第二章 光の下の影
鳥の声で目が覚めた。
障子の隙間から射し込む光が白く滲み、部屋の埃がゆっくりと漂っている。
胸の奥に、まだ夜のざらついた感覚が残っていた。
夢を見ていた気がする。雨の音と、誰かの声。
「——透、逃げなさい。」
その声だけが耳の奥にこびりついていた。
昨夜の記憶は曖昧だ。
何を見たのか、どこまで歩いたのか。
けれど、あの光だけははっきりと覚えている。
川辺で蛍たちが血の上を飛び交っていた。
「——死んでも光る。」祖母の言葉が、今も脳裏に残っている。
外から車の音がした。
透は顔を上げる。窓の外、坂道を警察車両がゆっくりと上ってくるのが見えた。
玄関の呼び鈴が鳴る。
「真白透さんですね。」
玄関に立っていたのは、灰色のスーツを着た男だった。
年配だが背筋は真っすぐで、落ち着いた眼差しをしている。
胸の名札には久遠とあった。
「昨夜、川辺で遺体を発見されたと伺いました。」
「…はい。」
透の声は少し掠れていた。
久遠はうなずき、控えめに言葉を続けた。
「夜は暗くて、位置がよく分からないそうなんです。こちらの署員も土地勘がなく。
もし差し支えなければ、どのあたりだったか案内していただけませんか?」
透は一瞬ためらった。
だが、あの光景をもう一度確認したい気持ちが自分の中にあることを、否定できなかった。
あれが夢だったのか、現実だったのか。確かめる必要があった。
「…分かりました。」
久遠は、目尻に小さな皺を寄せてうなずいた。
「ありがとうございます。無理のない範囲で結構です。」
透たちは、朝の霧がまだ残る川沿いを歩いた。
川面には薄い靄が漂い、光を受けて銀の膜のように輝いている。
規制線が張られ、数人の捜査員がカメラを構えていた。
村人たちは遠巻きにこちらを見ている。
その視線は、同情よりも確認のように感じられた。
久遠刑事は足元を確かめるように歩きながら言った。
「ここが、見つけた場所ですね。」
「はい。昨夜はもっと暗かったんです。」
透の視線は川の石の上に向かう。
そこにはビニールシートが掛けられていた。
中に何があるかは言われずとも分かる。
だが、見ないようにしても脳裏にはあの瞬間が焼きついていた。
川の水が、月の光を飲んでいた。
風が止んだ瞬間、光が一か所に集まった。
蛍たちが死体のまわりを囲むように舞っていた。
その光は、血のように赤く滲んでいた。
「発見したのは何時ごろでしたか?」
久遠の声で、透は現実に引き戻された。
「22時前です。眠れなくて、散歩していて。」
「そのとき、何か気づいたことは?」
「光が…変でした。蛍が、いつもより多くて。赤く見えました。血のせいだと思います。
でも、それだけじゃなくて。」
久遠は透の言葉を遮らず、じっと耳を傾けていた。
「光そのものが、染まっていたように見えた。そういうことですね。」
「…はい。」
しばらく黙り込んだ久遠は、川面に目をやった。
「おかしなことを聞くようですが、あなた、以前もこの川で何かを見たことがありませんか?」
透は言葉を失った。
頭の奥で雨音のようなざわめきが響く。
夢の中の声がよみがえる。
「いえ。何も。」
透は小さく首を振った。
久遠はそれ以上何も言わず、視線を川へ戻す。
朝日が少しずつ昇り、靄が消えていく。
澄みきった水面に、いくつかの黒い影が浮かんでいた。
蛍の死骸だった。
透は思わず息を呑む。
そのうちの1匹が、まだ淡く光っていた。
「——死んでも光る。」
祖母の言葉が、また脳裏を掠めた。




