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雲隠(作:二階堂 玲)

二階堂「……では、始めますか」


(二階堂、ノートパソコンを静かに開く。その画面には、整然と文字が並んだテキストファイルが表示されている)


一ノ瀬「ふんっ。さっきはよくも私の『雲隠』をこき下ろしてくれたわね。どれほどのものが出来たのか、お手並み拝見させてもらうわ、玲!」


(腕を組み、少しふてくされた表情で二階堂を睨む一ノ瀬)


四方田「副部長のミステリー! ワクワクしますね! 私、絶対犯人当てちゃいますから!」


三田村「論理。情報の整合性。……興味深い。観測を続けます」


二階堂「感傷的な文学の時間は終わり。ここからは、論理の時間です。私が導き出した『雲隠』の真相……それは、光源氏の死が、巧妙に仕組まれた“完全犯罪”だったという、ただ一つの事実です」


(部室の空気が、ぴんと張り詰める。二階堂は、その空気を切り裂くように、淡々とテキストを読み始めた)


***


雲隠

作:二階堂 玲


第一章 静かなる終焉


 六条院の主、源氏の君が床に伏してひと月が過ぎた。一時は死の淵をさまよったものの、腕利きの侍医たちの懸命な治療の甲斐あって、その病状は薄紙を剥ぐように快方へ向かっていると、誰もが信じていた。起き上がって庭を眺める日も増え、訪れる者と穏やかに言葉を交わす姿に、人々は安堵し、光の君の類稀なる生命力に感嘆していたのである。

 その日の朝も、そうであるはずだった。

 朝餉の時刻になっても源氏の君が起きてこないことを案じた侍女が、寝所を訪れた。そして、発見した。几帳の奥、いつものように静かな寝息を立てているはずの主が、すでに冷たくなっているのを。

 知らせは瞬く間に院内を駆け巡り、悲嘆と混乱が広がった。駆けつけた侍医は、やつれた表情で「長きにわたる病が、ついにあの方のお身体を蝕み尽くしたのでしょう。眠るように安らかに……病のぶり返しによる衰弱死にございます」と診断を下した。

 誰もがその診断を受け入れ、偉大なる人の死を悼んだ。ただ一人、息子の夕霧を除いては。

 右大臣である夕霧は、父の亡骸と対面した瞬間、ある違和感に気づいていた。それは、常人ならば見過ごしてしまう、あまりに些細な齟齬。

 一つは、部屋に満ちる香り。父は、強い香りを好まなかったはずだ。それなのに、枕元に置かれた香炉からは、白檀の香りが強く立ち上っている。まるで、何か別の匂いを覆い隠すかのように。

 もう一つは、部屋の隅にある薬棚。数多の生薬が収められたその棚の、ひときわ小さな引き出しが、指の先ほど、僅かに開いていた。几帳面な侍女たちが、そのようなことをし忘れるだろうか。

 父は、本当に病で死んだのか?

 夕霧の心に、冷たく、そして確かな疑惑の影が落ちた。父の尊厳を守るため、そして何より真実を明らかにするため、彼は誰にも告げず、密やかな調査を開始することを決意した。


第二章 見えざる容疑者


 夕霧はまず、父の死によって何らかの利益を得る者、あるいは父に怨恨を抱く者を頭の中で整理した。そのリストは、あまりに長大で、彼の心を暗くさせた。

 朱雀院。父の兄であり、元帝。かつて父は、彼の妃であった朧月夜の君と許されぬ過ちを犯した。その屈辱を、あの方は本当に許したのだろうか。

 冷泉帝。今の帝。彼は、自らの出生の秘密を知っている。表向きは桐壺帝の子だが、真の父は源氏の君。その存在は、帝の地位を根底から揺るがしかねない、最大の不安定要素ではなかったか。

 そして、我が義母である明石の君。彼女の娘、明石の中宮は東宮を産み、次代の国母となることが約束されている。娘と孫の未来を盤石にするため、あまりに強大で気まぐれな祖父の存在を、疎ましく思うことはなかったか。薬の知識にも通じている、と聞く。

 容疑者は、他にも数多いる。父の華麗な女性遍歴は、そのまま怨恨の歴史でもあった。夕霧は、さりげない見舞いや弔問を装い、彼らと接触を試みた。だが、誰もが完璧な悲しみの仮面をかぶり、その内側を覗かせることはなかった。捜査は、早くも暗礁に乗り上げたかのように思われた。


第三章 見えざる凶器


 夕霧は、発想を転換した。容疑者からではなく、物証から犯人に迫る。彼は侍医や薬師たちに、父が服用していた薬について、改めて詳細な聞き取りを行った。

「処方していたのは、主に気力を補うための滋養薬。どれも毒性などない、ごく穏やかなものばかりにございます」

 薬師はそう言って、処方箋を広げてみせた。夕霧は、その一つひとつの生薬の名を、記憶に刻みつける。

 その日の夕刻、夕霧は再び父の寝所を訪れた。そして、あの僅かに開いていた薬棚の引き出しに、そっと手をかけた。中には、小さな包みが数個。一つを手に取り、中身を確かめる。それは、『附子ぶし』。鳥兜の根から作られる、古来より知られる猛毒だ。

 だが、夕霧は首を振った。附子を使えば、死体に特有の兆候が残る。侍医がそれを見逃すはずがない。これは、犯人が仕掛けた巧妙な罠、偽の証拠レッド・ヘリングだ。

 ならば、真の凶器は何か。

 夕霧の脳裏に、薬師の処方箋と、部屋に満ちていた白檀の香りが結びついた。彼は、宮中の書庫に籠り、古い薬学の書物を夜を徹して読み漁った。そして、ついに探し当てたのだ。震える指で押さえたその一文には、こう記されていた。

甘草かんぞう、滋養薬として広く用いらるるも、これを過剰に与えし者に、特定の香木を焚きしめ、共に用いることなかれ。薬効は反転し、毒と化して心臓を苛むなり』

 これだ、と夕霧は確信した。

 犯人は、源氏の君が毎日服用する滋養薬に、ごく僅かな甘草の粉末を混ぜ込み続けたのだ。それだけでは、何の害もない。だが、ある一定量が体内に蓄積された時を見計らい、犯人は部屋を訪れ、引き金となる“特定の香木”――そう、白檀の香を焚いたのだ。

 香りが部屋に満ち、源氏の君がそれを吸い込んだ時、体内の甘草は薬から毒へと変貌を遂げ、彼の心臓の動きを静かに、しかし確実に止めた。死後に体を調べても、毒の痕跡は残らない。なぜなら、そこにあるのはただの薬と、ありふれた香だけなのだから。なんと恐ろしく、知的な殺人方法だろうか。


第四章 慈悲という名の刃


 犯人がわかった。この知略を巡らせ、薬と香の知識を持ち、源氏の君の寝所に自由に出入りできる人物。そして、最も彼を殺す動機を持つ人物。

 夕霧は、月明かりだけが差す冷たい廊下を渡り、ある一人の女性の部屋の前に立った。

「……明石の君。夜分に失礼いたします。夕霧にございます」

 静かに襖が開かれ、明石の君が穏やかな表情で姿を現した。彼女はすべてを悟っているかのように、夕霧を部屋へと招き入れた。

「父を殺したのは、あなたですね」

 単刀直入な問いに、明石の君は表情一つ変えず、静かに頷いた。

「……お気づきでございましたか。さすがは、あの方の御子にございますね」

「なぜ、このようなことを」

 夕霧の声は、怒りよりも深い悲しみに震えていた。

「なぜ、とお思いですか」明石の君は、初めてその目に、人間らしい熱を灯して言った。「私は、あの方を誰よりもお慕いしておりました。須磨の浜で出会ったあの日から、この命はあの方のもの。ですが、それ以上に、私は母なのです。我が娘、明石の中宮と、その御子である東宮様の未来を、私は守らねばならなかった」

 彼女は続けた。「あの方の存在は、あまりに大きすぎた。その気まぐれ一つ、その憂い一つが、政を揺るがし、人々の運命を狂わせる。そして何より、あの方ご自身が、過去の罪に苛まれ、もはや安らぎの地を見いだせずにいらっしゃった。……ならば、私が終わらせて差し上げるのが、最後の愛。あの方を現世の苦しみから解き放ち、我が子らの未来を盤石にする。それが、あの方に生涯を捧げた、私の見つけた唯一の答えにございます」

 それは、恐ろしいほどの愛と、冷徹なまでの合理性が生み出した犯行だった。愛するがゆえに、殺す。その狂気と純粋さに、夕霧は言葉を失った。


第五章 雲隠


 夕霧は、真相を誰にも告げなかった。父の、そして源氏一族の尊厳を守るため。そして何より、未来の帝となる弟の血筋に、母が父殺しの大罪人であるという汚点を残すわけにはいかなかった。

 彼は、明石の君を罰することもなかった。彼女を裁ける者など、もはやこの世にはいないのだから。

 源氏の君の死は、公式には病死として扱われ、その真相は深い霧の中へと葬られた。人々はただ、あまりに偉大な光が、雲に隠れるようにして消え去ったことを嘆き悲しむばかりであった。

 だが、夕霧の心には、父の死の重い真実が、生涯消えることのない痣のように刻み込まれた。父は、雲に隠れたのではない。愛する者に、隠されたのだ。

 真実は、時にあまりにも残酷である。彼は、父のいない空を見上げ、静かにそう呟いた。


***


(二階堂、読み終えてパソコンを閉じる。満足げ、というよりは、一つのタスクを完了した技術者のような、静かな表情だ)


二階堂「……以上です。これが、私が導き出した『雲隠』の論理的帰結です」


(部室は、しばし沈黙に包まれた。最初に口を開いたのは、先週、完膚なきまでに叩きのめされた一ノ瀬だった)


一ノ瀬「な……なんてこと……。私の、私たちの光の君が……殺されていたですって……? しかも、あんなに理知的で慎ましい明石の君が犯人だなんて……。そんなの、あんまりだわ……。でも……でもっ……! そのロジックに、隙がない……! 伏線の張り方、トリック、動機……! 悔しい…! 悔しいけれど、一人のミステリー好きとして、面白いと思ってしまった自分がいる……!」


四方田「犯人、明石の君だったんだー! 全然分かんなかったです! でも、愛ゆえの犯行っていうの、ちょっと切なくてエモいですね……。『あなたを苦しみから解放するための、最後の愛』ってセリフ、ゾクゾクしちゃいました……。推しにそんな風に殺されるなら本望……いや、でもやっぱり殺されたくない……うーん、複雑!」


一ノ瀬「四方田さん!? そこに共感するところじゃないでしょう!?」


三田村「……観測結果。情報の提示、伏線の配置、論理的帰結。見事な情報処理です。部長の作品が情緒による演繹であったのに対し、こちらは事実からの帰納法に基づいている。興味深い対比です」


二階堂「当然です。物語は、情緒の産物であると同時に、緻密な設計図でもあるべきですから」


三田村「……ただし、このプロットにおける最大の不確定要素は、やはり『人間の感情』です。動機とされる『愛』は、非論理的なエネルギーであり、計算外のバグを生む可能性がある。犯人が、計画にない行動を取る可能性も、考慮すべきでした」


二階堂「……それは、今後の課題としておきましょう」


(二階堂の答えに、三田村は静かに頷いた。そして、ゆっくりと口を開いた)


三田村「……次は、私の番です」


(三人の視線が、物静かな後輩に集まる)


三田村「論理も、情緒も、宇宙の真理の前では些細な現象に過ぎない。物語とは、情報の奔流。……皆さんに、本当の『世界』の姿をお見せします」


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