャレンジ。しかし今回も失敗。
「今度こそ絶対とるよ!」
この作業をさらに繰り返す。菜摘は一度や二度の失敗じゃへこたれない頑張り屋さんなのだ。
けれども回を得るごとに、
「全然取れなぁい……」
菜摘は徐々に泣き出しそうな表情へ変わっていく。
「あのう、菜摘。他のお客さんも利用するから、そろそろ諦めた方がいいかも」
淳子は慰めるように言った。
「諦めたくない」
菜摘は本当に泣き出しそうな表情でぽつりと呟く。
「このままだと菜摘ちゃんかわいそう。ねえ淳之介くん、かわいい妹の菜摘ちゃんのために取ってあげて」
万由里が肩をポンッと叩いて命令してくる。
「そうしてやりたいけど、俺も、クレーンゲーム得意じゃないし、真ん中ら辺のシマウマのやつはなんとかなりそうだけど、あれはちょっと無理だな」
淳之介は困惑顔で呟いた。
「淳之介お兄ちゃん、お願ぁい!」
「……わっ、分かった。取ってあげる」
菜摘に寂しがる子犬のようにうるうるとした瞳で見つめられると、淳之介のやる気が急激に高まった。クレーンゲームの操作ボタン前へと歩み寄る。
「ありがとう、淳之介お兄ちゃん。大好き♪」
するとたちまち菜摘のお顔に、笑みがこぼれた。
「さすが淳之介くん、香村家の男の子だね」
「淳之介、心優しい」
菜摘と淳子も、彼に対する好感度が高まったようだ。
(まずい。全く取れる気がしないよ)
淳之介の一回目、菜摘お目当てのぬいぐるみがアームにすら触れず失敗。
「淳之介お兄ちゃんなら、絶対取れるはず♪」
背後から菜摘に、期待の眼差しで見つめられる。
(どうしよう)
当然のように、淳之介はプレッシャーを感じてしまう。
「淳之介くん、頑張れーっ!」
「淳之介なら、きっと取れるわ」
(よぉし、菜摘にいい所見せてやるぞっ!)
万由里と淳子からの声援を糧に淳之介は精神を研ぎ澄ませ、再び挑戦する。
しかしまた失敗した。アームには触れたものの。
けれども淳之介はめげない。
「淳之介お兄ちゃん、頑張ってーっ。さっきよりは惜しいところまでいったよ」
菜摘からも熱いエールが送られ、
「任せて菜摘。次こそは取るから」
淳之介はさらにやる気が上がった。
三度目の挑戦後。
「……まさか、本当にこんなにあっさりいけるとは思わなかった」
取出口に、ポトリと落ちたピグミーマーモセットのぬいぐるみ。
淳之介は、菜摘お目当ての景品をゲットすることが出来た。ついにやり遂げたのだ。
「やったぁ! さすが淳之介お兄ちゃん」
菜摘は大喜びし、バンザーイのポーズを取った。
「淳之介くん、おめでとう! 三度目の正直だね」
「淳之介、素晴らしいプレイだったわ」
万由里と淳子がパチパチ拍手しながら褒めてくれる。
「たまたま取れただけだって。先に菜摘が、少しだけ取り易いところに動かしてくれたおかげだと思う。はい、菜摘」
淳之介は照れくさそうに伝え、菜摘に手渡す。
「ありがとう、淳之介お兄ちゃん、大好きっ。ピグマモちゃん、こんばんは」
菜摘はさっそくお名前をつけた。受け取った時の彼女の瞳は、ステンドグラスのようにキラキラ光り輝いていた。このぬいぐるみを抱きしめて、頬ずりをし始める。
「菜摘ちゃん、幸せそうだね」
万由里はにこやかな表情で話しかけた。
「うん、アイムベリーハッピーだよ。あたし、敏光お兄ちゃんのぬいぐるみもあったら欲しいなぁ。だって敏光お兄ちゃん、ト○ロみたいだもん。癒し系だよ」
「確かに光ちゃん、ト○ロっぽいよね。私も光ちゃんの等身大ぬいぐるみがあったら欲しいーっ!」
「菜摘、万由ちゃん、敏光ちゃんにちょっと失礼よ」
淳子はくすくす笑いながら注意する。
「敏光のぬいぐるみかぁ」
淳之介も想像し、思わず笑ってしまった。
同じ頃、
(一三八キロかぁ。また増えてしまったな。冬コミまでに一四〇オーバーは確実だぜ)
当の敏光は自宅風呂場にて、トランクス一丁で自分の体重を測定していたのであった。
「次はあれで遊びたいな」
菜摘はクレーンゲーム機から少し離れた場所に設置されてある筐体に目を向ける。
「これって、男の子向けのゲームだよね」
万由里は微笑み顔で突っ込む。
パンチングマシンだった。
「万由里お姉ちゃん、それは偏見だよ。女の子もストレス発散にけっこうやってるはずだよ。淳之介お兄ちゃん、あたしとスコア勝負しよう」
「やめとくよ。菜摘に勝てる気はしない」
菜摘の誘いを、淳之介は悩むことなくすぐに断った。
「淳之介お兄ちゃん、やろう、やろう」
菜摘は諦めず、袖をぐいぐい引っ張ってしつこくお願いしてくる。
「淳之介くん、男の子の意地を見せてあげて」
「淳之介、菜摘と勝負してあげなさい。体格は淳之介の方がずっと良いんだし、淳之介が勝てる可能性はあるのよ」
「体格は関係ないと思う」
万由里と淳子にもお願いされるが、淳之介の意思は変わらず。
しかし、
「淳之介お兄ちゃん、あたしに勝てたらお部屋元に戻してあげるよ」
菜摘からこう伝えられると、
「本当か? それなら、やってやろう」
淳之介は急に強気になった。
「勝負は一回きりで決めよう!」
菜摘はこう提案する。
「それでいいぞ」
淳之介は承諾すると、コイン投入口に百円硬貨を二枚入れ、筐体両脇に設置されたグローブを両手にはめる。
ゲーム開始ボタンを押すと、パンチングパッドが起き上がった。
「これ目掛けて殴ればいいんだな」
淳之介は右手を用いて、バシンッと思いっきり殴ってみた。
すぐに画面上にスコアが表示される。
「三七点か。これってどうなんだろ?」
「弱いねぇ。普通の男子高校生だと五〇以上は出せるらしいから」
菜摘はくすっと笑った。
「菜摘、頑張れー」
「姉ちゃん、なんで菜摘を応援する側に変わってるんだよ」
淳之介は呆れ顔になった。
「これぞ、p=mvの公式をフル活用出来る最高のアーケードゲームだよ」
続いて菜摘の番。同じようにグローブをはめて、開始ボタンを押すとパッドが起き上がる。
「そりゃぁっ!」
菜摘は掛け声を出し、右手で殴るというより張り手を食らわせるような感じで思いっきり押した。
パッドが前後に激しく振動する。
衝撃は淳之介を凌駕しているように思われた。
「えぇぇっ! たったこれだけ?」
スコアの予想外に低さに、菜摘は目を丸める。
三二点だったのだ。
「やったぁ。俺の勝ちだ! 今回はスコアの数値が全て、まさかの逆転はないぞ」
知った瞬間に淳之介は快哉を叫ぶ。
「あーん、残念。速度vの勢いが足りなかったようだね。パッドへの接触時間Δtを長くし過ぎたのも敗因かな?」
菜摘はグローブを両手にはめたまま、悔しそうに嘆く。
「あららっ、まさか菜摘が負けるとは」
淳子も悔しそうだった。
「淳之介くん、おめでとう!」
万由里はとても喜んでくれた。
「これで俺の部屋は元に戻る!」
それ以上に、淳之介は嬉しく思っていた。
「まあ、仕方ない。約束は約束だからね。藤太郎爺ちゃんも一度約束したことは女でも必ず守れって言ってたし」
菜摘は諦めがついたようだ。
四人はこのゲームで締めくくり、お部屋へと戻っていった。
すでにお布団が敷かれてあった。この旅館のサービスとなっているのだ。四枚横一列に敷かれていた。
「みんな、どこに寝る?」
淳子は尋ねる。
「俺は、一番端っこで」
淳之介は窓際の布団に視線を向けた。
「ダメだよ、淳之介お兄ちゃん。淳之介お兄ちゃんはここっ!」
菜摘は強制的に、窓寄り二列目の布団を指定する。
「菜摘は、淳之介のお隣がいいのね」
「うん!」
淳子が確認すると、菜摘は嬉しそうに答えた。一番窓寄りの布団を指差したのだ。
「……」
淳之介はかなり嫌そうだった。
「私も、淳之介くんのお隣がいいな」
万由里はそう伝えながら、窓から三列目のお布団を指差す。
「うちもーっ。じゃんけんしよう」
「淳子お姉ちゃんはダメッ! いつも一緒に寝てるじゃん」
菜摘は強く主張し、該当する布団にごろんと大の字に寝転がった。
「あーん。淳之介、うちと万由ちゃん、どっちにお隣に」
「万由里ちゃん」
淳子が質問し切る前に、淳之介は俯き加減で照れくさそうに答えた。
「淳子ちゃん、今夜は譲って下さい」
万由里は嬉しそうに微笑む。
「分かったわ」
淳子は少し残念がる。
これにて、全員の布団の位置が決まった。
(非常に複雑な気分だ)
淳之介は今、こんな心境である。
「そういえば、万由里お姉ちゃんと淳之介お兄ちゃんは、今はどっちがお相撲強いのかなぁ? あたし、久し振りに取組見たいなぁ。ねえ、淳之介お兄ちゃん、万由里お姉ちゃんとお相撲取ってー」
「取るわけないだろ」
淳之介はすぐさま拒否する。
「淳之介くんとお相撲かぁ。小学一、二年生の頃に取ったことがあったね。懐かしいなぁ。今は淳之介くん私より大きくなったし、もう絶対勝てないよ」
万由里は照れくさそうに言う。
「お願い、お願ぁい。一番だけぇ」
「うちも久し振りに見てみたいわ。淳之介と万由ちゃんとの相撲対決」
菜摘と淳子は、きらきらとした瞳で万由里をじっと見つめる。
「そう言われたら、断れないなぁ」
「まっ、万由里ちゃん。引き受けなくていいよ。俺もものすごく取り辛いし」
「でも、一回だけなら、やってもいいよ。淳之介くん、お相撲取ろう」
「……しょうがないなぁ」
万由里ににこっと微笑まれた淳之介は十秒近く悩んでから、しぶしぶ引き受けた。
「やったぁ! 万由里お姉ちゃんも、本物のお相撲さんみたいに上半身裸でパンツ一枚だけになってぇーっ」
菜摘は笑顔で要求した。
「こら、菜摘」
淳之介は即、動揺する。
「ごめんね菜摘ちゃん、それは、恥ずかしいよ」
万由里は頬をカーッと赤らめた。
「冗談、冗談」
菜摘は大きく笑う。
「菜摘、万由里ちゃんをからかうなよ」
淳之介は困惑顔で注意する。
「淳之介お兄ちゃんは、トランクス一丁で取ってね」
「俺もそのままでいいだろ」
「ダメだよー、男の子なんだから」
菜摘は薄ら笑いを浮かべる。
「わっ、分かったよ菜摘」
淳之介はお仕置きを恐れて嫌々ながら従う。パジャマを脱いで、淳子や菜摘と対戦した時と同じくトランクス一丁になった。
「それじゃあ取組始めよう。万由里お姉ちゃんの四股名は万由里海だよ」
「四股名まで付けてくれてありがとう。気に入ったよ」
万由里はとても喜んでいる様子。
「土俵の代わりがこの敷布団だよ。本家と同じルールで、ここから外に出すか。足の裏以外を布団に付けたら負けってことにしよう」
「それでいいよ、菜摘ちゃん」
「まあ、妥当だな」
菜摘の提案に、万由里と淳之介は快く承諾した。
「あたしが行司さんやるぅーっ」
菜摘は江戸東京博物館のミュージアムショップで購入した、歌川国芳の絵が描かれた団扇を手に取った。
「熱戦を期待してるわっ!」
淳子は邪魔にならないよう部屋隅の方へと移動し、座布団に腰掛けて勝負の行方をわくわくしながら見守る。
「待ったなし、手を下ろしてー」
菜摘のこの合図で、
「このポーズ、なんか恥ずかしいよぅ」
「俺も」
万由里と淳之介は中腰姿勢になったのち、両こぶしを敷布団に付けた。二人とも照れ笑いしながら呟く。
「見合って、見合ってー。はっけよぉーい、のこった!」
菜摘がこの合図をすると、
「えいっ!」
万由里は素早く淳之介の穿いていたトランクスの裾を両手で掴んだ。淳之介の両腕もがっちりと固めた。
「まっ、万由里ちゃん」
淳之介はかなり照れくさくなった。顔もだんだん赤くなってしまう。万由里の胸が淳之介の胸に合わさってしまっているからだ。
「万由ちゃん、すごくいい当たりね。上手じゅうぶんだし、そのまま淳之介を投げ飛ばしちゃえー」
淳子はパチパチ拍手した。
「それはかわいそうだから出来ないよ」
万由里は困惑顔で言うと、そのまま歩き進み、淳之介を寄り切ろうと試みる。
(ここであっさり負けたら、ダメだよな)
あともう一歩で敷布団の外へ出る所で、淳之介は踏ん張って抵抗した。
「うーん、動かないよぅ」
すると万由里は体を左右に揺さぶり、さらに強く胸を密着して来たのだ。
「あっ、あの、まっ、万由里、ちゃん」
その瞬間、淳之介の膝ががくっと崩れ落ちた。
淳之介、背中からズテンッと倒れる。
「あわわわっ」
弾みで万由里も前のめりに倒れてしまった。
「ただいまの、決まり手は、寄り倒し、寄り倒しで万由里海の勝ち。万由里お姉ちゃん、圧勝だったね」
菜摘は嬉しそうに決まり手を告げた。
「予想通りね。淳之介、手加減というより上手く力を発揮出来なかったみたいね」
淳子はくすくすと笑う。
万由里海○ 淳の里●
「まっ、万由里ちゃん、息苦しぃ」
「ごめんね淳之介くん、痛かった?」
万由里はぺこんと頭を下げて申し訳なさそうに謝り、慌てて淳之介の体から離れる。
「だっ、大丈夫」
淳之介は顔を赤面させながら答える。今しがた、万由里のおっぱいがブラとパジャマ越しではあったが顔に密着していたのだ。
「万由里お姉ちゃん、立合いがすごく良かったよ。相撲の才能あるね」
菜摘は大きく褒める。
「そんなことないよぅ」
万由里は照れくさがる。
「それに引き換えて淳之介お兄ちゃんは腰高過ぎだし、棒立ちになってたし、あまりに不甲斐ない。万由里お姉ちゃんは心優しいから寄り切ろうとしてくれたけど、あたしだったら一本背負い食らわして畳に叩き付けるよ。この取組、万由里お姉ちゃんの勝ちということで、淳之介お兄ちゃんのお部屋はそのままということになりました」
菜摘はにこやかな表情で言う。
「やった!」
淳子の表情も思わず綻ぶ。
「待て菜摘、事前にそんな約束してないぞ」
淳之介はすぐに抗議。
「あたしに逆らう気?」
「いっ、いや……」
けれども菜摘にニカッと微笑まれると、淳之介はそれ以上何も言えなかった。
「淳之介くん、淳子ちゃんは淳之介くんと同じお部屋のままがいいみたいだから、受け入れてあげて」
万由里にまでにこやかな表情でお願いされてしまう。
「でもなぁ……」
淳之介は当然、納得いかず。
「それに、あのお部屋だと私のお部屋と向かい合わせだし、私もあのままの方がいいな」
さらに顔をじっと見つめられ、こうお願いされてしまった。
「さあ淳之介、どうする?」
淳子に肩をポンッと叩かれる。
「……万由里ちゃんがそう望むなら、仕方がない」
淳之介はそれから十秒以上考えた挙句、要求を呑むことにした。というより、状況的にそうせざるを得なかった。
「さすが淳之介、素直ね」
淳子はにっこり微笑む。
「淳之介お兄ちゃんは万由里お姉ちゃんの推しに弱いねぇ。万由里お姉ちゃん、今度は淳子お姉ちゃんとお相撲取ってくれない?」
「えー、それはちょっと」
万由里は気まずそうに、手をぶんぶん振る。
「うちも、万由ちゃんとは取り辛いわ」
淳子も気が進まない様子だ。
「あーん、取って取ってぇ」
菜摘はしつこく頼み込む。
「菜摘、二人とも困ってるだろ」
あの間にパジャマを着た淳之介はやや呆れていた。
「あっ、菜摘ちゃん、窓にテントウムシさんが一匹留まってるよ」
万由里は話題を逸らそうとした、というよりそのことにふと気付いた。
「本当だ。ちょっとお外へ出てみよう」
菜摘はそう言うと、客室ベランダに通じる窓を開け外へ出る。そっちの方に興味を示してくれたようだ。
「ナナホシテントウさんだ。かわいい」
万由里も後に続いた。彼女は嬉しそうに、そのテントウムシを自分の手のひらに誘導する。
「あたし、久し振りに実物に出会った気がする」
菜摘も楽しそうに観察した。
「淳之介くんと淳子ちゃんも、見て見てー」
万由里は部屋に戻って見せようとしたら、
「あっ、飛んで行っちゃった」
テントウムシは飛び立って部屋の外へ逃げてしまった。万由里はちょっぴり残念がる。
「ナナホシテントウさん、本能的に万由ちゃんの指先まで動いちゃったのね」
淳子は同情してくれた。
「飛び立つ所はちゃんと見えたよ。この旅館って、隅田川花火大会の絶景ポイントにもなってるみたいだな」
淳之介はパンフレットをちらり見て気が付く。
「そうなんだ。またその時にでもこの旅館、利用したいね」
万由里がこう呟いた、その時。
「万由里お姉ちゃん、こんな昆虫さんもいたよ。東京都心って皇居みたいな広い緑地も多いから、昆虫さんも意外と多く生息してるみたいだね」
菜摘がお部屋に戻って来た。
「きゃぁっ! なっ、菜摘ちゃん、それ、早く逃がしてあげて」
万由里は菜摘の手に掴まれた体長五センチほどの褐色の昆虫を見ると、途端に顔を蒼ざめさせカタカタ震え出す。
「万由里お姉ちゃん、カミキリムシさんは怖い昆虫さんじゃないよ」
菜摘はにこっと微笑む。
カミキリムシは迷惑そうに、六本の足をバタバタさせながらキィキィ鳴き声を上げていた。
「こら菜摘、万由里ちゃん嫌がってるから早く逃がしなさい。カミキリムシも怒ってるぞ」
「菜摘、万由ちゃんをいじめたらかわいそうよ」
淳之介と淳子は注意するが、
「昆虫相撲対決させたらカブトやクワガタに次いで強そうだし、よく見るとかわいいのにな」
菜摘に反省している様子はなし。カミキリムシを手に掴んだまま万由里の側に近づき、目の前にかざす。
「菜摘ちゃん、私、幼稚園の頃カミキリムシさんに指を噛まれたことがあってトラウマになってるの。やめてやめてやめてーっ」
万由里はこう叫ぶと、顔を真っ青にさせながら菜摘の両腕を抱え込み、中にふわりと浮かせた。さらにハンマー投げをするかのように自身も回転しながらぶんぶん振り回す。カミキリムシは菜摘の指の間からぽとりと畳に落ちた。
「まっ、万由里お姉ちゃぁん、あたし、遠心力で飛ばされちゃうよぅー」
菜摘は呆気に取られた表情を浮かべながら、悲鳴を上げる。
「いいぞ万由里ちゃん、菜摘にもっとお仕置きしてあげて」
淳之介は大きく笑う。
「すぐに逃がすからぁぁぁ」
「本当?」
万由里は尚も菜摘を振り回しながら、にこにこ顔で問いかける。
「うん、約束するぅぅぅ」
「じゃあ放すよ」
万由里はぴたりと動きを止めて、菜摘を布団の上にそっと下ろしてあげた。
「万由里お姉ちゃん、ごめんね」
菜摘は半泣き。すぐさまカミキリムシを拾い上げて、外へ逃がしてあげる。
「万由ちゃんもけっこう力あるわね」
淳子はにこりと微笑んだ。
「いえいえ、そんなことは。ごめんね菜摘ちゃん」
万由里は照れくさそうに言い、菜摘に向かってぺこんと頭を下げる。
「いやいや、あたしの方が悪いから。外、ちょっと雨が降り始めたよ」
菜摘は申し訳なさそうに言い、ついでに外の様子を伝える。
「天気予報通りね。それにしても、もう十一時過ぎてたのか。みんな、夜更かしはせずにそろそろ寝ましょうね。あと、寝る前に歯磨きとおトイレは忘れずにね」
淳子はこう忠告する。
「「はーい」」
万由里と菜摘は素直に返事をした。
「子ども扱いするなよ」
淳之介は少し不快に感じたようだ。
「んっしょ」
就寝準備を整えた菜摘は布団の上にお尻をぺたんと付けると、足をガバッと大きく広げて股割りをし始めた。
「トレーニング、やっぱり今日も欠かさずやるのね」
淳子はちょっぴり感心した。
「うん、健康にも良いし。日々努力だよ」
「飽きっぽいうちとは正反対ね」
「菜摘ちゃん、えらいね。バレリーナみたいに体柔らかいね」
「菜摘も頑張り屋さんだな」
万由里と淳之介も感心していた。
菜摘はその後も腕立て伏せ、腹筋背筋運動、四股踏み、屈伸、鉄砲をこなしていく。
その間に、淳之介が布団に入ろうとすると、
「ねえ淳之介くん、私と一緒に寝て欲しいな」
万由里が突然こんなことをお願いして来て、袖をぐいぐい引っ張って来た。
「ダッ、ダメだよ」
淳之介は困惑顔で浮かべ、きっぱりと断った。
「私、動物さんのジャンボぬいぐるみを抱いてないとぐっすり眠れないの。おウチから持ってこようと思ったんだけど、大き過ぎてリュックに入らなかったから。だから……」
「俺をぬいぐるみの代わりにしようと思ったのか。ダメダメ。一緒に寝るのだけはダメ」
理由を添えてせがまれても、断固拒否する。
「あーん、お願ぁい」
万由里は駄々をこね、淳之介の肩を掴んで体を揺さぶる。
「淳之介、一緒に寝てあげなさい」
「淳之介お兄ちゃん、せっかくの機会だし、寝てあげなよ」
淳子と菜摘も要求してくる。
「無理に決まってるだろ」
淳之介が照れ気味にこう言った、のとほぼ同じタイミングだった。
窓の外に、ピカピカピカッとジグザクに走る稲光が見えた。
その約三秒後、
ドゴォゴォーンと強烈な音が鳴り響く。
「びっくりしたぁー。じゅっ、淳之介くぅん。さっきの雷さん、もの凄かったね。近くに落ちたのかも……」
「あっ……あの、万由里ちゃん」
淳之介はかなり気まずい心境に陥る。万由里が淳之介の膝の辺りにコアラのようにしがみ付いて来たのだ。
「ごめんね淳之介くん、私、今でも雷さんが怖いの」
万由里は顔を強張らせ、プルプル震えていた。
「そっ、そうだったんだ」
淳之介は意外に思った。
その時、
ズダァァァッン、バリバリバリビッシャーン! と耳を劈くようなさらに強烈な雷鳴が轟いた。
「淳之介くぅん、怖いよう」
万由里はさらに強くしがみ付いてくる。
「いっ、痛いよ万由里ちゃん」
「淳之介お兄ちゃぁぁぁん、あたしも雷さん怖ぁぁぁい。雷おこしは好きだけど」
菜摘も強くしがみ付いてくる。今にも泣き出しそうな表情をしていた。
「菜摘も、まだ雷嫌いなんだな」
淳之介は優しく微笑む。
雷はまだ、数十秒おきに鳴り続けていた。
「二人ともずるいわ。うちもー」
淳子まで加担してくる。彼女は楽しんでいる様子だった。
「ねっ、姉ちゃん、菜摘、万由里ちゃん。あんまり密着しないで。暑苦しいって」
今、淳之介の右腕に菜摘、左腕に淳子、両膝に万由里が抱きついている。淳之介は自由に身動きがとれない状態になっていた。
「夜は雷雨になるって予報、当たっちゃったみたいね」
「寒冷前線の通過によるものだから、すぐに治まってくれるとは思うんだけど、怖ぁい」
「雷さん、早く治まってぇー」
大きな雷鳴が轟く度、三人は淳之介の体に強く密着してくる。
「あっ、あの。痛いから、あまりきつく締め付けないでね。というか、姉ちゃんは早く退いて」
こんな状況でも、淳之介は嬉しさよりも苦しさの方が遥かに強く感じていた。
鳴り始めてから十分少々もすると、雨と雷は小康状態になった。
「淳之介くん、ありがとう。もう平気だよ」
「淳之介お兄ちゃんの腕、すごく柔らかかったよ」
「淳之介、なんか男の子らしく見えたわ」
三人はようやく淳之介の体から離れる。
「暑かったぁ」
淳之介はかなりくたびれた様子だった。汗もけっこう出ていた。
「あの、淳之介くん、私、やっぱり自分のお布団で寝るよ。さっき無理なお願いして罰が当たったからね」
万由里はそう伝えて、自分のお布団に潜り込む。
「分かった」
助かったぁー、と淳之介は内心ホッとした。
「おやすみなさーい。また鳴るかもしれないから、おへそしっかり隠さなきゃ」
菜摘はもう一度トイレに行ってから、お布団に潜り込む。淳之介に取ってもらったピグミーマーモセットのぬいぐるみもお隣に置いて。
(そこが菜摘の可愛らしい一面なんだけどなぁ)
先にお布団に入っていた淳之介はその様子を横目に見て、こう思う。
「それじゃ、おやすみなさい」
淳子が電気を消し、就寝準備完了。
それから五分も経たないうちに、女の子三人はすやすや眠りについた。
(すぐ隣に、万由里ちゃんがいるんだよなぁ)
こんな状況のためか、淳之介は目が冴えてしまう。
万由里ちゃんの寝顔、どんなのかな? と淳之介は気になってしまった。けれども罪悪感に駆られ、覗こうとはしなかった。彼が眠りつくことが出来たのは、布団に入ってから一時間以上が経ってからだった。