第一話 2
一成の手を離れた缶は、袋小路の一番手前に位置取っていたスーツの男の顔面めがけて飛んでいく。
『っ!?』
スーツの男は咄嗟に手を振るった。ジュースの缶はそれに阻まれるが、半分ほど残っていた野菜ジュースが男の顔にかかった。自分の顔面を襲った予期せぬ異物に、スーツの男は思わず目を瞑ってしまう。
「シィッ!」
短い気合と共に、一成は自らの足に弧を描かせた。その先端はジュースまみれの男の顔面に衝突し、激しい衝撃を生み出す。自分が何をされたのかも認識できないまま、その男は壁に激しく叩きつけられた。
残ったスーツの男たちは一気に殺気立った。急に現れた外部の人間に不意打ちされ、あまつさえ自分達の仲間を一人倒されてしまったのだ。何者かは知らないが、この男は自分たちの目的の障害である。即座にそう判断して臨戦態勢を取った。
しかし。
一成はその思考よりも一瞬早く手を動かしていた。
左の腕をしならせるように振り出して、今立っている場所から一番近いスーツの男の顔面に拳を叩きつける。男の頭部が衝撃で揺れ、無防備な体制をさらした。そこに間髪入れず一成は右の拳を放った。やや放物線に近い軌道を描きその拳は男の顎を捉え、それを食らった男は操り人形の糸を切断したように崩れ落ちた。
残るは3人。一成はすぐに残りも片付けるために向き直ったが、さすがに男たちも黙っている訳がない。
二人の男が左右から同時に殴りかかる。大振りだが、それは一成を退かせるには十分だった。
そして、距離をとったことにより広がった視界が、残るもう一人の男が懐から何かを取り出そうとしている様子を捉えてしまう。
その男の動作は、ドラマのように拳銃を取り出すシーンを即座に一成に連想させた。そうだ。こんな異常なシチュエーション、相手が拳銃くらい出してきてもおかしくない――――一成は急に死を身近に感じ、血液の温度が急激に下がるような感覚に襲われた。
「……抜かせないよ」
突然の、ポツリと呟くような声。一成も、スーツの男たちもその意味に理解が追いつかず僅かな混乱を起こした。
その混乱が収まるのを待たず、少女を守っていた少年が動いた。滑り込むように懐に手を入れた男に近寄ると、その懐と肘を押える。同時にくるりと身を翻すと、男の体は急回転を起こして強かに地面に叩きつけられてしまった。
残る二人の男はその突然の出来事に呆気に取られている。一成はそれに気付き、そのコンパスを大きく鋭く廻した。同時に、少年も膝から先をしならせるように走らせた。
バチイィィ!!!
乾いた衝撃音が二つ同時に響き渡る。それぞれのスーツの男の顔面を、一成と少年、二人の足先が捉えていた。
崩れ落ちるスーツの男たち。同時に少年が少女の手を引いて駆け出した。
「あなたも逃げて! これだけ騒げばすぐに警察も来ます!」
少年は一成にそう促した。一成も「あ、あぁ」と慌てて答え、二人の後を追った。
3人は走って駅前のバスロータリーに辿り付いた。朝の通勤通学の時間帯であるために、これからバスや電車に乗ろうという人たちでごった返していた。
「ここまで来れば一安心、ですかね。これだけ人目が多ければあいつらもそうそう手は出せないでしょうから」
少年がかけていた眼鏡しながら笑顔を一成に向ける。眼鏡のその奥の笑顔はまるで女性と見まごうほどで、先程の男たちとの立ち回りとはおよそ結びつかないものであった。
「助かりました。見ず知らずの人が急に来たと思ったら、あいつらに手を出して、あっという間に倒しちゃうんでビックリしましたけど」
少年がクスリと笑いながら言う。
一成は苦笑いを浮かべながら応えた。
「気付いたら助けてたつーか身体が勝手に動いてたっつーか。ま、あんまり深く考えてやったわけじゃねえから、気にすんな。――――つっても、お前さんの強さなら必要なかったかもしれんがな」
「あはは……まあ、路地には上手く誘い込めたんで、なんとかしようとは思ってましたけどね」
――――顔に似合わずなかなか場数踏んでいる。
一成は一連の出来事を振り返りながらそう思った。1対多数の戦いにおいて、空間を狭めて動きの制限を作るのは定石である。それに、スーツの男の一人が拳銃(だったかどうかは分からないが)を懐から取り出そうとした瞬間、自分は恐怖を感じて動きが鈍ったのにこの少年は冷静に対処してみせた。一成はそれを思い出し、目の前で静かに笑う少年に畏怖を覚えた。
そして一成は、その少年が守ろうとしていた少女を改めて見た。綺麗なロングヘアーに細い体。顔も整っていてまるでモデルやアイドルのようだが、その仕草はまるで幼くて『少女』という印象は抜けきらない。
「あー、そっちの嬢ちゃんは怪我はないか?」
「うん。大丈夫だよ♪」
少女の口調はさらに幼く、一成はそのギャップに戸惑いを覚えた。
「えーと……その、なんだ。何であんな変な連中に追われてるか知らんが、あんまり親を心配させるんじゃねえぞ」
一成の少し言葉を選んだような態度に、少年は一成が自分たちのことを家出か何かだと勘違いしているのではないかと気付いた。確かにこんな状況なら家出と間違われてもしょうがない、そう思うとフツフツと笑いがこみ上げてきた。
「……なんだよ」
「いえ、見ず知らずのボクらを助けてくれて、心配までしてくれるなんて、優しい人だなと思って」
「……たまたまだよ、たまたま」
一成は少し恥ずかしそうに視線を逸らす。
その時、駅のホームに電車が入ってくる音が聞こえてくる。一成は咄嗟に自分の携帯電話を取り出し、時刻を確認した。
「あああああっ!? 仕事遅れちまうじゃねえか!!」
一成は身体を急転換させ、改札へ向かって駆け出した。
「あ、せめて名前を!?」
少年が一成の名を聞こうと思った時には、一成は改札を通ってその先の階段を上り、姿が見えなくなっていた。
ホームにはちょうど電車が停車し、乗客の乗り降りが始まる。この様子だと助けてくれたあの人は無事に電車に乗ってしまいそうだ。ここは諦めるしかない、か――――少年は深く息を吐いた。
「名前、聞けなかったね……」
「ああ、ちゃんとお礼も言ってないし、それに――――きっとこれから、あの人にも迷惑かけちゃうだろうからね」
少年は少し辛そうな表情を浮かべて恩人が乗っているであろう電車が走り出すのを見送った。
夕方。朝方三人が別れた駅は、学生や会社員が一日の勤めを終えて再び賑わいを取り戻す。これから各々の家に帰ろうとしている会社員。駅前の商店街で友人と楽しげに遊ぶ学生。それは毎日変わらず訪れる光景。
そして一成も、朝の出来事などまるで無かったように仕事を終えて駅まで帰ってきた。今朝の物騒な連中は警察に捕まっただろうか?あの二人は無事に逃げおおせただろうか?ともあれ突然の出来事ではあったが自分自身はいつも通りの日常に戻った。ちょっとした交通事故みたいなもんだ、怪我した訳でもないし気にすることもない。そんな事をぼんやり考えながら歩いていると――――
『おかえりなさいっ♪』
突然後ろから声がかけられた。女性? いや女の子か? 何で俺が? 一成は一瞬混乱しながら振り返った。そこには――――朝方出会った少女と少年が、笑顔をこちらに向けて立っていた。
「なっ……なんでお前ら、まだここにいるんだ!?」
一成は思わず叫んだ。その声は周囲の視線を集めてしまい、少年は苦笑いを浮かべる。
「アハハ……すみません、帰るに帰れなかったもので。それにあなたのお名前も伺えませんでしたし、まだちゃんとお礼も言ってないですから」
「あのね、私たちちゃんとお礼が言いたくって、それで、ずっと待ってたの!」
無邪気に満面の笑みを浮かべる少女。その様子に一成は呆れながら答えた。
「あー……わかった。わかったからこんな所ではしゃぐな。てめえも真面目そうな顔して笑い堪えてんじゃねえ」
「……別に堪えてなんかいませんよ?」
少女の隣で顔を微妙に逸らしている少年に不満をぶつける一成と、それに対して貼り付けたような微笑を崩さず答える少年。そして。
「うんうん♪ 二人ともすっかり仲良しさんだねっ」
二人のやりとりを見て心底嬉しそうに笑う少女。
夕刻の街の喧騒の中でも一際賑やかな、三人の再会だった。