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第一話 俺の優しい姉とスパルタ指導してくる怖い妹

「サイン四五度分のタンジェント一五〇度の値を求めなさい! 五秒以内で。5、4、」

「……姉ちゃん、入ってくるなよ」

 十月も半ばを過ぎたある日の夜八時半頃、関西圏阪神地区某所に住む高校一年生の香村淳之介こうむら じゅんのすけは、自宅内のとある場所にて大学一年生の姉、淳子から早口調でこう命令され、ほとほと困り果てていた。

「淳之介ったら、なんで嫌がってるの? 今日の数学の授業の復習がきちんと出来てるか確認してあげてるのに」

 淳子は楽しそうに、にやにや微笑みかけてくる。

「答は分母有理化してマイナス3分のルート6だけど、余計なお世話だ」 

淳之介はため息交じりに言うと、摂氏四一℃ほどのお湯を手で掬い、淳子目掛けてバシャーッとぶっかけた。 

「あっつぅーい! もぉっ! 淳之介、お腹と腕、火傷するじゃない」

淳子はびくっと反応したのち、ちょっぴり怒ってお顔をぷくーっとふくらませる。

淳之介の今いるここは、浴室である。今しがた、淳之介が湯船に浸かってゆったりくつろいでいたところへ、淳子が堂々と侵入して来たのだ。

「姉ちゃん、俺が入浴中でも構わず入ってくるの、いい加減やめてくれよ」

 淳之介は淳子から目を背けてお願いする。

「だって淳之介、いつもお風呂長いんだもん。待ちくたびれちゃう」

 淳子は不満そうに理由を伝える。そんな彼女は今、おっぱい&下半身丸見えすっぽんぽんだ。

「三〇分くらいじゃないか。べつに長くないだろ」 

「男の子の入浴時間としては長いと思うわ」

「俺はそうは思わないけどな」

 淳之介はかなり迷惑そうに主張する。彼は腰に手拭いを巻いて、大事な部分はきちんと隠していた。 

「もう淳之介、そんなにつんつんしなくても。お詫びにいつもうちの裸、好きなだけ観察させてあげてるじゃない」

淳子はほんのり茶色がかったセミロングウェーブの髪をかきあげながら、微笑み顔で言う。背丈は一五八センチくらい。痩せても太ってもなく標準的な体つき。淳之介に似て四角顔でちょっぴり垂れ目。女子大生だが、まだ女子高生にも見られるちょっぴりあどけない顔つきをしているのだ。お肌もけっこう白く、すべすべしている。

「見たくないし」

そんな彼女の艶やかなヌード姿にも淳之介は一切興味を示さなかった。見向きもせず湯船から上がり脱衣場兼洗面所へ逃げる。

「淳之介、うち今、ルノワールの『岩に座る浴女』のポーズ取ってるのよ。見に来て」

そんな誘いの呼びかけも淳之介は無視。籠に置かれた淳子脱ぎたての下着類も彼にとっては道端の石。全く気にも留めず、そそくさと体を拭きパジャマに着替えてリビングへ。

「母さん、姉ちゃん入って来れないように鍵付けてくれよ」

「べつにいいじゃない。姉弟なんだし一緒にお風呂入ったって」

 その時リビング横のキッチンで食器を洗っていた母に抗議しても全く効果なし。むしろ推奨されてしまった。

「十年前ならともかく、今はあり得ないだろ」

 淳之介は不満を呟きながら、ドライヤーを手に取りコードをコンセントに差し込む。

「あたしは、淳之介お兄ちゃんと一緒に入るのは、今はさすがに無理だな」

リビングのソファに腰掛け、バラエティ番組を眺めつつ宿題を片付けていた中学二年生の妹、菜摘がにこにこ笑いながら言う。そんな彼女もつい半年ほど前までは淳之介と一緒に入りたがっていたのだ。初めての女の子の日を迎えてから、兄に裸を見せるのは恥ずかしいと思う気持ちが芽生えて来たらしい。

大人の体になりつつある菜摘だが、今でも子ネコのようにくりくりとしたつぶらな瞳に丸っこいお顔、まっすぐ伸びた一文字眉、広めのおでこが特徴的で、まだまだ小学生らしいあどけなさも残っている。日本人形のようにさらさらした黒髪を、花柄のシニヨンネットでお団子結びにしていることで、それはより一層引き立たされていた。

両親は当初、淳奈じゅんなと名付ける予定だった。けれども少年漫画に出てくる不良っぽい名前なのでやめたそうだ。それが功を奏したのか、菜摘は同級生と比べて背がちっちゃく、体つきも華奢だけれども、とっても素直でいい子に育ってくれた。   

「姉ちゃんも早く恥じらいを持って欲しいよ」

淳之介が髪の毛を乾かしていた最中、ピンポーン♪ とチャイム音が鳴り響く。

「こんばんはー」

 その約一秒後、女の子の声が聞こえて来た。

「この声は万由里ちゃんか。母さん、俺が出るよ」

 淳之介はドライヤーを元の位置に戻すと玄関先へ向かい、扉を開けた。

「淳之介くん、こんばんは。お風呂上りなんだね。私もだよ。さっき入ったところ」

訪ねて来たのは、淳之介の物心ついた頃からの古い幼馴染、万由里ちゃん、フルネーム清瀬万由里きよせ まゆりだった。アサガオ模様のついたパジャマ姿で、ほんのり栗色みがかった黒髪がしっとりと濡れていた。

「そうなんだ」

 そんな万由里のなりを見て、淳之介は少しドキッとなる。ラベンダーの石鹸やオレンジのシャンプーの香りも万由里の体から漂い、彼の鼻腔をくすぐっていた。 

「回覧板届けに来たよ。はい」

「ありがとう。じゃあ、また明日ね」

「あっ、待って淳之介くん、パジャマから糸くずが出てるよ。取ってあげるね」

「あっ、どっ、どうも」

万由里に肩を触れられ、淳之介はほんの少し照れてしまう。

面長でぱっちりとしたつぶらな瞳、きれいなピンク色をした薄い唇、細長い八の字眉、丸っこい小さなおでこがチャームポイントの万由里、すらっとした体型で背丈は一六九センチの淳之介より少し低い一六三センチくらいあり、おっとりのんびりとした雰囲気を漂わせているのだ。

「万由里お姉ちゃん、こんばんはーっ!」

 菜摘も玄関先へとことこ駆け寄って来て、嬉しそうにぺこんと頭を下げ、元気な声でご挨拶した。

「こんばんは菜摘ちゃん」

 万由里は少し中腰になり、爽やかな笑顔で挨拶を返す。

菜摘の背丈は、一四〇センチをほんのちょっと超えるくらいしかないのだ。

「やっほー万由ちゃん、お久し振りー」

 さらに淳子も玄関先へ駆け寄ってくる。バスタオル一枚肩の辺りから膝上にかけて羽織っただけのきわどい格好だった。

「姉ちゃん、シャンプー付けたまま出て来るなよ」

 否応なく目に飛び込んでくる淳子のなりに、淳之介はほとほと呆れ返っている。

「こんばんは淳子ちゃん、目下入浴中だったんですね。頭がビールになってます」

 万由里はくすっと笑った。

「美味しそうでしょ? 万由ちゃん、淳之介が勉強のことでいつもいろいろ迷惑かけてるみたいでごめんね」

「いえいえ、私の方こそ淳之介くんにいろいろ迷惑かけてますから。じゃぁ淳之介くん、菜摘ちゃん、淳子ちゃん。また明日ね。ばいばい」

万由里は謙遜気味に言い小さく手を振って、自宅へと帰っていく。

万由里の自宅は、淳之介の自宅のすぐお隣なのだ。しかも浴室は低い塀越しに向かい合っていて、双方の窓が開いていれば互いの浴室を覗けるようにもなっていた。

「母さん、これ」

「どうも」

万由里から受け取った回覧板を母に渡すと、淳之介は二階にある自室へ。彼の自室はフローリング仕様になっていて、広さは一〇平方メートルほどある。畳に換算すると六畳くらいだ。出入口扉側から見て左の一番奥、窓際に設置されてある学習机の上は教科書・参考書類やノート、筆記用具、プリント類、CDラジカセ、携帯型ゲーム機やそれ対応のソフトなどが乱雑に散りばめられてはおらず、きちんと整理されている。彼の几帳面さが窺えた。

机備え付けの本立てには今学校で使用している教科書・問題集・副読本類の他、地球儀や、動物・昆虫・恐竜・乗り物・天体・植物などの図鑑といった、淳之介の幼少期に母が買い与えてくれた物も並べられてあった。

机の一メートルほど手前には、木製のラックに載せられたDVD/BDレコーダー&二〇インチ薄型テレビがあり、さらに扉寄りに幅七〇センチ奥行き三〇センチ高さ一.五メートルほどのサイズの本棚が配置されている。そこには三大週刊少年誌連載のコミックスが百冊くらいある他、ライトノベルやアニメ雑誌といったオタク趣味を思わせる本も十数冊並べられていた。普通の男子高校生が読みそうなスポーツ誌やメンズファッション誌は一冊も見当たらない。

(一応、読んでみるか)

 淳之介は明日ある授業の用意を整えると、彼の小学一年生時代から九年来の親友、今同じクラスの大徳敏光だいとく としみつから今日借りたライトノベルを手に取った。本棚向かいのベッドに寝転がって読み始める。

 一五分ほど後、

「淳之介、またエロ本なんか読んで、いけない子ね」

 淳子がノックもせずに入り込んで来たが、これはいつものことである。

「姉ちゃん、ラノベはエロ本じゃないって何度も言ってるだろ」

 淳之介は困惑顔で主張する。ただ、淳之介が読んでいたライトノベルは、表表紙に下着丸見えの制服姿な可愛らしい少女のカラーイラストが描かれてはいた。

「そうかな? アメリカのお菓子みたいな髪の色した女の子の下着や水着姿、それどころかすっぽんぽんのおっぱいぷるるんなカラーイラストや挿絵もあるし、不健全よ」

「俺の目の前でも平気で裸になる姉ちゃんよりは遥かに健全だろ」

「もう、ひどいよ淳之介」

「いってぇっ」

 頬をぷくーっとふくらませた淳子にほっぺたをぎゅーっと抓られてしまった。

「淳之介、ちょっとこのエロ本借りるわね。淳之介が読んでいいものかどうか確かめてくるから」

「いいけど姉ちゃん、香水の匂いは付けるなよ。敏光はそういう匂い苦手だから」

「分かってるって。じゃ、また後でね」

 淳子はそう告げて、お部屋から出て行く。淳子のお部屋はここのすぐお隣だ。

 奪われてしまった淳之介は勉強、ではなくベッドに寝転がり携帯ゲームで遊び始めた。

 それから約二分後、

「淳之介、読み終わったから返すね」

 淳子が戻ってくる。

「読むの早いな」

「だって、五ページくらいで読むのやめたから。なんか、恥ずかしくなっちゃって。淳之介にはまだ早いわ」

 淳子は頬をポッと赤らめた。

「音読するからだろ。めっちゃ聞こえてたぞ」

 淳之介が呆れ顔でこう呟いたその時、

「ラノベは、買うのが恥ずかしい表紙のが多いよね」

 菜摘もこの部屋に足を踏み入れてくる。風呂上り、暗闇で光るフォトプリントパジャマ姿だった。

「菜摘もラノベっていうエロ本、読んでるの?」

 淳子の質問に、

「うん、ちょっとだけ。お友達も読んでるし。ラノベは図書室にたくさん置いてるから、あたしの学校でもけっこう流行ってるよ」

 菜摘はきっぱりと答えた。

「ラノベは、菜摘にはまだ早いと思うわ」

 淳子は心配そうに意見する。

「やっぱりそうだよね。カラーページとか、挿絵にもいやらしいイラストが多いし、文章も稚拙だし、最後まで読めたのは一冊もないもん」

 菜摘はちょっぴり恥ずかしそうに呟く。

「淳之介がラノベに嵌りつつあるけど、菜摘はのめり込んじゃダメよ」

 淳子は優しい口調で注意した。

「はーい。国語の先生も国語の成績アップには読書習慣を身につけることが大事っておっしゃってたけど、ラノベは例外で逆に読めば読むほど成績が落ちるくだらない有害図書って批判してたからね」

 菜摘は素直に聞き入れる。

(俺の同級生でも読書好きだけど、ラノベはくだらないから一切読まないって言ってるやつはいるなぁ。年配者だとその傾向はますます強いだろうな)

 この時、淳之介はこう感じた。

「ところで淳之介お兄ちゃん、今日の数学の宿題は全部出来た?」

 菜摘からの突然の問いかけに、

「うっ、うん」

 淳之介はやや緊張気味に答えた。続けて数学Ⅰの演習プリントを通学鞄から取り出し、菜摘に手渡す。

「じゃ、確認するね」

 菜摘がじっくり目を通し始めてから約一分後、

「全問正解。途中の計算式もよく出来てるね」

 確認終了。菜摘は中学二年生ながら既に高校数学も全過程マスターしているのだ。さらに他の科目についても中学生としてはかなりの知識を持っている。

「まあ、今回のは簡単だったから」

 淳之介は苦笑いを浮かべる。

「それじゃ淳之介お兄ちゃん、この問題を解いてみて。一分以内で」

 菜摘は数学ⅠA問題集のとあるページをかざしてくる。

「えっ、えっと……」

 淳之介は学習机備えの椅子に座った。シャープペンシルを手に持ち、思考回路を巡らせる。しかし解法が全く思い浮かばない。

「宿題のプリントと同じ単元なのに、全然出来ないじゃないっ! どうせまた万由里お姉ちゃんのを写させてもらったんでしょ?」

「そっ、そうです」

「もう、ダメだよ淳之介お兄ちゃん。自分の力で解かなきゃ」

 菜摘はニカッと微笑みながらそう言うと、淳之介のズボン裾を両手でガシッと掴んで椅子から離し中に浮かせた。さらに淳之介をベッドの上に思いっきり叩き付けた。

「いってぇー、背骨が折れそう」

 仰向け状態になった淳之介、すぐに立ち上がって逃げようとしたら、

 パチーッン!

 と、菜摘から顔面に張り手を一発食らわされた。

「ぅぶぉ!」

 淳之介、あまりの衝撃にその場にバタッと倒れこむ。彼は脳震盪を起こしかけた。

 小枝のように細い腕と、もみじのように小さな手のひらから繰り出されたものとは思えないほど、とても重たかった。

 淳之介は普段の学習があまりよく出来ていないと、菜摘からさっきのようなお仕置きをされるのだ。

菜摘は学業優秀なだけでなく、守ってあげたくなるような外見とは裏腹に淳之介とは真逆でスポーツも万能。中でも特に信じられないのが、その体格で〝相撲〟を愛好していることなのだ。淳之介は昔から練習相手として度々標的にされ、何度も何度も何度もぶん投げられたり突き飛ばされたりした苦い経験がある。

菜摘が髪型をお団子結びにしているのは、力士が結う髷を意識しているからなのだそうだ。

「菜摘、淳之介鼻血出してるわよ。もう少し手加減してあげなさい」

 淳子は少し心配そうに、うつ伏せ状態の彼の様子を眺めながら注意する。

「淳子お姉ちゃんは指導が甘過ぎるよ。だから淳之介お兄ちゃん成績が下がっちゃったんだよ」

 菜摘は不満そうに言い張る。

「菜摘が頭叩き過ぎてるような気もするけどね」

 淳子は苦笑いし、お部屋から出て行った。

「菜摘、体罰は全く効果ないだろ」

 淳之介は不満を言いながら、ゆっくりと立ち上がる。

「問答無用! さあ、今日の数学の特訓始めるよ」

 菜摘に二カーッと微笑みかけられると。

「分かったよ菜摘」

 淳之介は恐れをなし、しぶしぶ椅子に座った。情けない話だが、彼が菜摘にケンカで勝てたことは幼児期から一度もないのだ。そのため菜摘の命令に逆らうことは出来ないなという意識を持ってしまっている。

「前回習ったところの復習からだよ。問い6を解きなさい!」

 菜摘はさっきとは別の数学ⅠA問題集のとあるページを開き、学習机の上に置く。

「菜摘、この問題集、難易度相当高いやつだよな」

「淳之介お兄ちゃん、つべこべ言わずにシャーペン持ってさっさと解いてっ! 標準時間は五分だよ」

「わっ、分かった、解くから」

菜摘にむすっとした表情で命令され、淳之介はシャープペンシルを手に持ち、仕方なく問題を解き始める。三角比に関するものであった。

約八分後。

「淳之介お兄ちゃん、答は合ってるけど解くの遅ぉーい! 次ぃ、問い7、これも標準五分だよ。あたしならこんなの二分くらいで解けるけどね」

 菜摘は淳之介の足の指を思いっきり踏みつけながら注意する。

「わっ、分かったから、やめろって」

淳之介は菜摘に命令されるがまま、同じ単元に関する問題を解いていく。

「さっきよりは早くなったけどまだ遅いなぁ。もっと頑張ってね、淳之介お兄ちゃん。次は単元変えるね」

 菜摘は続いて、一学期の復習内容の二次方程式と因数分解に関する問題を解かせた。

十数分後、

「制限時間大幅オーバー、それに、計算間違いも多いよ。次はこのページの問い5の問題を解きなさい!」

菜摘がまたまた命令してくる。

「わっ、分かった。今度は個数の処理かぁ。その分野は特に苦手なんだよなぁ」

淳之介は括弧1の、7人の中から生徒会長と書記を選ぶ組み合わせという基礎的な問題から悩んでしまう。

「淳之介お兄ちゃん、手を休めちゃダメーッ!」

「あいたぁーっ!」

 平手で肩をパチーッンと叩かれてしまった。淳之介はこれ以上体罰されないようにと、必死に思考回路を巡らせシャープペンシルを動かし問題に取り組む。

 次に課された二次関数に関する問題を解いている途中、

「淳之介、菜摘、夜食よ」

 淳子が焼き立てほかほかのホットケーキと、温かい紅茶を持って来てくれた。彼女の手作りだ。

「サンキュー淳子お姉ちゃん。いっただきまーす♪」

 菜摘はホットケーキにフォークを突き刺し、満面の笑みを浮かべながら美味しそうにもぐもぐ味わっていく。

「ありがとう姉ちゃん」

 淳之介も手を休めて、軽食を取る。

 二人とも三分ほどで取り終えて、

「それじゃ、引き続き頑張ってね。菜摘、あまりきつい体罰はしちゃダメよ」

淳子が食器を持ってお部屋から出て行くとお勉強再開。

「淳之介お兄ちゃん、こんな簡単なのが解けないなんて、中学レベルの基礎すら全く出来てないじゃないの?」

「いてててぇっ」

 その後も淳之介は菜摘から時折ほっぺたを強く抓られるなどの体罰をされながら、問題をいくつか解かされていった。

「今日はこの辺にしておいてあげる。それじゃ、授業料貰っとくね」

 菜摘は学習指導するたび、淳之介の財布から百円徴収していくのだ。淳之介は母から月にお小遣いを五千円貰っているものの、毎晩のようにこうした制裁が下されるため半分くらいは菜摘の懐に入ってしまうのである。

「淳之介お兄ちゃん、おやすみなさーい」

 徴収した菜摘は無邪気な笑顔でそう告げて、お部屋から出て行ってくれた。

(菜摘の学習指導には、もううんざりだよ。笑うとえくぼが出てかわいいんだけどなぁ)

 淳之介は椅子に座ったまま大きく背伸びし、リラックス。

 今、時計の針は午後十一時過ぎを指していた。

「さてとっ!」

 菜摘は畳換算で六畳の自室に入るとそのままベッドにごろんと寝転がり、足をガバッと大きく広げて股割りをし始めた。夜寝る前の日課なのだ。菜摘はその後も腕立て伏せ、腹筋背筋運動、屈伸、壁を使って鉄砲、四股踏みをこなしていく。稽古熱心な彼女だが、学校で相撲部に入っているというわけではない。というよりそんな部活はない。さらに地域の相撲教室に通っているというわけでもない。自己流で稽古を積んで来たのだ。

菜摘の所属する部活は柔道部、もしくはその他の運動部、でもなく意外なこと、いや、彼女のか弱そうな見た目からすればまさにぴったりの文芸部に入っている。小学校時代も名称は違うが似たような活動内容のマンガ部所属だった。

じつは菜摘は今でも幼い子ども向けの絵本やアニメやマンガや小説が大好きで、将来は絵本作家になりたいとも願っているのだ。金太郎のお話が一番好きらしい。彼女の自室にある本棚には、幼稚園児から小学生向けの少女漫画誌や少女コミック、児童図書、絵本などが合わせて二百冊くらい並べられていて、普通の女子中学生が好みそうなティーン向けファッション誌は一つも見当たらない。クマやウサギ、リス、ネコ、ゴリラといった可愛らしい動物のぬいぐるみも学習机や衣装ケースの上にたくさん飾られていて、お部屋の様子はあどけない女の子らしさが醸し出されている。

ただ、壁にはちょっと変わった物も留められてあった。

p=mv と墨で横書きにされた色紙入りの額が飾られてあるのだ。

女の子としても小柄な菜摘が相撲を取る時に意識している数式らしい。

(明日の調理実習、すごく楽しみだなぁ) 

菜摘は明日ある授業の用意を整えると、お気に入りのエゾヒグマのジャンボぬいぐるみをベッドの上に動かした。未だにぬいぐるみを抱いていないと落ち着いて眠れないのだ。

淳子と淳之介の力は強いけれどちっちゃくてあどけない妹、菜摘が淳之介に対して教育熱心なのには、ある理由がある。

香村家はかつて、親戚一同含めて男は皆、東大か京大のいずれかへ進学していた高学歴一族だった。江戸時代末期生まれで東京帝国大学卒の、淳之介達三人姉弟妹の父方高祖父の代からそれは受け継がれていた。女も、昭和以降に生まれ育った者は皆、東大か京大のいずれかへ進学していた。

淳之介達三人の父方祖父、藤太郎と彼の二人いる妹は京大卒。

藤太郎の息子、淳之介達三人の父に当たる彦市ひこいちの二人いる姉のうち長女が東大卒、次女が京大卒である。 

ところが、末っ子の彦市が香村家の伝統をついに途切させてしまったのだ。彼の一学年上の兄が東大へ一浪で進学して以降今に至るまで三〇年以上、香村家から親戚一同含めても東大または京大へ進学出来た者はただ一人として現れていない。

彦市は三浪もしたものの東大・京大には己の学力が及ばず、最終学歴は神戸大卒。それでも世間一般的にはじゅうぶん高学歴といえよう。そのためか彼は香村家の一員としての引け目をほとんど感じていなかった。

母、春美も神戸大卒だ。お互い大学で知り合ったらしい。

この二人の長女、淳子は今年の春、神戸大に落ち、滑り止めに受けて受かった立命館大学に通っている。

両親共にこれからの時代は、高学歴というだけでは就職時にあまり意味をなさなくなってくるという考えを持っていて、自分に合った大学に通うことが最も良い選択であると考えている。淳子も、淳之介も両親と同じような考えだ。

けれども末っ子の菜摘がそうは全く思っていない。彼女は将来、祖父、藤太郎らの母校、京都大学へ進学することを幼児期から既に目標にしていた。そして両親や淳子の不甲斐無さを見兼ねてか、淳之介にも京都大学へ進学して欲しいと強く願っている。淳之介の学業成績に関して、菜摘が一家で最も関心を寄せているのだ。それは淳子の通う大学が決まってからより一層顕著になった。

両親は淳子や淳之介に対して特に教育熱心なわけでもなく、菜摘に対してもそれは同じであった。淳子も淳之介も公立の小中高というごく平凡な進学コースを辿って来た。けれども菜摘は自分の意思で中学受験をし、見事第一志望校である近隣の名門私立女子中高一貫校に合格を果たしたのだ。驚くべきことに塾へは一切通わず独学で。

ちなみに淳之介と万由里が今通い、淳子の母校でもある県立夙葉丘しゅくばおか高校も、東大・京大・その他国立大医学部現役合格者を毎年コンスタントに輩出しているそれなりの進学校ではある。


「淳之介、頑張ってるわね。英語の宿題はちゃんと出来てるかな?」

 まもなく日付が変わろうという頃、淳之介が机に向かって英語の宿題に取り組んでいたところ、淳子が部屋に入り込んで来た。

「うん、まあ、大体は」

 淳之介はこう伝えて、宿題の演習プリントを淳子に手渡す。

「淳之介、問い3の(2)は現在形のままよ。あと問い5の(1)と(4)、問い7の(3)も間違えてるわ」

 淳子は間違いを指摘すると、淳之介に正しい答を教え、書き直させていく。

「ありがとう姉ちゃん。姉ちゃんの教え方は菜摘よりもずっと丁寧で上手いよ。数学も姉ちゃんが教えてくれたらいいんだけど」

「うちには数学は中学レベルでも無理。分数の出来ない大学生だから」

 淳子はてへっと笑う。

「文学部だもんな」

 淳之介は苦笑いした。

「英語一科目さえ出来れば、私立文系なら大抵の大学で通用するからね。淳之介は、最近英語に躓いちゃってるみたいね」

「そうなんだ。高校の英語は難しい。特に時制。覚えなきゃいけない英単語やイディオムも中学の頃とは比較にならないくらい増えたし」

「そっか。そこで躓き易いよね。英語の語彙をたくさん身につけるための秘訣は、簡単な英単語でもちゃんと辞書を引いて意味を詳しく調べることよ。takeとかgetとかhaveとかgoとかcomeとか、中一で習った今さら調べるまでもないって英単語でもね。むしろそういう英単語の方が、一つの英単語にいろんな意味が含まれてあって、こんな訳し方も出来るって気付かされるものなのよ」

「アドバイスありがとう、姉ちゃん」

「どういたしまして。今はついていけなくても、毎日こつこつ頑張れば、淳之介はすごく真面目な子だから、近いうちに学習の成果が現れてくると思うわ。それじゃ淳之介、おやすみ」

 淳子は淳之介の頭を優しく撫でて、お部屋から出て行く。

(姉ちゃんは俺を子ども扱いし過ぎだよ)

 淳之介は迷惑がるものの、若干嬉しく思う気持ちもあった。彼は敏光から借りていたラノベをそれから十分ほどで読み終えると鞄に仕舞い、電気を消して布団に潜り込む。

 

           ☆


 翌朝、香村宅淳之介の自室。七時三五分頃。

「淳之介お兄ちゃん、起っきろーっ! ウェイクアーップ!」

 菜摘のこんな威勢のいい声が響き渡る。

「いってぇ。菜摘、いい加減その起こし方止めてくれ、重い」

 淳之介はすぐに目を覚まし、苦しそうな表情でお願いする。彼の腹の上に思いっきり乗っかられたのだ。大相撲の決まり手で表現するならば、浴びせ倒しを食らわされた直後のような状態である。

「もう、淳之介お兄ちゃん、重いは失礼だよ。あたしまだ三〇キロ台なのに」

「いっててて」

 さらに強く密着されてしまった。

「早く朝ごはん食べてね。じゃあ、行ってきまーす♪」

 菜摘はようやく離れてくれた。元気な声で告げてお部屋から出て行く。阪急電車通学の菜摘が家を出るのは、いつもこのくらいだ。

淳之介も起き上がり制服に着替えて、キッチンへと移動。テーブル席に腰掛け、朝食を取り始める。

(菜摘、こんなに食べ切れないよ)

 お皿に盛られたメニューを眺め、淳之介は苦笑い。

 菜摘は母の朝食作りも手伝っているのだ。一番得意な料理はジャンボおにぎりである。

天気予報を見終えてまもなく午前八時になろうという頃、ピンポーン♪ というチャイム音が鳴り響いた。

「はーい」

 母が玄関先へ向かい、対応する。

「おはようございます、おば様」

 お客さんが先に玄関扉を開けた。

 万由里であった。 

 学校がある日は、いつもこの時間帯くらいに迎えに来てくれるのだ。

淳之介は中学に入学した頃から現在完了進行形で登校は別々でも良いと思っているのだが、万由里がそうは思っていないので付き添ってあげているという感じである。とはいっても淳之介もべつに嫌がってはいない。けれども通学中に同じクラスのやつにはあまり会いたくないなぁ、という思春期の少年らしい照れくさく思う気持ちはあった。

淳之介はまもなく朝食を取り終えると通学鞄を肩に掛け、玄関先へと向かう。

万由里は、今日は髪の毛を少し巻いて、真っ白なシュシュで二つ結びにして留め、肩の辺りまで下ろしていた。シュシュの色はほぼ毎日のように変えているが、ヘアスタイルはほとんど同じなのだ。

 八時頃、高校教師である淳之介の父と、淳子もこの時間には既に通勤通学しているので専業主婦の母一人残し、万由里と淳之介は家を出発。この二人は高校へ入ってからも徒歩通学である。香村宅から夙葉丘高校まで1.5キロ圏内の自転車通学禁止区域に指定されているからだ。  

公立校らしいオーソドックスな紺色ブレザー型冬用制服を身に纏った二人は、門を抜けると通学路を校則に従い一列で歩き進む。

学校までは徒歩で約一六分。二人は校舎に入ると最上階四階にある一年二組の教室へ。保幼小中高同じ学校に通い続けている二人は小学六年生の時以来、久し振りに同じクラスになることが出来た。芸術の選択科目で同じ書道を取ったため、なれる確率も高かったのだ。

「マユリちゃん、おっはよう!」

「おはよう万由里さん」

 万由里が自分の席へ向かおうとすると、彼女の幼稚園時代からの大の親友、松永柚花まつなが ゆずか高比良賢子たかひら たかこが挨拶してくる。淳之介にとっても古い顔馴染みの子達だ。 

「おはよー柚花ちゃん、賢子ちゃん。今朝は冬の気配を感じたね」

万由里は爽やかな表情と穏やかな声で返してあげ、席に着いた。

柚花は背丈が一四五センチくらいで小柄。加えて、くりっとした真ん丸い目で丸っこいお顔、ほんのり栗色がかった黒髪をマッシュルームカットにしており、小学生に間違えられても、いや、むしろ高校生に見られる方がもっと不思議なくらいの幼い風貌なのだ。

賢子は、背丈は一五五センチくらい。まん丸な黒縁メガネをかけて、濡れ羽色の髪の毛を左右両サイド肩より少し下くらいまでの三つ編みにしており、とても真面目そうで賢そう、加えてお淑やかで大人しそうな優等生らしい雰囲気の子である。

二人とも文化系っぽい感じの子で、万由里も見た目が文化系女子なので釣り合いの取れた仲良し三人組だ。ただ、柚花はスポーツもけっこう得意である。

「ジュンちゃん、昨日はナッちゃんにかわいがりされた?」

 そんな柚花が淳之介の席に近寄って来て、にこにこ顔で問いかけてくる。

「ああ、顔に強烈な張り手食らわされた。最近ますます力強くなって来て困ってるよ。こうなったのも、元はといえば松永さんのせいだよ。菜摘に相撲なんか教えたから」

 淳之介は少し眉を顰める。

「いやぁ、ワタシが教えなくたってあの子、結局は相撲に嵌ってたと思うよ」

 柚花はにっこり笑いながら主張する。じつは柚花は、小学一年生の頃から中学三年の秋頃まで小柄ながら相撲をやっていたのだ。昨年、中学三年の時には無差別級で行われる地元の女相撲大会中学生の部で準優勝に輝いた。それで満足してしまったのか、その大会をもって柚花は相撲をぱったりと辞めてしまったのである。大相撲の取組を見るのは今でも相変わらず大好きなのだが。

「確かに、俺の爺ちゃんが相撲めっちゃ好きだからな。藤太郎爺ちゃんは力士になりたかったんだけど体が小さ過ぎてなれなかったから、代わりに大学受験界の西横綱、京大理学部物理学科に進むことにしたんだって言ってたな。実際果たしたから天才過ぎるよ本当」

「私は菜摘ちゃんにピアノを教えたんだけど、あまり興味を示してくれなかったよ」

 万由里も話に加わる。

「もし菜摘がピアノの方に興味を向けてくれていたら、どれだけ平和だったことか。大相撲のルールに則ってグーでは絶対殴って来ないのは律儀なんだけど」

 淳之介は苦笑い。

「淳之介さんの妹の菜摘さんって、相撲がとっても強いだけじゃなく、お勉強もとってもよく出来るのは凄いわね」

 賢子も話に加わって来た。

「それは俺も超人過ぎると思ってる。夙高以上の進学実績のあの学校で学年トップクラスだからな。文武両道の鏡だよ菜摘は。音楽だけは唯一苦手教科みたいだけど、それでも俺の中学時代の成績よりは良かったな」

 淳之介は菜摘のことを尊敬もしているようだ。

八時二七分頃、

「やぁ、淳之介殿ぉ」

「おはよう、敏光。今朝はちょっと寒かったけど、やっぱまだ汗だくだな」

親友の敏光が登校して来てのっしのっしと近寄って来る。身長一八五センチ、体重はなんと一三〇キロ以上の大相撲力士としても申し分ないたいそう恵まれた体格をしている彼は、小学校を卒業する頃にはすでに一七〇センチ、百キロ以上に達していた。

その大柄かつ仏顔な外見から相撲が強そうに思われるが否、彼の相撲経験は0である。それどころか、敏光はスポーツ超苦手なのだ。学年始まって間もない四月、体育の授業で行われた新体力テストでも、結果は握力以外全て同学年男子の平均以下だった。五〇メートル走に至っては一一秒台後半と、同級生の足の速い子の百メートル走よりも時間がかかってしまうという有様だった。あまりに太り過ぎているからだろうと淳之介は推測する。

「淳之介殿、あのラノベ面白かったか?」

「そうでもなかったな。だんだん飽きて来て斜め読みになった」

 淳之介はこう答えると、昨日借りたラノベを鞄から取り出す。

「おいら、保存用と観賞用持ってるから返さなくてもいいぜ。淳之介殿にプレゼントだ」

「でもさぁ……」

「まあまあ、貰っておけって。後で読み返せば面白く感じるかもしれねえぜ。次はこれ読んでみろ。今、サ○テレビで木曜深夜にアニメもやってるぜ」

 敏光は鞄の中から例の物を一冊取り出し淳之介に手渡してくる。表表紙はスクール水着姿の可愛らしい少女だった。

「一応、借りておこう」

先生に見つかるとまずいだろ、と思った淳之介は、受け取るとすぐさま鞄の中に片付けた。

「おはよう、光ちゃん」

「……おっ、おはよぅ」 

突如、万由里に明るい声で挨拶された敏光は、思わず目を逸らしてしまった。彼は万由里に限らず、三次元の女の子がよほど年上でもない限り苦手なのだ。そんな彼は、小学五年生頃からラノベや萌え系の深夜アニメに嵌っていたのだという。

「光ちゃん、英語と数学の宿題はちゃんと出来てる?」

「はっ、はい」

「そっか。えらいねえ」

万由里が優しく褒めてくれたちょうどその時、八時半の、朝のホームルーム開始を知らせるチャイムが鳴り響いた。

万由里と敏光他、立っているクラスメイト達はぞろぞろ自分の席へと向かっていく。

「皆さん、おはようございます」

ほどなくして、クラス担任で国語科の児島先生がやって来た。彼女はいつも通り出欠を取り、諸連絡を伝えたあと、

「それでは皆さんお待ちかねの、でもないかな? 中間テスト個人成績表を返却しますね。呼ばれたら取りに来てね。浅尾くん」

 こう告げる。出席番号順に返却されていった。

 朝のホームルームが終わると、

「淳之介殿ぉ、おいら、成績かなり下がったぜ」

敏光が苦笑いを浮かべながら結果報告をしに来た。全八クラス三一二人中での順位が掲載されており、敏光は全科目平均点を大きく下回って総合点の学年順位は二九一位だったのだ。

「敏光、ちょっとの油断ですぐにビリになりそうな順位だな。俺も一二五位まで下がっちゃったよ。やっぱこの高校は周りのやつのレベル高いよな」

「同意。おいら、中学時代は総合点、平均下回ったことないし」

「ともかく、これはかなりやばいよ」

 敏光と淳之介とでこんな会話を弾ませている最中、

「淳之介くん、すごく暗い表情だね」

万由里が心配そうに話しかけて来てくれた。

「母ちゃんに叱られるからであるか?」

 敏光も問いかける。

「そうじゃなくて、菜摘に」

 淳之介が苦笑いを浮かべながら呟くと、

「そっか。おまえのリアル妹、超教育熱心だもんなぁ」

 敏光は深く同情してくれる。

「姉ちゃんはすごく優しいけど、菜摘はめっちゃ怖いんだ。すぐに暴力振るうし。敏光の三次元女嫌いな気持ち、俺にもよく分かるよ」

 淳之介はため息交じりに言う。

「淳之介くん、私も順位落ちたから、気にしちゃダメだよ。期末で挽回すればいいんだよ」

万由里は優しく励ましてくれる。落ちたとはいっても、この二人に比べれば遥かに成績優秀で、三二位。高校入学以降、校内テストの総合順位はいつも上位一割付近なのだ。

時を同じくして、

「ワタシ、谷風梶之助の通算勝ち星と同じ二五八位だったよ。一学期末より二〇位以上落ちたけどめっちゃ嬉しい!」

 柚花は賢子に結果報告しにいっていた。

「嬉しがっちゃダメでしょ。理系に進むんだから双葉山さんの連勝記録くらいまでは昇進させなきゃ」

 賢子は呆れ顔で辛口コメント。

「確かにそうだよね、このままじゃワタシ、次の中間は小錦さんの現役時代の最高体重まで落ちちゃうかもだし。タカコちゃんは、トップ狙ってたけど取れた?」

「無理だった。また二位だったわ。やっぱりこの学校じゃ一位の壁は高いよ」

 賢子はけっこう悔しがっていた。彼女は、中学時代は校内テストの総合得点で常に学年トップだったのだ。

「でも、順位を大相撲の番付に例えたら西横綱じゃん。ワタシなんか万年序二段だよ」

 柚花はにっこり笑う。

 文理選択希望調査は二学期始めに既に行われており、淳之介、敏光、万由里、柚花、賢子の五人とも二年次から理系に進もうとしているのだ。

敏光は古典と英語が苦手だから、柚花は万由里や賢子が理系に進むから自分もという単純な理由であった。


       ☆


「ただいま」

夕方六時頃、淳之介が帰宅し、リビングに足を踏み入れるや否や、

「淳之介お兄ちゃん、今日中間テストの個人成績表返って来たんでしょ? 見せなさい!」

 いきなり母、ではなく妹、菜摘からの要求。

「分かってるって」

淳之介はソファにどかっと腰掛けると、しぶしぶ個人成績表を鞄から取り出し、ローテーブル越しに向かい合う菜摘に見せる。

「……淳之介お兄ちゃんったら、また番付下がってるじゃない。もっと本気で勉強しなきゃダメじゃないのっ!」

 点数を眺めた菜摘は怒り心頭。眉をへの字に曲げ険しい表情へ。

「なっ、菜摘ぃ。これでもまだ、平均点以上あるだろ」

 淳之介はややびくびくしながら主張した。

「平均をちょっと超えれたくらいで満足してちゃダメでしょ。淳之介お兄ちゃんの高校のレベルなら少なくとも学年上位一〇番以内に入らなきゃっ!」

「うぶぉぁっ」

 淳之介は菜摘の張り手一発で壁際まで突き飛ばされてしまった。

「まあまあ菜摘、淳之介も頑張ってるんだし、褒めてあげてもいいんじゃない?」

 キッチンにて夕食準備中の母は優しく意見する。多くの家庭では、成績のことに関して叱るのは親の役目だが、ここ香村宅ではいつも妹、菜摘なのである。

「でもお母さん、この成績のままじゃ淳之介お兄ちゃん、京大へ行けないよ」

 菜摘は困惑顔を浮かべ、心配そうに訴える。

「そこまでレベルの高い大学を無理して目指さなくてもいいじゃない」

 母はこう意見してくれた。

「俺もそう思う。京大に入れるのは生まれつきの天才くらいだろ。姉ちゃんもそう思うだろ?」

 淳之介は、夕食準備を手伝っていた淳子に問いかける。

「淳之介は、やれば出来る子だから、今からしっかりお勉強頑張れば、京大にも現役で合格出来ると思うわ」

 淳子は励ますように言った。

「そんなことあり得ないって」

 淳之介は迷惑そうに主張。

「淳之介お兄ちゃん、〝努力に勝る天才なし〟だよ。万由里お姉ちゃんも賢子お姉ちゃんも、おバカな柚花お姉ちゃんですら京大目指してるんでしょ。淳之介お兄ちゃん、このままじゃ仲間外れにされちゃうよ」

 菜摘は真剣な眼差しで警告する。

「そんなの関係ないから」

淳之介はそう言って、ローテーブルに置かれた個人成績表を手に取ると自室へ逃げていく。

「向上心の無い淳之介お兄ちゃんには、きつーい罰が必要だね。ねえ淳子お姉ちゃん、ちょっといいアイディアが浮かんだんだけど」

 菜摘はそう伝えて、淳子に駆け寄りこそこそ耳打ちする。

「グッドアイディアね。うちはぜんぜん構わないわよ」

 相談事を、淳子は快く承諾した。


 その日の夜、九時頃。

「今日は姉ちゃん、入ってこなくて良かったよ」

 風呂から上がった淳之介はこう呟いて、自室の扉を開けた。

「……あっ、あれ?」

 瞬間、淳之介は目を丸くする。いつもと違う光景が広がっていた。

「ない、何も無い」

 つい風呂に入る前までここにあった淳之介の学習机、本棚、テレビ、衣装ケース、ベッド、他いろいろ荷物が全て無くなっていたのだ。

「どういうことだよ、これ」

 淳之介は唖然とする。

 そこへ、

「淳之介のお部屋は、姉ちゃんのお部屋に再統合されました。ラノベのタイトル風」

 淳子がにこにこ笑いながら背後から話しかけて来た。

「えっ!」

 淳之介は当然のように驚く。くるっと体の向きを変え、すぐにこのお部屋から出て、淳子のお部屋の扉を開けてみた。

「香水臭っ、俺の部屋にあったものが、移動されてる」

 扉側から見て左半分はピンク系統のカーテンやカーペットやベッドで彩られ、窓際に観葉植物、学習机の周りにビーズアクセサリーやお人形、オルゴールなどが飾られた女の子らしいお部屋。ようするに淳子のお部屋の様相。

 右半分は元の淳之介のお部屋の様相。

 ただし、淳之介の使っていたベッドは無かった。

「ベッドは入らなかったからね。淳之介のベッドはお父さんの書斎に移動させたわよ」

 淳子は微笑みながら言う。

「番付下がった罰だよ。淳之介お兄ちゃんが長風呂してる間に移動させたの」

 菜摘からも得意げな表情でこんな伝言。

「なっ、何てことしてくれたんだよ菜摘、姉ちゃん」

 淳之介は当然のように焦る。

「淳之介、昔みたいにうちの部屋と同じでいいでしょ」

「そんなの絶対嫌だぞ、俺は」

「うちの十畳のお部屋、五.五畳は分けてあげてるでしょ」

「広さの問題じゃないって」

「うちはね、淳之介の成績がさらに下がったからというだけで、こうしようと判断したわけじゃないのよ。うち、淳之介が、最近になって秋葉原にいそうな冴えない男の子が読んでるアニメ風のエロ本いっぱい集め出して心配なのよ。淳之介、暗い子だから、個室に一人にしちゃうとこういうのにのめり込んじゃいそうで」

 淳子は困惑顔で言う。

「心配する必要ないって。あれは敏光が布教用に買ったものを、俺は欲しくないのに勝手に譲ってくれただけなんだ!」

 淳之介は淳子の目を真剣な眼差しで見つめながら、必死に主張する。

「本当かなぁ? 淳之介を信じていいの?」

「もちろんだ姉ちゃん!」

「それじゃ、こうしましょう。うちと相撲を取って、淳之介が勝ったら、お部屋元に戻してあげてもいいかな? 菜摘」

「うーん、べつにいいよ」

 菜摘は少し悩んでから許可する。

「よぉし、乗った!」

 淳之介は強く言う。

「淳之介、お姉ちゃんに勝てると思ってるの?」

 淳子はくすっと笑う。

「勝てるに決まってるだろ!」

 淳之介は淳子をキッと睨み付ける。

「前にうちと相撲取った時はあっさり負けて、えんえん泣いてたじゃない」

「俺がまだ身長一三〇センチ台だった小五の頃の話だろ。今は俺、姉ちゃんより背が高いし、筋力もきっと上だし」

 淳子に嘲笑われ、淳之介の怒りは上昇。

「淳之介、かなりの自信ね。それじゃ、さっそくお相撲始めましょう」

 こうして淳之介と淳子、さらに菜摘と母も和室となっている一階応接間へ。

 菜摘がローテーブルを隅の方に動かし立てて置き、スペースを設けた。

 母は押入れから縄を取り出し、輪の形に丸めて土俵を作った。

 土俵の直径はおよそ二メートル五〇センチ。本場大相撲の一五尺の土俵の半分より少し大きい程度しかないが、縄の長さと応接間の面積的にそうせざるを得なかった。

「淳之介お兄ちゃん、この土俵の直径は2.52メートルだったよ。縄の長さはいくらか分かる? 三秒以内に答えてね」

 詳細な長さをメジャーで測った菜摘が質問してくる。

「えーと、円周は2πrだから、6.28掛ける2.52で、えっと……」

 淳之介は慌て気味に計算してみる。

「もう、淳之介お兄ちゃん。計算遅過ぎ。小学校レベルの問題でしょ。それに、計算方法間違えてる。2.52は直径の長さだよ! そのままπを掛ければいいのっ!」

「いってぇぇぇっ、背骨折れる」

 けれども菜摘に背中を思いっきりパシーンッと叩かれてしまった。

「菜摘、淳之介を怪我させたら公平な勝負が出来ないでしょ。淳之介、お姉ちゃんも上半身裸で、下着一枚で取ろうか?」

 淳子はそう言って、スカートに手を掛けた。

「そのままがいい」

 淳之介は呆れ顔で希望する。

 その時、ピンポーンと玄関チャイム音。

「淳子ちゃんが淳之介くんとお相撲を取ると聞いて、飛んで来ちゃった♪」

 万由里も観戦しに来た。あのやり取りのあと母が彼女の携帯に連絡したのだ。

 母が呼出。菜摘が行司をすることに。

「さあ淳之介、早く準備しなさい」

「淳之介お兄ちゃん、早く脱いでっ!」

「わっ、分かった、分かった」

 淳子と菜摘に命令され、淳之介はしぶしぶパジャマ上着とTシャツを脱いで上半身裸となり、パジャマズボンも脱いでトランクス一枚だけの姿になった。彼のあまり筋肉のない細身の体が露になる。

「公平な勝負のために、うちも脱ぐわっ!」

 淳子はそういうや否や、長袖ブラウスを脱いでブラジャー姿に。

 さらにニーソックスとスカートも脱ぎ下ろしてショーツ姿となった。

「ねっ、姉ちゃんは、服着たままでいいから」

 淳之介は咄嗟に目を覆う。

「ジェンダーフリーの考えに則って、ブラも外して男の子が相撲取る時と同じような格好になろうと思ったのに」

 淳子は楽しそうににこにこ微笑んでいた。

「淳子ちゃん、そんなはしたない格好してたら淳之介くんが本来の力を発揮出来なくなっちゃうからやめてあげて」

 万由里は微笑み顔で注意する。

「あたしからもお願いするよ。あたしも裸じゃ取らないし」

 菜摘はくすくす笑う。

「それじゃ、こうしましょう」

 そう言うと、淳子は二階淳之介と同じになった自室へと向かっていく。

 約二分後に戻って来た。

「高校の時の体操服、今でもじゅうぶん着れたわ」

 結局、淳子は高校に時に使っていた夏用体操服、青色ハーフパンツと白のクールネックシャツのスタイルで取ることに。ニーソックスは脱いだままだ。

「二人とも、熱戦を繰り広げてね。それじゃ、始めますか」

 母はこう告げたのち、息をスゥっと大きく吸い込んだ。

 そして、

「ひがあああああしいいいいいいい、じゅんのおおおさとおおお。にいいいいいしいいいいいいい、ことじゅんこおおおおお」

 独特の節回しで四股名を呼び上げた。ソプラノ歌手のような透き通る美声であった。淳之介と淳子はそれを合図に土俵内へ足を踏み入れる。

淳之介の四股名は『淳の里』。十年ほど前、淳子に名付けられた。

 そして淳子は『琴淳子』。菜摘に名付けてもらった。

 数年前まで、淳之介達三人姉弟妹はしょっちゅう相撲ごっこをして遊んでおり、その度に母が呼出を任されていたのだ。

「淳之介、もしかしてうちのこと怖い?」

 淳子は四股を踏みながら問い詰めてくる。

「怖いわけないだろ。俺、本気でやるからな」

 淳之介は不快な面持ち。

「上等ね。淳之介、どのくらい強くなってるのかな?」

淳子は楽しげな気分だった。

両者、土俵の真ん中付近で向かい合う。

「待ったなしだよ。手を下ろして」

 菜摘から命令されると、両者ゆっくりと腰を下ろし蹲踞姿勢を取ったのち、畳に両こぶしを付けた。

「見合って、見合って。はっけよぉい、のこった!」

 いよいよ軍配返される。

淳之介は渾身の力を込めて突進していった。すると淳子の穿いているハーフパンツをいとも簡単にがっちり掴むことが出来たのだ。

「淳之介、今回すごくいい当たりね。うちのおっぱいにこーんなにお顔埋めちゃって、エッチね」

「いや姉ちゃん、俺、決してそんなつもりは――」

 少しいらっとした淳之介は力を振り絞り、淳子を一気に寄り切っていく。

 もう少しで土俵の外へ出せそうになったが、

「まだまだよ、淳之介。うちは土俵際に攻め込まれてからが強いんだから。それに、体重はうちの方が上よ。ふんっ!」

 淳子に縄の上で必死に踏ん張られる。

「こうなったら……」

 淳之介は力を振り絞って投げを打ってみた。

「きゃぁっ!」

 すると淳子はあっさり床にころーんと転がってしまったのだ。

「やったぁ! 俺の勝ちだっ!」

 淳之介は嬉しさのあまりガッツポーズを取る。

「おめでとう淳之介くん、強くなったね」

 万由里は笑みを浮かべ、パチパチ拍手した。

「豪快な投げ、見事だね」

 菜摘もにっこり微笑む。

「もう、淳之介、お姉ちゃんを投げ飛ばすなんて酷いよ。青痣が出来ちゃうわ」

 淳子は立ち上がると、お尻をさすりながら不満を言う。

「……菜摘、なんで東方に軍配上げてるんだよ。俺の勝ちだろ。行司差し違えだよ」

 予想外の行動に、淳之介は困惑顔で指摘した。

「ただいまの淳之介の物言いについて、ご説明致します。淳之介が淳子を投げ飛ばそうとした時に、勝負はあったのよ。淳之介に〝勇み足〟があったの。よって行司軍配通り、琴淳子の勝ち!」

 すかさず母は爽やかな表情を浮かべ、きっぱりと伝える。

「そっ、そんな……」

 瞬間、淳之介は目を大きく見開いた。

「やったぁ!」

 淳子はにこっと笑ってバンザーイのポーズをとる。

「淳之介お兄ちゃん、土俵の位置はちゃんと確認しないとね」

 菜摘はとても嬉しそうだった。

「こんなのって、あり?」

 淳之介は当然のごとく落胆した。

「惜しかったね、淳之介くん。思わぬ逆転劇もお相撲の醍醐味だよ。とても面白い取組が見られて嬉しいです。では、さようならー」

 万由里はとても満足そうに、おウチへと帰っていった。

「淳之介は詰めが甘いわ。そんなのじゃ数学のテスト問題で答えが出たからってnは整数とか0以上とか境界値を含むとかの条件書き忘れて減点されるわよ」

 淳子は嘲笑う。

「教科の勉強とこのことは全く関係ないだろ。あともう少し、土俵が広ければなぁ」

 淳之介は悲しげな表情。

「これであんたのお部屋、うちの部屋に吸収決定ね!」

 淳子はにこりと笑う。とても嬉しそうだった。

「おめでとう淳子」

 母も拍手を交えてエールを送ってくる。

「ちょっと待て、よく考えろ。姉ちゃんだって今さら同じ部屋は嫌だろ」

「そんなこと全くないわ。うち一人で使うにはちょっと広過ぎるかなってずっと思ってたし」

「着替えとか、どうするんだよ」

「淳之介がいたって普通に着替えるし」

「……寝る場所に困るだろ。二段ベッド、部屋分ける時に処分したし」

「うちと同じ布団に寝ればいいじゃない」

 淳子はすかさずさらっと言う。

「絶対嫌だ」

「なんで嫌がってるの?」

「高校生が大学生の姉と同じ布団で寝るなんてあり得ないだろ。それにあの部屋、香水臭いし化粧品臭い」

「女の子特有のいい匂いなのに。万由ちゃんだってけっこう匂うでしょう?」

「あの子のは、ごく自然ないい匂いだから」

 淳之介は俯き加減で言う。

「もう、淳之介ったら照れちゃって。今夜一晩過ごしてみれば、きっとうちと同じ部屋にして良かったと思えるようになるわ」

 肩をペチッと叩かれる。

「なるわけねえだろ。とにかく、俺は元に戻すぞ!」

 淳之介は阻止しようと試みたが、

「させないよ」

 菜摘に背後から腕ごと抱きつかれ、身動きを封じられてしまった。

「菜摘、離せっ!」

 淳之介は体を揺さぶって抵抗するが、敵わず。

「淳之介お兄ちゃん、相撲部屋だってわりと吸収統合されてるじゃん。それと同じことだよ」

「関係ないだろ」

「淳之介お兄ちゃん、戻そうとしたら、このまま送り吊り落としの刑にするよ」

 菜摘は淳之介をふわり軽々と持ち上げ、中に浮かせた。

「……分かったよ、菜摘。今日はとりあえず、あの状態で過ごしてみるから」

 淳之介は以前その技を食らわされた時を思い出し恐怖心を感じ、観念してしまった。

「菜摘、ナイス!」

 淳子は褒め称える。

 このあと、

「父さん、俺の部屋、無断であんな風にした菜摘と姉ちゃんに何か言ってやってくれよ」

 淳之介は父、彦市のいる書斎へと向かい、ため息交じりに頼み込む。

「いいじゃないか淳之介、この年で異性が快く同じ部屋になってくれるなんて、幸せなことなんだぞ。じつは、おれも移動させるの手伝った」

 父はハハハッと笑う。取り合ってくれなかった。

「おいおい。父さんも共犯かよ」

 淳之介は呆れ返ってしまう。彼は落胆し切った様子で例のお部屋へ。

「ようこそ、淳之介」

書斎にいる間に、先に淳子が入っていた。温かく迎えてくれる。

「落ちつかねえ。香水と化粧品臭過ぎ、気分が悪くなりそうだ」

 淳之介は学習机備えの椅子に腰掛け、ため息交じりに不満をたらたら述べる。

「そのうち慣れるわよ」

 淳子は微笑みながら言う。どこか嬉しそうだった。

「絶対慣れないよ。逆に時間が経つに連れますます嫌になってくる」

 淳之介は机に突っ伏してしまう。

「淳之介、元気出しなさい。ここのお部屋、こんな利点があったの忘れてるでしょう?」

 淳子はそう言うと、ベランダに通じる窓を開けた。

 そして、

「万由ちゃーん」

 と、大きな声で叫んだ。

 約三秒後、

「はい、何でしょうか?」

 向かいの窓が開かれ、万由里がぴょこっとお顔を出した。

 ここのお部屋と万由里のお部屋は、ベランダを挟んでちょうど向かい合わせになっていたのだ。

「今日から淳之介もここのお部屋だから」

「昔に戻ったんですか! さっきお相撲取ったのは、そういうことだったんですね」

「ほぼ当たりよ」

「淳之介くん、よかったね」

「よくないよ」

 淳之介も窓に近寄り、迷惑そうに伝える。

「昔、淳之介くんとベランダ越しに糸電話で遊んだことを思い出したよ。それじゃ淳之介くん、また明日ね」

 万由里はそう告げて、窓を閉めた。

「淳之介、上手く行けば万由ちゃんのお着替えが覗けるかもよ」

「姉ちゃん、アホか」

「あいてっ」

 淳之介は顔を顰め、淳子の頭をパーでペチッと叩いておいた。

 それから数分のち、

「淳之介お兄ちゃん、今日も数学の特訓していくよ」

 風呂上がりの菜摘がこの部屋に足を踏み入れてくる。

「分かった、分かった」

 淳之介はやる気なさそうに返事し、数学IAの問題集を学習机付属の本棚から取り出す。

「それじゃ、うち、お風呂入ってくるね。二人とも頑張れー」

 淳子はこう伝えて、お部屋から出て行く。

 特訓開始から数分のち、

「淳之介お兄ちゃん、途中式で計算ミスするなんて、注意力散漫になってるんじゃないのっ! このお部屋は確かに臭いけど、その程度の環境に惑わされるようじゃ京大受験は突破出来ないよ。あたしのクラスの教室のにおいよりはマシだし」

「いってぇー。張り手ビンタは禁止だ菜摘。鼓膜が破れそう」

 いつものように菜摘に体罰される。

 その後も淳之介はいつもと変わらず何度か体罰をされて、特訓終了。

「今日は、おまけで五〇円にしておいてあげる。無断でお部屋を統合させたお詫びの気持ちも示したいから。おやすみなさーい」

 菜摘は淳之介の財布から五〇円硬貨を徴収し、就寝前の挨拶をしながらぺこんと頭を下げて部屋から出て行った。

 そんな可愛らしい仕草を見ると、淳之介はなんだか許せてしまった。

 それから一時間ほど、淳之介は淳子から英語と古文の宿題をチェックしてもらい、間違えた部分を中心に解法を教えてもらったのであった。

「なんで姉ちゃんと同じ布団で寝なきゃいけないんだよ」

 午前零時半頃、淳之介はむすっとしながら不満を言いつつも、床で寝たくはないので仕方なくベッドに上がる。布団に潜り込むと壁際へ体を寄せた。

「もう、本当は嬉しいくせに照れなくても。掛け布団は淳之介が使ってたやつなんだし」

 淳子はにこにこ微笑みながら、同じベッドに上がり同じ布団に潜り込むと、淳之介から二五センチほど間隔を空けて寝転ぶ。そして淳之介のうなじを指でぷにっと押した。

「触るなよ。姉ちゃん、もし俺に変なことして来たら容赦なく蹴り落とすからなっ!」

 淳之介は横臥姿勢になり壁の方を向いて、不機嫌そうに言う。

「淳之介ったら、女の子みたいに警戒心強いわね。心配しなくても何もしないって。ちなみに淳之介の今の体位、横たえるは英語で言うとlay、スペルはエルエーワイよ。この動詞はlaid,laid,layingと変化するからね。横たわる、嘘を付くのlieとの紛らわしい区別。一学期の学習内容だけど、今もちゃんと覚えてるかな?」

「うるさいっ!」

「あーん、高校英語の重要ポイントなのにぃ。それじゃ淳之介、おやすみなさい」

 淳子が長い紐を引いて電気を消した。

それから三〇分ほどして、

「ねっ、眠れない」

 淳之介は天井を見つめながら、硬い表情で呟く。

 淳子はもう、すやすや寝息を立ててぐっすり眠っていた。


ちなみにここのお部屋は、淳子が小学五年生の時まで淳子&淳之介&菜摘の三人部屋だった。淳子が六年生に進級=菜摘の小学校入学を機に、菜摘&淳之介の二人部屋へ。淳子は個室を与えられ、今の菜摘のお部屋へ移った。

 淳之介の中学入学を機に、ここは淳子のお部屋となり、三人それぞれに個室が与えられた。この状態がつい数時間前まで三年半以上に渡って続いたというわけである。


       ☆


 早朝、六時半頃。目覚まし時計の音と共に、淳之介は目を覚ました。

「姉ちゃんの起きる時間か。ん?」

 瞬間、右腕に妙な違和感が。

 むにゅっとしていた。

「これって、ひょっとして……はっ、離れない」

 淳之介は焦りの表情を浮かべる。強く締め付けられていたのだ。

「ねっ、姉ちゃん、起きろ」

 自由になっている左手で、淳子の頬を軽くぺちぺちと叩く。

「……んにゃっ、あっ、おはよう、淳之介」

 すると幸いにもすぐに目を覚ましてくれた。寝起き、とても機嫌良さそうだった。

「早く、俺から離れろよ」

「淳之介、何焦ってるのぉー?」

 淳子はぼけーっとした表情。まだ寝惚けているようだ。

「俺の腕が、その……」

 淳之介は視線を下に向ける。

「あっ! うちのおっぱいが、淳之介の腕に結合しちゃってたのね」

 淳子はついに今の状況に気付いたが、特に取り乱すことなく冷静に自分の腕を淳之介から離した。布団から出て、ゆっくりと起き上がる。

「ねっ、姉ちゃん、どうしてパンツ一丁になってるんだよ?」

 淳子の格好に淳之介はドン引き。すぐに壁の方を向いた。

「暑かったから、無意識のうちに脱いじゃったみたい。男の子が水泳する時の格好になってたね。でも、すごく気持ちよく眠れたわ」

 淳子は照れ笑いしながら言う。

「とっ、とにかく、早く服着て」

 淳之介は壁の方を向いたまま命令する。

「淳之介、そんなに慌てなくても」

 淳子はにこにこ微笑みながら衣装ケースを開け、普段着を取り出す。着替え始めてくれた。

「じゃあ姉ちゃん、俺はもう一眠りするから」

 淳之介はこう伝えて、布団に潜り込む。

「もう淳之介、うちが着替えるところ、見たくないの?」

「当然だろ」

「あーん、もう!」

 淳子はぷくっとふくれ、着替え終えると不機嫌そうにお部屋から出て行った。

 淳之介はそれからほどなく、うとうと眠りに付く。

 それからしばらく時間が過ぎ、七時三五分頃。

「淳之介お兄ちゃん、起っきろっ」

「菜摘、その起こし方やめろって」

 部屋が変わっても相変わらず、菜摘に乗っかられて起こされた。

 淳子は七時頃に家を出たらしい。

 淳之介は起き上がると、いつものように制服に着替えるためハンガーに掛けたブレザーとズボンを取り外す。

「……姉ちゃん、なんてことしてくれたんだよ。きたなっ」

 鏡をふと見た瞬間、淳之介は驚愕する。ほっぺたに、キスマークが一つ付けられていたのだ。

 続いて衣装ケースを開け、ワイシャツと靴下を取り出そうとした。

(姉ちゃん、俺の場所に下着混ぜるなよぅ)

 淳之介は顔を顰める。淳子の愛用している白系統のショーツやブラジャーが一緒に入っていたのだ。彼は一階へ降りるとまず洗面所に向かい、ほっぺたのキスマークをきれいに洗い落とした。

「淳之介、久々に淳子と同じ部屋になって、なかなかよかったでしょ?」

「良くないよ。俺の私物の領域まで侵略されてたし」

「淳之介だって淳子の文房具勝手に使ったりしてたでしょ?」

「それは否定出来ないけど、遥か昔のことだし」

 朝食中、母とこんな楽しくない会話を弾ませる。

登校中、

「淳之介くん、淳子ちゃんと久し振りに同じお部屋になって、どうだった?」

 さっそく万由里から質問された。

「寝てる時に姉ちゃんにキスされたし、ろくなことないよ」

「そっか。淳之介くん、今日は淳子ちゃんの匂いがするよ」

 万由里が頬に鼻を近づけてくる。

「うわぁ、最悪だぁー」

 淳之介はげんなりする。

「淳之介くん、ダメだよそんな失礼なこと言っちゃ。私、淳子ちゃんの香水の匂い、癒し効果があるから大好きだもん」

 万由里に優しく注意されてしまった。

        ※

 八時二五分頃、一年二組の教室。敏光が登校して来て淳之介の席に近づいてくるや、

「じゅっ、淳之介殿ぉ、なんか今日は、異様に三次元女臭がするぞ」

 苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、手で鼻を押さえる。

「おまえも異様に敏感だな。敏光、じつはさぁ……」

 淳之介は昨日の出来事の詳細を伝えた。

 すると、 

「そうであったか。なんという悲劇。早く脱出出来るよう、勉強、しっかり頑張れよ」

 敏光はかなり同情してくれた。この日、敏光は休み時間も淳之介にあまり近寄って来なかったという。

        ※

同日夕方。

(部屋を元に戻さないと)

 午後五時半頃に帰宅した淳之介は、私服に着替えるとまず、本棚から元の位置に戻そうとした。

 しかし、それを廊下に運び出した瞬間、

「淳之介お兄ちゃん、勝手に元に戻したら、どうなるか分かってるよねぇ?」 

 薄ら笑いを浮かべた菜摘に背後から肩をぎゅーっと掴まれ、問い詰められた。

「うっ、うん」

 淳之介はびくびくしながら頷く。

 次の瞬間、

「もう、淳之介お兄ちゃん、お仕置きっ!」

「ぅぶぉぁっ」

 パチーン、パチーンと顔面、腹部に一発ずつ張り手を食らわされ、さらにのど輪も食らわされ吹っ飛ばされた。

 淳之介、仰向け状態でその場にズテンと倒れこむ。腰を打ち、激しい痛みから起き上がろうにも起き上がれず。

「二度とあたしの許可なく勝手にお部屋元に戻そうとしちゃダメだよ」

 菜摘は笑顔でそう言いながら、淳之介が苦労して引っ張った重たい本棚を軽々と押して元の位置へ戻した。

「菜摘、勘弁してくれよ」

「ダーメ。淳之介お兄ちゃんには、さらにお仕置きが必要みたいだね!」

「うわっ!」

 菜摘は体重の勝る淳之介を軽々とお姫様抱っこした。そのまま一階応接間へと運んでいく。

「おい、菜摘、何するんだよ。やめろ」

「そーれっ!」

「うわぁっ!」

 淳之介は、畳に叩きつけられうつ伏せ状態にされた。

「送り投げだよ」

 終いには菜摘に上から乗っかれてしまった。

「菜摘、重いから退けって」

 淳之介は手で畳をバンバン叩いて訴える。

「絶対退かなーい」

 逆効果。菜摘はぷくっとふくれる。

 そんな時、

「ただいまー」

 淳子が帰って来てくれた。

「菜摘、淳之介、なんか騒がしいわね。ドーナッツ買ってきたよー」

 こう伝えながらリビングに歩み寄ってくると、

「わぁーっい!」

 菜摘は大喜びし、淳之介の体から離れてくれた。嬉しそうにリビングへ駆けていく。

「たっ、助かったぁ」

 ようやく体が自由になり、淳之介はホッと胸を撫で下ろした。

「淳之介お兄ちゃん、この抹茶ドーナッツの体積を、おおよそでいいからパップス・ギュルダンの定理を使って求めてみて」

「そんなの分かるわけないだろ」

「もう、淳之介お兄ちゃん情けないなぁ。何年か前に教えたでしょ。ドーナッツ生地を縦に切った時の断面積は大体π、その部分の中心からドーナッツの穴の中心までの距離はおおよそ三センチだから、2π×3×π=6π2乗だよ。罰として淳之介お兄ちゃんの分、一個貰うね」

「べつに構わないよ。俺、ドーナッツはそんなには好きじゃないし」

「あーん、悔しがってくれない」

「ドーナッツの体積が気になっちゃうなんて、菜摘は本当に数学大好きね」

 リビングのソファに腰掛け、三人で仲睦まじくドーナッツを食べている最中、

ピンポーン♪ と、玄関チャイムが鳴らされた。

「こんばんはー」

 ほとんど間を置かず、こんなしゃがれ声が聞こえてくる。

「この声は、藤太郎お爺ちゃんだぁーっ!」

 菜摘は嬉しそうに叫び、凄い勢いで玄関先へ駆け走った。 

藤太郎爺ちゃんは御年八五。ここから五キロほどの近所に住んでいるため、わりと頻繁に香村宅を訪れてくるのだ。

「こんばんはーっ、藤太郎お爺ちゃぁぁぁん♪」

「ぅおううう、菜摘ちゃんじゃぁーっ!」

 菜摘が扉を開けると、藤太郎爺ちゃんは大歓喜し、菜摘にガバッと抱きついた。さらに菜摘の尻をさする。

「えーいっ!」

 その刹那、菜摘は藤太郎爺ちゃんの腕を掴み、一本背負いでいともあっさり空中へ投げ飛ばした。柔道の技として有名だが、大相撲の決まり手の一つでもある。

「わーお!」

藤太郎爺ちゃん、くるり一回転、廊下の床にズサッと着地。その衝撃で入れ歯ふわり空中遊泳。

「もう、藤太郎お爺ちゃんったら。相変わらずエッチだね。でもそこがお茶目で素敵♪」

 菜摘は照れ笑いする。

「フォフォフォッ、僕とっても嬉しいな。菜摘ちゃんみたいなラブリーな子に投げ飛ばされてもらえて。地球にいながらにして無重力空間を漂っているような清清しい気分になれたし、菜摘ちゃんの一本背負いは五つ星じゃよ」

 吹っ飛んだ入れ歯を見事口でキャッチし、付け直した藤太郎爺ちゃん。

「藤太郎お爺ちゃん、相変わらずハリウッドスターのようなアクションだね」

 菜摘は嬉しそうににっこり微笑む。

「藤太郎爺ちゃん、受け身の取り方だけは免許皆伝級だな」

 淳之介は呆れ返った。

 藤太郎爺ちゃんは大昔、かの双葉山が大活躍していた頃からの大相撲ファンなのだ。幼少期はラジオで大相撲を熱心に聴いていた。昭和二〇年代後半、テレビが普及するようになって以降は毎場所テレビ中継を楽しんでいる。三月の春(大阪)場所の時は、生で観戦しに行くことも多いそうだ。

だが彼には、大相撲以上に熱心に観戦しているものがあるのだ。

それは、この近隣で年一回秋に開催され、菜摘も幼稚園の頃から毎年出場している女相撲大会である。 

藤太郎爺ちゃんはその昔、子どもの頃に憧れていた双葉山のような立派な力士になるべく相撲部屋へ何度も門を叩きにいったそうだが、当然のごとくいつも体格のことで咎められ新弟子検査すら受けさせてもらえず、どこからも門前払いされたという。

なんといっても藤太郎爺ちゃんは身長一五二センチ、さらに体重も一番多かった時でも四五キロ程度だったのだ。彼と同世代の平均的な体格と比較しても小柄ゆえに当然であろう。

「藤太郎お爺ちゃん、今度の大会も絶対見に来てね」

「もちろんじゃ! 菜摘ちゃんの成長を胸と尻も含めて楽しみにしておるぞ」

「胸と尻は余計だよ、藤太郎お爺ちゃん」

 菜摘は頬をポッと赤らめ、藤太郎爺ちゃんの頭をパシッと叩く。

「アウチッ!」

 藤太郎お爺ちゃんはかなり痛がるも、とても嬉しそうだった。

「あたし、もう身長の伸びのピークは過ぎちゃったみたい。あと十センチくらいは欲しいんだけど、無理っぽいよ。お父さんもお母さんも、淳子お姉ちゃんも淳之介お兄ちゃんも普通の背丈なのに、あたしは藤太郎お爺ちゃんの遺伝子を受け継いでるね」

 菜摘は藤太郎爺ちゃんを見上げながらちょっぴり残念そうに言う。

「そのようじゃな。これを隔世遺伝というのじゃ。じゃが、体が小さくても、運動量p=mvの公式を上手く活用すれば、己の体重よりも遥かに大柄な力士も軽々吹っ飛ばせる強い力士になれるのじゃ。わずか百数十グラムの野球のボールも、時速百数十キロメートルでぶつけられたら、相当な衝撃を受けるじゃろう。宇宙空間を漂うわずか十数センチのスペースデブリも秒速約八キロメートルじゃから、衝突すれば宇宙船すらも木っ端微塵に出来るのじゃ。てこの原理になるが、カブトムシだって自分の体重の百倍以上の質量を持つものを角で跳ね飛ばすことが出来るのじゃぞ」

 藤太郎爺ちゃんは拳を握り締めながら夢見る少年のように目をきらきら輝かせ、生き生きとした表情で熱く語る。

「藤太郎お爺ちゃん、その話、もう三〇回以上は聞いたけど、聞く度に励みになるよ」

 菜摘は嬉しそうに微笑む。

「フォフォフォッ、学習とは反復が大切じゃからのう。そうじゃ菜摘ちゃん、久し振りに淳之介と相撲を取ってくれんかのう。僕、お二人の対戦が久し振りに見たくなったんじゃ」

「OK! お見せしてあげるよ、藤太郎お爺ちゃん。大会も間近だし練習も兼ねて」

 藤太郎爺ちゃんから唐突にされた依頼を、菜摘はすぐに快く引き受ける。

「とっ、藤太郎爺ちゃん、そっ、そんな急に……」

 淳之介はたじろいだ。

「淳之介お兄ちゃん、今年のお正月の時に取って以来、かなり久々に対戦することになるね」

 一方、菜摘はかなり乗り気な様子だ。

「どっちが勝つのか楽しみね」

 淳子も嬉しがる。

「淳之介、マワシじゃ。力士と同じようにこれ付けてやれ」

 藤太郎爺ちゃんは鞄から取り出して、淳之介の眼前にかざした。

「用意してたのかよ」

 淳之介は呆れ果てる。

「淳之介お兄ちゃん、付けてあげるからおズボンとおパンツ脱いで!」

 菜摘から藪から棒に大胆発言。

「藤太郎爺ちゃん、菜摘。俺、マワシ姿になるなんて恥ずかしいから嫌だよ。前にも言っただろ」

 淳之介は当然のように困惑する。

「もう、情けない。小学校の頃までは喜んで付けてたくせに。そんじゃあ今回もトランクス一丁でいいよ。あたしはちゃんとマワシ付けてやるよ。ちょっと準備してくるね」

 菜摘はちょっぴり不満な面持ちで、二階の自分のお部屋へ向かっていく。

「淳之介、うちがマワシ付けてあげよっか?」

 淳子はにこっと微笑みかけてマワシをかざしてくる。

「ますます嫌に決まってるだろ」

 淳之介はぷいっと淳子から顔を背けた。

「お待たせーっ!」

 それから五分ほど後、菜摘がリビングへ戻って来た。

上半身は裸、ではなくレオタードを纏ってその上から女相撲用の簡易マワシを付けている。

「あーら、いらっしゃい。お久し振りね、藤太郎さん」

 ほどなくして、母も買い物から帰って来た。

「おじゃましてるぞ、春美ぃ」

 藤太郎爺ちゃんは陽気な声でご挨拶。

「相変わらず突然の訪問ね。菜摘のマワシ姿はいつ見てもさまになってるわ」

「それほどでもないよぅ、お母さん」

 母に褒められ、菜摘は頬をポッと桜餅色に染めた。

「ふふふ、かわいい。その格好してるってことは、ひょっとして――」

「その通りだよ。あたし、今から淳之介お兄ちゃんとお相撲取るのっ!」

「やっぱり。今回はどんな攻防が繰り広げられるのか楽しみね。それじゃあ、今回もわたくしが呼出さんやろうかしら」

「そんじゃ僕、行司さんやるねっ!」

「よろしくね。お母さん、藤太郎お爺ちゃん」

 菜摘に頼まれると、藤太郎爺ちゃんはすぐさま鞄から行司装束を取り出しそれに着替えた。さらに軍配団扇も取り出し、右手に装備。相撲好きな藤太郎爺ちゃんはこんなマニアックな物までいつも持ち歩いているのだ。

このあと母、藤太郎爺ちゃん、淳子、菜摘、淳之介の五人は協力して応接間のローテーブルを隅の方へ動かし、以前淳之介と淳子が対戦した時と同じように縄で土俵を作った。今回はさらに土俵中央付近に白いガムテープを二本平行に畳に貼り、仕切り線も加えた。気が乗らない淳之介はその作業を傍からただ眺めているという感じだ。

母は万由里に連絡したが、家族で外食中とのことなので今回は見に来られず。菜摘は残念がっていたが淳之介はホッとしていた。

 菜摘は靴下も脱いで素足になり準備万端。

「菜摘、やっぱ勝負はやめない?」

 淳之介は怖気づいてしまった。

「もう、何言ってるのよ、淳之介お兄ちゃん。男の子でしょう?」

「そうじゃぞ淳之介。男たるもの度胸が必要なのじゃ」

 菜摘と藤太郎爺ちゃんが非難してくる。

「さあ、淳之介お兄ちゃんもお相撲取る早く準備して!」

「わっ、分かってるって」

 こうして淳之介は菜摘にせかされ長袖ワイシャツを脱いで上半身裸となり、靴下を脱ぎ、ジーパンも脱いでトランクス一枚だけの姿になった。

「ひがあああああしいいいいいいい、なつみいいいふじいいい。にいいいいいしいいいいいいい、じゅんのおおおさとおおおおお」

 母は相変わらずの美声を発し、独特の節回しで四股名を呼び上げた。淳之介と菜摘はそれを合図に土俵へと足を踏み入れる。

 菜摘の四股名は『菜摘藤』。命名は藤太郎爺ちゃん。菜摘はとても気に入っていて、女相撲大会でも初出場の時からずっとこの四股名を使っている。

「淳之介お兄ちゃん、もしかして緊張しちゃってる?」

 菜摘は四股を踏みながら問い詰めてくる。

「してないよ」

 淳之介はこう答えるも、内心していた。仕切りのさい、彼は照れくさそうに四股踏みをする。その所作は、足が上がった時カタカナのトの字のようになる菜摘と比べると、かなりぎこちなかった。

 仕切りの所作を四度繰り返したところで、母から制限時間いっぱいであることが告げられた。

(なんでこんなことしなきゃいけないんだよ?)

 淳之介はかなり緊張の面持ちで、

(淳之介お兄ちゃん、前に対戦した時より少しは強くなってるかな?)

菜摘は楽しげな気分で仕切り線の前へ。

両者、向かい合う。

淳之介と菜摘、身長差は三〇センチ近く、さらに体重も二〇キロ近い差がある。

体格差を見れば、淳之介の方が圧倒的に有利かと思われた。

「さあ、淳之介お兄ちゃん、あたしに思いっきりドンッってぶつかってきてね!」

 淳之介を見上げながらそう言って、こぶしで胸元を叩く菜摘。余裕の面持ちか、にっこり笑っていた。

「お互い待ったなしじゃ。手を下ろして」

 藤太郎爺ちゃんから命令されると、両者ゆっくりと腰を下ろし蹲踞姿勢を取ったのち、仕切り線手前に両こぶしを付けた。

「見合って、見合って。はっきよーい、のこった!」

 いよいよ軍配返される。

立合った次の瞬間、淳之介は菜摘に言われた通り、渾身の力を込めて突進していった。

すると、

「やあっ!」

「うをぁっ!」

 菜摘に張り手を胸元にパチンッと食らわされ、淳之介はその一撃で土俵外まで吹っ飛ばされてしまった。淳之介は押入れの襖に背中をボスーンッと叩き付けられる。

「勝負ありっ! ただいまの決まり手は突き倒し、突き倒しで菜摘藤の勝ち! 圧勝だったわね」

 母は爽やかな表情で告げる。

「いててて……」

 淳之介は襖の反作用でバランスを崩し、うつ伏せに倒れていた。

「お見事じゃ菜摘、僕の教えた運動量p=mvの公式を上手く活用出来たようじゃのう」

 藤太郎爺ちゃんは褒め称え、パチパチと拍手する。

「うん、あたし、それ狙ったんだ。体が小さくても突進する速度を高めれば、体重差は全くハンディにならないもんね。相手の体重が自分の二倍あっても、相手より二倍以上の速さで踏み込んで突進すれば、運動量は相手より上回れる。p=mv、すごく単純な数式だけど、小兵が大柄な力士に挑んで勝つためのエッセンスが詰められてるね」

 菜摘はとても満足げな表情。

「淳之介、大丈夫?」

 淳子は中腰になり、優しく微笑みかける。

「俺、思いっきり腰打ち付けた。めっちゃ痛え。後で青痣出来るぞ、こりゃぁ」

全く何も出来なかった淳之介の完敗であった。

「ちゃんと受け身取らないからだよ。淳之介お兄ちゃん柔道の授業真面目に受けてないでしょう? えっへん。どうだ淳之介お兄ちゃん、参ったか?」

 無様に転がっている淳之介を容赦なく上から見下ろす菜摘。しかもトランクスがずれて半ケツ状態になっている所を容赦なく踏みつけてくる。さらには勝利のポーズVサインまで取られてしまった。

「また負けちゃった。やっぱ菜摘は強過ぎるよ」

 けれども淳之介はかなりの屈辱を味あわされながらも、悔しさはあまり感じなかった。ただ、こんな情けない姿、万由里ちゃんに見られなくて本当に良かったとも思っていた。

「あたしはお友達に協力してもらって日々脚力と突進力を鍛えてるからね。淳之介お兄ちゃん、立合い、腰が高過ぎだったよ。足も揃ってたし」

「そっ、そうか?」

「踏み込むスピードも遅かったし、そんな甘い立合いじゃあたしには勝てないからね」

 菜摘はそう言い放つと、こんなひ弱な淳之介に手を貸してくれ優しく起こしてくれた。いつもこんな感じなのだ。

「予想通りの結果ね」

「淳之介よ、力の差がますます広がってしもうたようじゃのう。男子たる者、力は女子より上であらんといかんのに。まあ僕も、菜摘ちゃんはもちろん淳子ちゃんや春美さん、僕の妻と妹にも力負けするから人のことは言えんがのう」

「うちは淳之介がもう少し健闘するかと思ったけど、菜摘があまりに強過ぎたのね」

 その様子を、母と藤太郎爺ちゃんと淳子は微笑ましく眺めていた。

 淳之介が小学一年生の頃から菜摘と今までに百回以上は対戦しているが、今まで淳之介が菜摘に相撲で勝てたことはたったの一回だけ。しかもそれも、菜摘の勇み足によるラッキーなものだった。体格面はずっと淳之介の方がかなり勝っていたが、菜摘に技能の面で体格差のハンディを打ち消されるどころか凌駕されてしまっているのだ。

「藤太郎さん、お夕飯はどうされますか?」

 母は尋ねる。

「そうじゃのう……せっかくじゃから、いただいていこうかのう」

 藤太郎爺ちゃんは三秒ほど考えてから結論を出した。

「藤太郎お爺ちゃんと一緒に晩御飯、久し振りだね」

 菜摘はとても喜ぶ。

「今夜は菜摘の勝利を祝して麻婆豆腐にするわ」

 母からこう伝えられると、

「やったぁ! あたしの大好物だぁ!」

 菜摘はさらに大喜びした。

「なんか、複雑な気分だ」

 淳之介は頭を抱える。

「ところで淳之介よ、学業はあまり振るっておらんようじゃのう」

「そうなんだよ藤太郎お爺ちゃん。淳之介お兄ちゃん、学力が淳子お姉ちゃんに似ちゃったの。せっかくまあまあレベルの高い高校に入れたのに、大学は神戸大か、無理なら関関同立のどこかに入れればいいかななんて言ってるし」

 菜摘は不満そうに伝える。

「そこでもじゅうぶん名門大だろ」

 淳之介はすかさず突っ込む。

「淳之介も淳子ちゃんと同様、井の中の蛙になってしもうとるのう。神大も関関同立も関西では名門大扱いなんじゃが、東京圏に行けば知名度は低いのじゃぞ。淳之介よ、まだ一年生なのに今から神大・関関同立程度を目標にしたんでは情けないぞよ。神大もノーベル医学生理学賞の山中伸弥さんの母校ではあるが、香村家の男たる者、角界の横綱を目指さぬのならば受験界の横綱、東大か京大を目指さねば。淳之介には刺激が必要みたいじゃのう。これ、受け取れ」

藤太郎爺ちゃんは突如、福沢諭吉の札束を鞄から取り出し、ぽんっと手渡して来た。

「えっ!」

 淳之介はあっと驚く。 

 二〇万円はあったのだ。

「淳之介、それから淳子ちゃんに菜摘ちゃん、今度の土曜にでも東京へ行って、東大のキャンパスを視察して来い。京大のライバル校じゃから一見の価値はあるぞ。泊りがけで行ってついでに東京観光もして来たら良い」

 藤太郎爺ちゃんが肩をポンポン叩いてくる。

「淳之介お兄ちゃん、東京行こう、行こう!」

 菜摘が袖を引っ張ってねだってくる。

「淳之介、せっかくの機会だから行きましょう」

 淳子もかなり乗り気だった。

「まあ、ちょうど今、間近にテスト控えてない時期だからなぁ。母さんも東京行くだろ?」

 淳之介が問いかけると、

「淳之介達だけで行って来なさい。みんなもう大人でしょ」

 母はこう勧めてくる。

「えっ! 母さんは行かないの?」

 淳之介は少し驚いた。

「うん、かわいい子には旅をさせよということわざがあるし」

 母は爽やかな表情で言う。

「淳子お姉ちゃんが付いてるからなんとかなるよね」

 菜摘は安心仕切っている様子。

「万由里ちゃんや、敏光君も誘ったら良い。世間では東大ばかりが持て囃されておるが、僕は京大こそが日本一天才秀才揃いな大学じゃと思っておる。理学部は特にな。なんといっても日本人初のノーベル賞受賞者、湯川秀樹を輩出したからのう」

 藤太郎爺ちゃんが持論を捲くし立て、続けざまに京大の素晴らしさを伝えてくる。

「藤太郎爺ちゃん、その話、もう十回以上は聞いてるから。それより、この大金は、いったいどこから?」

 淳之介は呆れ顔で質問した。

「彦市の預金通帳から今日、勝手に下ろして来たのじゃ」

 藤太郎爺ちゃんはきっぱりと言い張る。

「やっぱり。ダメだろ、それは」 

「まあ良いではないか。僕の自慢の一人息子なんだし。それにしても、彦市のやつももう五一にもなったくせに、まだ年収九〇〇万ちょっとしかないのは残念じゃのう。京大を出ておればもっと高収入になれたかもしれんのに」

「それでも普通のサラリーマンよりはだいぶ多いだろ」

淳之介は呆れ顔で突っ込んだ。彼は淳子と一緒になった自室に向かうと、さっそく万由里に携帯でこのことを伝える。

「あの、万由里ちゃん、今度の休み、一緒に東京行かない?」

『東京!? ずいぶん急だね』

「さっき藤太郎爺ちゃんから、東大を見に行って来いって言われたんだ。姉ちゃんと菜摘も行くよ」

『そうなんだ。私も東京行きたいけど、ちょっと待ってて、お父さんとお母さんに伝えるから。あとでかけ直すね』

「分かった」

 一旦電話を切られる。

 それから一分ほど後、万由里からかかって来て、

『行っていいよって言われたから、私も行くよ!』

 こう伝えられた。声のトーンから万由里はとても嬉しがっている様子が分かった。

 淳之介は続いて敏光にも連絡してみる。

『もちろん行くぜ、アキバ巡りしたいからな』

 参加する気満々だった。

 しかし、

「あと参加するのは姉ちゃんと菜摘と、万由里ちゃんなんだけど……」

 淳之介がこう伝えると、

『パス』

 一転、拒否された。彼への電話を切ってから五分ほど後、淳之介の携帯に再び万由里からかかって来た。

『賢子ちゃんは家族で六甲山へハイキング、柚花ちゃんは同人誌即売会に行くから、東京旅行に参加出来ないって』

 万由里は少し残念そうに伝える。

「そっか。それじゃ、四人で行くことになるのか」

 この他いろいろ詳しい連絡を受け、

「――というわけで藤太郎爺ちゃん、あと万由里ちゃんの四人で東京行くことになったんだ」

 電話を切ったあと淳之介は、すぐさまリビングにいる藤太郎爺ちゃんに報告しに行く。

「そうか。では、また彦市の預金通帳から勝手に五万ほど」

「いやっ、参加費は万由里ちゃんが全額負担するからいいって」

「まあまあ、良いではないか。淳之介の近未来の婚約者なのじゃし」

「いや、それは……」

「さっそく高級ホテルを予約しよう。おまえと万由里ちゃんはツインの同部屋じゃな」

「ちょっ、ちょっと待て藤太郎爺ちゃん」

 藤太郎爺ちゃんにきりっとした表情で言われ、淳之介はたじろぐ。

「ぜひ、子孫作りにも励んで来い。万由里ちゃんはすこぶる賢いし、いいヒップラインをしておるし、きっと広中平祐さんのような賢い子を産んでくれるぞ。やり方は簡単じゃ。相撲を取る時と同じように裸で抱き合うだけで良い。ただし、マワシは付けずにな」

 にやけ顔で、肩をポンポンッと叩かれた。

「……」

 淳之介はかなり迷惑顔。 

「藤太郎お爺ちゃん♪」

 菜摘はにこっと微笑みかけた。

「何かのう? 菜摘ちゃん」

 藤太郎爺ちゃんはとても機嫌良さそうに、耳を菜摘の口元へ近づけた。

 その瞬間、

 パチーッンという音がして、その一秒後には藤太郎爺ちゃんは襖まで吹っ飛んでいた。

「万由里お姉ちゃんも淳之介お兄ちゃんも、清純なお付き合いをしてるんだから、変なこと吹き込んじゃダメだよ」

 菜摘はほんのり頬を赤らめて、爽やかな表情で注意する。

「フォフォフォ、菜摘ちゃんはまだまだ子どもじゃのう」

 藤太郎爺ちゃん、うつ伏せ状態。けれどもとても嬉しそうだった。

「みんな一緒のお部屋がいいわ」

 結局、淳子が浅草にあるわりと高級な旅館の四人部屋を予約し、事なきを得たのであった。

 六時五〇分頃に父、彦市が帰宅。

七時頃から久々に藤太郎爺ちゃんを交えての夕食の団欒が始まった。

「淳子よ、仮面浪人して、もう一度京大を目指してみてくれんかのう」

「嫌っ。うち、今の大学でじゅうぶん満足してるもん」

「淳子ぉ、もっと目標は高く持たんといかんぞ」

「お爺ちゃん、うち、センター七割も取れなかったのよ」

「京大は二次の配点の方がずいぶん高いから、センターの点が悪くても二次で挽回すれば理論上は合格出来ると僕は思ったのじゃが」

「センターが悪かったら二次なんかもっと点数取れないに決まってるでしょ。その前に足きりされちゃうし」

 テーブル席での淳子と藤太郎爺ちゃんとのやり取り。険悪モードではなく二人ともほんわかとした雰囲気だった。

「父さん、べつにそこまで京大に拘らなくてもいいじゃないか。自分に合った大学へ進むのがベストだろう」

 彦市はにこにこ笑いながら藤太郎爺ちゃんに意見してあげた。

「そうだよねーお父さん」

 淳子は大いに同意する。

「菜摘ちゃぁぁぁん、絶対、京大へ受かってくれぇぇぇ。我が家系で京大に受かりそうなのは、菜摘ちゃんしかいないんじゃぁぁぁ。淳之介もなるべく京大へ行き、彦市から引き摺っておる香村家の負の連鎖を断ち切ってくれぇぇぇ」

 藤太郎爺ちゃん、悲しげな表情を浮かべて落ち込む。

「任せて藤太郎お爺ちゃん、淳之介お兄ちゃんも、絶対京大へ合格させるから。淳之介お兄ちゃんも京大第一志望だもん。そうだよねぇ? 淳之介お兄ちゃん♪」

 菜摘が爽やかな表情で問いかけてくる。

「うん」

 淳之介はびくびくしながら了解の返事をした。彼は内心、京大なんてハイレベル過ぎて志望校の眼中にないのだが、こう答えないと菜摘からきつくお仕置きをされるからだ。

「頼んだぞ、淳之介、菜摘ちゃん」

 藤太郎爺ちゃんはきりっとした表情でそう伝え、夕飯を平らげるとすぐにおウチへ帰っていった。

          ※

 夜九時頃。

「その人形は埃を被って部屋の隅に立っていた。を英訳しなさい。十秒以内で。10、9」

「……姉ちゃん、入ってくるなって言ってるだろ」

 今日は淳子、淳之介の入浴中にお構い無しに侵入。これがいつものパターンだ。

「模範解答はCovered with dust,the doll stood in the corner of the room.よ。付帯状況を表す分詞構文になるの。そういえば、万由ちゃんも今ちょうど入ってる所かも」

 淳子はそう呟くとバスタブの縁に乗っかり、身を乗り出すようにして窓を開けてみる。

「おい姉ちゃん、やめろよ」

 淳之介は咄嗟に俯いて注意する。今しがた彼の目から仰角四五度くらいに、淳子のおっぱいがあったのだ。

「電気ついてるわね、ねえ、万由ちゃーん」

 淳子は大声で叫んでみた。

「はい、何でしょうか? 淳子ちゃん」

 すると万由里は窓を開けてくれた。香村宅浴室からは万由里の首から上だけが見えた。

「やっぱりご入浴中だったんだ」

「はい。同じ時間ですね」

「今、淳之介も入ってる所よ」

「そうでしたか。じゃあちょっとタオル巻いてきますね。私今すっぽんぽんなので淳之介くんに悪いから」

 万由里はこう伝えて、浴室から一旦出る。

「淳之介、お顔を出してあげて……あれ? もう逃げてる」

 淳子はたった今そのことに気付いた。

 十秒ほど後、

「おーい、淳之介くーん」

 戻って来た万由里が嬉しそうに手を振りながら、香村宅浴室に向かって叫びかけると、

「ごめんね万由ちゃん。淳之介、もう出ちゃったみたい」

 淳子は申し訳なさそうに伝える。

「残念です。久し振りにお風呂越しにお話しようと思ったんだけど」

 万由里はてへっと微笑む。

(そういや昔、万由里ちゃんと風呂越しに水鉄砲撃ち合って遊んだなぁ)

 淳之介は脱衣場兼洗面所で、体を拭きながら懐かしさに浸っていた。


        ☆


翌日木曜日放課後、万由里が代表して生徒指導部長の先生に旅行届を提出。

淳子が大学から帰宅途中に駅のみどりの窓口で四人分の、東京駅までの在来線と新幹線の往復乗車券(学割適用)を購入したのであった。


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