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神様の日記帳-支配していたのは僕の方だと思ってた-  作者: 鳳雛みかん


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3/3

第3話 神様の日記帳

 穏やかな朝の光が、シーツの波間を白く照らしていた。


「ちょっと駅前まで買い物に行ってくるね。お昼には戻るから」


 栞はそう言い残し、部屋を出て行った。障害物を排除し、この美しい生き物を手に入れた僕の心は、これ以上ないほどの万能感に満たされていた。

 

 結衣という僕を慕ってくれていた尊い少女を犠牲にしたのだ。もう後戻りはできない。


 ふと、栞がいつも大切そうに鍵をかけていた机の引き出しが、ほんの少しだけ開いているのに気づいた。栞としたことが、珍しく鍵を閉め忘れたのだろうか。


 今の僕は彼女のすべてを支配する神だ。神が、自らの所有物を覗くことに何の罪があろうか。


 引き出しの中には、使い古された一冊のノートが入っていた。それは栞が小さい頃から書き綴ってきた日記帳らしい。僕はベッドに寝転がりながら、優越感とともにその文字を追い始めた。


『X月X日。また父が私の部屋に来た。


 薄暗い部屋で私を押さえつける。「愛している」とひどく濁った声で囁きながら、あの人は、私の尊厳を何度も踏みにじった。


 痛い。気持ち悪い。吐き気がする。


 でも、少しでも抵抗して父を怒らせれば、本当に首を絞められて殺されるかもしれないという恐怖で、身体が石のように硬直してしまう。


 だから私は、声を出さずにただ嵐が過ぎ去るのを待つしかない。自分を殺して、ただの意志を持たない人形になるしか、ここでは生き延びる術がないのだ』


 日記には、彼女が父親から受けたであろう凄惨な暴力と、それに耐え忍ぶ悲痛な叫びが綴られていた。


「……可哀想に。でも、もう大丈夫だ。君は僕が救い出したんだから」


 ――だが、ノートの半分を過ぎたあたり。


 ある日付のページを境に、ひどく乱れていた栞の筆跡が、整然としたものに変わっていることに気づいた。


『X月X日。父が私に向ける異常な執着が、少しだけ心地よくなってきた。


 私が怯えて泣き叫ぶフリをするたび、父は「俺がお前を守る」「愛している」と呪文のように繰り返し、ますます私から離れられなくなっていく。


 暴力を振るわれ、支配されているのは私のはずなのに、見えない鎖で首を繋がれているのは、実は父の方なんじゃないか。


 私が少しすがるように微笑みかけるだけで、あの人は何でも言うことを聞く。大の大人が、私という存在に狂わされていく。


 その滑稽な姿を見ていると、胸の奥で、今まで感じたことのない気持ちが湧き上がってくるのを感じる』


 これはどういうことなんだろうか。あの夜、栞が僕に打ち明けてくれた心の闇とは程遠い内容が綴られている。そんなことを思いながらペラペラとページをめくり、ある一文を目にした瞬間、僕の心臓がドクン、と嫌な音を立てた。


『X月X日。父親が死んだ』


 嫌な汗が背中を伝うのを感じながら、僕は震える指で次の行に目を落とす。そこに書かれていたのは、僕の頭脳をもってしても、まったく理解の追いつかないおぞましい文章だった。


『父はついに、私を繋ぎ止めるためにすべてを失った。


 仕事も、お金も、周りの人間からの信用も。最後は、逃げ場のない暗い部屋の中で狂ったように喚き、絶望の淵を這いずり回っていた。


 私への歪んだ愛情のせいで、自らの身を滅ぼし、壊れてしまった。


 私が、父が喜ぶように怯え、すがりつき、見せかけの愛を与え続けた結果だ。


 最後には首を吊って私の前に無様な姿を晒した。その青ざめた死顔を見た時、私は生まれて初めて、心の底から満たされるのを感じた。


 男が愛という名目で勝手に狂い、私のために壊れていく様を特等席で鑑賞することができた。生きていて初めて楽しいと感じた』


「……は?」


 乾いた声が、僕の喉から漏れた。


 栞は父親からの虐待に耐え忍ぶ可哀想な女の子、そう思い込んでいた。いや、最初は本当にそうだったのかもしれない。だが、凄惨な暴力に耐え忍ぶ日々が、彼女を跡形もなく壊し、こんな怪物を作り上げてしまったのだ。


 全身の血の気が一気に引いていくのを感じながら、僕はノートのページを乱暴にめくった。そして、僕と栞が大学で初めて出会ったあの日のことが記されたページが現れた。


『X月X日。また新しい獲物を見つけた。


 今日大学で出会ったあの男、まるで可哀想なものを見るかのような目で私を見ていた。


私を愛しているのは自分だけだと心酔していたあの父親とそっくりだ』


 次々と飛び込んでくる理解しがたい文が、僕の眼球を鋭い刃物のように抉った。


『今度はどうやってあの男を壊してみようか』


 嫌な汗が全身から噴き出し、心臓の鼓動が早くなる。


『私のために、すべてを犠牲にしたあと死んでもらおう』


「……っ!?」


 息が止まった。僕が彼女を支配していた? 違う。僕は最初から最後まで、この怪物を楽しませるためのおもちゃとして踊らされていたのだ。結衣の純粋な恋心を嘲笑っていた僕自身が、最も惨めなピエロだったのだ。


 手からノートが滑り落ちた、その瞬間。


 ――ガチャリ。


 静まり返った部屋に、玄関のドアが開く無機質な音が響き渡った。


 栞が鍵を閉め忘れたのだろうか。それとも、もう帰ってきたのか?


 全身の血が凍りつく。嘘だろ。まさか。


 ギィィ……と、床がきしむ音がだんだんと近づいてくる。僕はベッドから転げ落ちるようにして立ち上がり、後ずさった。


「栞、帰ってきたのか……?」


 寝室の半開きのドアの隙間から、ヌッと青白い顔が覗いた。


「……先生、おはようございます」


 そこに立っていたのは、ボサボサの髪に、焦点の合わない虚ろな瞳をした結衣だった。


 その右手には、分厚く鋭利な包丁が、鈍い光を放って握られていた。


「ゆ、結衣……違う、これは誤解だ! 全部あの女、栞が悪いんだ、僕は君を……!」


「先生の嘘つき」


 僕の得意分野だったはずの、相手を丸め込むための甘い言葉は、もはや結衣の耳には一切届いていなかった。


 彼女はゆっくりと部屋に足を踏み入れると、ひどく歪んだ、恍惚とした笑みを浮かべた。


「先生、私のことゴミみたいに捨てたよね。あの女の人を手に入れるために、私を騙して」


「違う! 待ってくれ、お願いだ……!」


「でも、大丈夫だよ。先生はあの女の人も騙してたんだよね。結局、先生は誰のことも愛してない、ただの空っぽな人間だったんだ。私だけが先生のことを理解してる」


 じりじりと結衣が距離を詰めてくる。


 かつて僕にすべてを委ねたあの脆い身体から、今は圧倒的な殺意が立ち込めている。


「同情するよ、先生。だからね、私が先生を永遠の愛で満たしてあげる」


 振り上げられた刃が、空気を裂いた。


「やめ、ぐあっ……!!」


 腹部に、焼け焦げるような激痛が走る。


 僕が腹を押さえて床にうずくまると、結衣は僕の上に馬乗りになり、何度も、狂ったように刃を振り下ろした。


「痛い? 先生、痛い? 私も痛かったんだよ!でもね、これでずっと一緒だね。私は先生をずっと思い続けるから!ずっと、ずっと私だけの神様でいてね!!」


 血飛沫が、白い壁を真っ赤に染め上げていく。


 薄れゆく意識の中で、僕の網膜に最後に焼き付いたのは、僕の血を全身に浴びながら、涙を流す結衣の狂気に満ちた笑顔だった。


 僕は溢れ出す大量の血と、どうしようもない後悔に咽び泣きながら、暗い地獄の底へと沈んでいった。


 *   *   *


『X月X日。彼が死んだ。


 買い物を終え部屋に戻ると、空気は鉄の匂いで満ちていた。床は赤く、壁にも飛沫が広がっている。


 中央に、彼が倒れている。刺し傷は数えきれない。目は見開いたまま、天井の一点を見つめていた。


 その傍らで、以前私を殺そうとした女子高生が彼の手を握っている。血に濡れた頬をすり寄せ、小さな声で子守唄を歌っていた。


 私は少し離れた場所から、それを見ていた。


 玄関の前で、声が震えるように息を整える。涙は、目を強く擦れば自然に滲む。


 あとはいつも通り可哀想な私を演じるだけ。


さて、次は――』


 私はペンを置いた。次のページはまだ、白紙。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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