雲隠(作:一ノ瀬 詩織)
日付:20XX年某月某日
場所:文芸部部室
議題:『第一回・雲隠チャレンジ』発表会
出席者:一ノ瀬詩織(部長)、二階堂玲(副部長)、三田村宙、四方田萌
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一ノ瀬「さあ、皆の者! 約束の一週間後、ついにこの日が来たわ! それぞれの解釈、それぞれの物語が紡がれたことでしょう。光栄あるトップバッターは、この私、部長の一ノ瀬詩織が務めさせていただきます!」
(一ノ瀬、恭しく巻紙のような形にまとめた原稿を胸に抱き、すっくと立ち上がる)
四方田「待ってました! 部長の『雲隠』! 絶対すごそう!」
二階堂「……まあ、お手並み拝見と行きましょうか。どれだけ格調高い物語ができたのか、楽しみですよ」
三田村「……観測を開始します」
一ノ瀬「ふふふ、ハードルを上げてくれるわね。いいでしょう、受け取ってちょうだい! 私の全身全霊、紫式部の魂を我が身に宿して書き上げた、最も正しく、最も悲しい『雲隠』の物語を!」
(一ノ瀬、咳払いを一つし、朗々とした声で朗読を始めた)
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雲隠
作:一ノ瀬 詩織
六条院の栄華を誇った彼の人の御殿にも、今は冬枯れの風が吹き抜け、庭の木々は寒々と枝を震わせている。かつては春夏秋冬の美を競った庭も、主の病に寄り添うかのように、その彩りを失っていた。
源氏の君、五十の賀を終えてより、目に見えて衰えが深まっていた。床に伏す日が増え、起き上がることさえ億劫な様子である。かつて宮中を歩けば誰もが振り返り、その光に目が眩んだとまで言われた光の君の面影は、今は薄絹を幾重にも重ねた向こうにあるかのように、朧であった。
彼はただ、静かに目を閉じていることが多い。その瞼の裏に映るのは、過ぎ去りし日々の幻影であろうか。帝の子として生まれながら、臣籍に下り、数多の恋に身を焦がし、須磨、明石へと流離の旅をし、そして準太上天皇という最高位にまで上り詰めた、目まぐるしい生涯。その一つひとつの光景が、走馬灯のように心を巡る。
けれど、彼の心を最も強く捉えて離さないのは、やはり紫の上であった。彼の理想の女として育て上げ、誰よりも深く愛した人。彼女を失ってより、源氏の君の心には、ぽっかりと大きな穴が空いたままなのだ。どんな栄華も、どんな慰めも、その虚ろを埋めることはできなかった。
「…紫の、君…」
無意識に、乾いた唇からその名が漏れる。それは、誰に聞かせるでもない、魂の呟きであった。
ある日の昼下がり、息子の夕霧が心配そうな面持ちで見舞いに訪れた。彼は今や右大臣として、朝廷の重責を担っている。父の衰弱ぶりを目の当たりにし、その眉間には深い憂いの色が刻まれていた。
「父上、お加減はいかがでございますか」
几帳のそばに座る夕霧に、源氏の君は薄く目を開けて応えた。
「……夕霧か。大儀であったな。見ての通り、もう永くはあるまいよ」
「そのような弱気なことをおっしゃらないでください。春になれば、きっとお元気になられます。桜の花を、また共に見とうございます」
「……春、か。今年の桜は、私には少し、眩しすぎるやもしれぬな」
源氏の君はそう言って、寂しげに微笑んだ。その笑みは、まるで冬の日に障子に差す、力ない陽光のようであった。夕霧は、父がもはや生の執着を失いかけていることを悟り、返す言葉も見つからなかった。父の心は、もはやこの世にはなく、遥か彼岸へと旅立とうとしているかのようであった。
またある時は、古くからの友である花散里が、そっと枕元に寄り添っていた。派手さはないが、誠実で心優しい彼女は、源氏の君にとって心の安らげる場所であった。
「……昔が、思い出されるな。お前とは、本当に長い付き合いになった」
「勿体ないお言葉にございます。殿のお側近くにお仕えできたことこそ、わたくしの誉れにございます」
「私がこの世を去ったとて、嘆き悲しむことはない。ただ、残される者たちのことを、お前だけが頼りだ。穏やかに、皆を見守ってやってはくれまいか」
それは、遺言とも取れる言葉であった。花散里は、袖で口元を覆い、嗚咽を必死に堪えた。この偉大な人が、今まさに、一つの時代の終わりを告げようとしている。その事実が、重く彼女の胸にのしかかった。
雪がちらつき始めた、凍えるような夜。明石の君が、娘である中宮や若宮の近況を知らせに参上した。彼女は源氏の君が須磨に流浪していた折に見初めた女性であり、その賢明さと思慮深さは、今も変わらない。
「中宮も、若宮も、健やかにお過ごしですよ。あなた様のお血筋は、これからも永く、この国を照らしてゆくことでしょう」
その言葉に、源氏の君は静かに首を横に振った。
「……私は、多くの罪を犯した。父帝を裏切り、多くの女性を涙させた。須磨での日々は、その報いであったのかもしれぬな。来世では、どのような報いを受けることか……」
彼は自嘲するように呟いた。その脳裏には、父帝の妃でありながら、許されぬ恋に落ちた藤壺の宮の面影がよぎっていたのかもしれない。明石の君は、彼の犯した罪の深さと、その懺悔の念に、ただ静かに耳を傾けるのみであった。源氏の君は、ふと、何かを思い出したように、か細い声で歌を詠んだ。
いにしへの 夢の通ひ路 跡絶えて 雪に惑へる わが身なりけり
(かつて夢中で通った恋の道も、今では跡形もなく消え果てて、ただ降り積もる雪の中に迷っているような、そんな我が身であることよ)
それは、彼の生涯の悔恨と諦観を込めた、辞世の句であった。
その夜半過ぎ、人々が寝静まった頃。六条院の空から、牡丹雪がはらはらと舞い落ちていた。薬湯を飲んだ後、源氏の君はうつらうつらと浅い眠りについていたが、ふと何かの気配を感じて、ゆっくりと目を開けた。
枕元に、誰かが立っている。
雪明かりに照らされたその姿は、紛れもなく、彼が焦がれてやまなかった紫の上であった。在りし日のままの、優しく、美しい微笑みを浮かべている。
「…紫の、君…」
声は、出なかった。ただ、涙がとめどなく頬を伝う。幻か、夢か。どちらでもよかった。再びその姿を見ることができたのなら。
紫の上が、そっと白い手を差し伸べる。
『さあ、こちらへ。あなた様』
その声は、春の風のように暖かく、彼の心を溶かしていく。そうだ、もういいのだ。苦しみも、悲しみも、罪も、もうすべてを終わらせていいのだ。彼女のいる場所へ、自分も行けるのだ。
源氏の君は、安らかな、満ち足りた表情を浮かべた。まるで幼子が母の腕に抱かれるように、彼はその白い手に、自らの手を伸ばそうとした。
それが、彼の最後の姿であった。
翌朝、侍女たちが部屋を訪れた時、源氏の君は眠るように息を引き取っていた。その表情は穏やかで、まるで美しい夢の続きを見ているかのようであったという。
空に輝いていた光の君は、まるで冬の夜空に雲隠れする月のように、その光を静かにこの世から消し去ったのである。
訃報はたちまち都を駆け巡り、帝をはじめ、朝廷の誰もがその早すぎる死を嘆き悲しんだ。六条院は、深い悲しみの底に沈んだ。夕霧は父の亡骸を前に、涙ながらに歌を詠んだ。
冬の夜の 月に隠ろひし 光ありて 春をいかでか 我は待たまし
(冬の夜空の月に隠れてしまわれた偉大な光(父上)。この光なくして、どうして私に春を待つことなどできようか、いや、できはしない)
一つの時代が終わった。
されど、物語は終わらない。光の君の遺した血と想いは、また新たな世代へと受け継がれてゆくのである。
***
(一ノ瀬、朗読を終え、感極まった様子で原稿を閉じる。目にはうっすらと涙が光っている)
一ノ瀬「……どう、かしら…? 光源氏の、静かなる最期……。紫式部の魂、この身に降りてきたと思わない!?」
(自信満々に部員たちを見回す一ノ瀬。しかし、三人の反応は、どこか微妙なものだった)
四方田「う、うーん……文章はすっごく綺麗で、雅な感じは伝わってきたんですけど……なんていうか……その……地味、じゃないですか?」
一ノ瀬「じ、地味ですって!?」
四方田「はい……。だって、結局ただの病死ですよね? せっかくの最期なら、もっとこう、誰かに看取られながらドラマチックに! とか、実は毒を盛られてて最後の力を振り絞ってダイイングメッセージを! とか、そういうのが欲しかったなー、なんて……。萌えが、こう、足りないというか……」
三田村「……部長に確認ですが、この作品において、量子的なゆらぎや高次元生命体の介入は、最終的に一切観測されませんでした。あくまで、巨視的物理学の範囲内における、不可逆的な生命活動の停止、と解釈してよろしいですね?」
一ノ瀬「ぶ、物理現象!? 私の悲劇をそんな風に…!」
二階堂「一番の問題は、ミステリーとしての視点が皆無なことですよ、部長」
一ノ瀬「み、ミステリー!?」
二階堂「ええ。死因が曖昧すぎる。病死? それにしては、どんな病なのか、具体的な描写が観念的すぎて全くわからない。仮に毒殺だとしたら? 光源氏の死によって利益を得る人物、あるいは彼に恨みを抱く人物は、作中にいくらでもいるはずです。その動機やアリバイの線が、一切掘られていない。これは、ミステリーとしては完全に落第です」
一ノ瀬「ら、落第ぃぃぃぃぃ!? わ、私の渾身の『雲隠』が……地味で、物理現象で、ミステリーとして落第ですってぇぇぇぇ!?」
(がっくりと膝から崩れ落ちる一ノ瀬。そんな彼女に、二階堂は不敵な笑みを浮かべた)
二階堂「まあ、見ていてください。次は、私の番です。本当の『死の謎』とは何か……お見せしますよ」