第1話 偽りの救世主
シーツにくるまり静かな寝息を立てる栞の、白くて華奢な肩口には、昨夜の出来事の名残がまだかすかに残っている。恐怖で震えあがっていた彼女の姿はもう見る影もない。
無防備なその寝顔を見下ろしながら、僕は世界を手に入れたような高揚感に包まれていた。彼女のすべては、僕のものとなった。僕の完璧な計画が、このか弱くて美しい生き物を地獄から救い出し、僕の腕の中に繋ぎ止めたのだ。
だが、彼女が泣きながら僕の腕の中に崩れ落ち、僕を救世主として崇め、身も心も委ねるようになるまでには少しばかりの手間と、周到な舞台装置が必要だった。
僕が初めて栞の涙を見たのは、季節が秋に差し掛かろうとしていた三ヶ月前に遡る。
当時の僕は、特に何かが起こるでもなく平穏な日常に退屈していた。
大学に通う傍ら、塾講師のアルバイトをしていた僕の隣には、いつも結衣という女子高生がいた。大学受験を間近に控えていた彼女の授業を僕が担当していた。
出会ったばかりの彼女はひどく寡黙で、自分の殻に閉じこもっているような少女だった。だが、彼女はまだ世間を知らない、ただの無防備な子どもに過ぎない。
僕が少しばかりの大人の余裕を見せ、優しい言葉をかけるだけで、まるで全知全能の神様でも見るかのような盲目的な好意を向けてくるようになった。その無垢な心を支配するのはひどく簡単で、僕の自尊心を満たすには十分すぎる、都合の良いおもちゃだった。
そんな彼女との単調な関係にも次第に飽きが生じていた、ある日のこと。僕は大学のキャンパスで、一人うずくまっている彼女、栞を見つけた。
長い綺麗な黒髪の隙間から見えた栞の白い頬には、不自然な青い痣が浮かんでいた。誰かと電話をしているらしく、彼女は肩を震わせ、消え入りそうな声で
「ごめんなさい、許して……」
と繰り返しては、静かに涙を流していた。
そのひどく怯えた声と、壊れそうなほど脆い姿を見た瞬間、僕の背筋に冷たい電流が走った。結衣のような薄っぺらい女にはない、暗い影。誰かに徹底的に虐げられ、支配されてきた女の目。僕の退屈な日常を打ち破るには、これ以上ないほど完璧な獲物を見つけた気がした。
僕は、ポケットからハンカチを取り出し、怯える彼女の前に静かにしゃがみ込んだ。
「大丈夫?」
いきなりの訪問者に驚いて肩を跳ねさせた栞は、僕の顔を見ると、慌てて涙を拭おうとした。だが、僕が少し強引に、それでいてひどく優しくその手を取ると、彼女はそのまま泣き崩れた。
それからの数日は、実に容易いゲームだった。僕は誰よりも彼女を心配する心優しい男という偽の仮面を被り、鮮やかに栞の心の内側へと入り込んでいった。
何回か逢瀬を重ねた末のある夜、僕の部屋で泣きじゃくっていた栞は、ついにその心にある暗い影の正体を打ち明けてくれた。
栞を支配していたのは、ある社会人の粗暴な男だった。バイト先で偶然出会い付き合うことになったらしいが、別れ話を切り出すたびに暴力を振るわれ、逃げ場がないのだという。
「私、殴られても抵抗できないの」
栞は体を震わせ、自らの身体を抱きしめるようにして呟いた。
「小さいときから、ずっと父親に理不尽な暴力を振るわれて育ったから。男の人に逆らうと殺されるって、身体が覚え込んじゃってるみたい」
その悲痛な告白を聞いた瞬間、胸の奥が妙に熱を帯びた。
なんて可哀想で、しかしなんて美しい生き物なんだろう。この底知れぬ暗闇から彼女を救い出せるのは僕しかいない。
彼女を救うためには、あの男を単に遠ざけるだけでは足りない。完全に社会から抹殺し、二度と彼女の前に現れないようにする必要がある。
だが、僕自身が手を汚すようなリスクを冒すわけにはいかない。
そんなとき、ふと頭の中に、いつも僕を盲信してすり寄ってくる無垢な女子高生、結衣の顔が浮かんだ。栞の深い傷を癒やすという崇高な目的のためだ。安い駒の一つくらい犠牲になったところで、誰が文句を言うだろうか。
数日後、僕は結衣を呼び出した。
「大切な友人が、ある男に脅されているんだ。結衣の力を貸してほしい」
結衣は震えていた。当然だ。見知らぬ大人の男に近づいてくれと、愛し合っているはずの男から言われているのだから。だが、僕が彼女の細い肩を抱き寄せ、その耳元で
「君にしか頼れないんだ」
と呪いの言葉を囁くと、結衣はボロボロと大粒の涙をこぼしながら、
「先生のためなら……」
と小さく頷いた。
容易いものだ。子どもの恋愛感情というものは、大人の少しの甘い言葉で、いとも簡単に使い捨ての道具へとなり替わる。
決行の日。結衣は僕の脚本通り、男の行きつけの繁華街を歩き、わざとらしく男を誘った。彼女の鞄の隙間には、僕が用意した小型カメラが忍ばせてある。
怯えた顔の結衣が、下品な笑いを浮かべる男と共に、薄汚れた建物のドアへと吸い込まれていく。それを遠目に見届けた後、僕はすぐ近くにある小綺麗なカフェに入り、窓際のテーブルに腰を下ろした。
淹れたてのコーヒーの香りを楽しみながら、僕は静かに息を吐き出した。
今頃、僕の無垢な教え子が、僕への愛を証明するためだけに危険な役目を果たしている。だが、僕の心には罪悪感など微塵も湧かなかった。あるのはただ、栞という獲物を手に入れるための計画が次第に完成されていくことに対する圧倒的な快感だけだ。
数日後、結衣が身を挺して持ち帰った映像により、男はあっけなく社会から抹殺され、逃げるようにこの街から消え去った。
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