第三章 夜に還るもの
あの子が。
透の胸の奥で、何かがざわめいた。
夢の中の少女の顔が、暗闇の向こうでゆっくりと浮かび上がる。
笑ったときの口元、風に揺れる髪、蛍の光を映した瞳。
けれど、その輪郭だけがどうしても思い出せない。
まるで記憶の表面を薄い膜が覆っているようだった。
畳の上で、蛍がひとすじ光を放った。
弱々しく明滅しながら、透の足元を照らしている。
死にかけているはずなのに、まだ何かを伝えようとしているように見えた。
透は膝をつき、蛍のそばに指を伸ばした。
その下の畳に小さなへこみがある。
そこに、何か硬いものが触れた。
指先でつまみ上げると、蛍の光を受けて銀色の反射がきらめいた。
小さな金属片だった。
土の匂いが染みついたような冷たい感触。
透はそれを掌に乗せ、近くの照明にかざした。
古びた指輪。
輪の一部が割れ、内側には小さな刻印があった。
擦れてほとんど読めないが、“O”と“K”に見える。
指輪を見つめていると、なぜか胸の奥が痛んだ。
脈打つたびに、指輪が手の中でかすかに温かくなる。
遠くで水の音がした。
川のせせらぎのような、けれどもっと近い音。
部屋のどこかで水が流れているような気がして、透は顔を上げた。
机の上のノートが、ぱらりと音を立ててめくれた。
風は吹いていない。
ページは止まったところで静止し、祖母の筆跡が目に飛び込む。
“あの子のものは、土に還さなければならない”
瞬間、手の中の指輪がずしりと重くなった気がした。
透は思わず指輪を取り落とした。
畳に当たる音は乾いた金属音ではなく、ぬるりとした水音に近かった。
床を見ると、畳の隙間から黒い染みがにじみ出している。
ゆっくりと広がり、指輪を包み込んでいく。
鉄のような匂いが鼻を刺した。
「…やめろ。」
透は声を震わせ、後ずさった。
そのとき、部屋の隅で何かが動いた。
小さな光がふわりと舞い上がる。
蛍だった。
羽は千切れ、身体はほとんど潰れているのに、
赤い光だけがなお強く瞬いていた。
その光が天井を照らすと、窓の外に影が見えた。
街灯の下に、黒い車。
懐中電灯の光が、透の部屋の窓をなぞる。
久遠刑事だった。
彼は夜の冷気の中で立ち尽くし、透の部屋をじっと見上げている。
光の輪が透の顔に届いたとき、久遠がわずかに口を動かした。
声は聞こえなかった。
けれど、唇の動きだけが「見たんですね。」と確かにそう形作っていた。
透は立ち尽くしたまま、喉の奥がひりつくほど息を止めた。
その足元で、蛍が再び光を放つ。
指輪の傍らで、ゆっくりと赤く、燃えるように。
まるで、封じられていた記憶が再び息を吹き返したかのように。




