第一章 蛍沢
蝉の声が遠くで鳴いていた。
真白透は、駅前の小さなバス停でひとり、夕暮れを見ていた。
都会よりも空が広く、雲の影がゆっくりと地面を這っていく。
ここに戻るのは、十年ぶりだった。
「変わってないな。」
バスが走り去ると、村全体が水の底に沈んだように静かになった。
舗装の剥げた坂道を上り、祖母の家へ向かう。家々の軒先では風鈴が鳴っている。
その音があまりにも一定で、まるで誰かが意図的に鳴らしているように聞こえた。
祖母の葬儀は、すでに終わっていた。
玄関に立つと、村の人々が透を見て小さく会釈する。
「よく帰ってきたね、透くん。」
「おばあちゃん、きっと喜んでるよ。」
どの顔も懐かしいのに、どこか歪んで見える。
透は微笑みを返しながら、胸の奥が少しだけ冷たくなるのを感じた。
居間の仏壇には、祖母の写真があった。
小さな体で、いつも庭の蛍を眺めていた人。
透が幼いころ、祖母はよく言っていた。
「蛍はね、死んでも光るんだよ。それはね、命の余韻なのさ。
あの光が消えるとき、人はやっと本当の意味で死ぬんだ。」
その言葉を思い出した瞬間、背筋を風が撫でた。
仏壇の花瓶の水がわずかに揺れる。
部屋のどこかで、蛍がひとつ、明滅した気がした。
夜、眠れずに外へ出ると、村の空気は湿っていた。
蛍沢川の方から、青白い光が漂ってくる。
祖母の家の裏山を抜けると、川辺に出た。
そこには、蛍が群れを成して飛んでいた。
その中に、ひとつだけ違う光がある。赤く、ゆらめくように滲む光。
透は足を止めた。
川岸の石の上に、黒い影が見えた。
近づくと、それが人だと分かった。
倒れている女性。長い髪が水に濡れて、肌の色が月明かりに白く浮かぶ。
蛍たちが彼女の周囲に集まり、赤い光をまとっていた。
透は思わず呟いた。
「…まだ、光っている。」
夜風が川を渡り、蛍たちの光を揺らす。
そして透の頬を、赤い雫がひとすじ伝った。




