走れメロス(作:一ノ瀬 詩織)
日付:20XX年某月某日
場所:文芸部部室
議題:『走れメロス・リアリティショック・チャレンジ』発表会
出席者:一ノ瀬詩織(部長)、二階堂玲(副部長)、三田村宙、四方田萌
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一ノ瀬「さあ、皆の者! 約束の一週間後、ついにこの日が来たわ! それぞれが、太宰治の魂に挑み、メロスの走りに新たなる『理』を与えたことでしょう。光栄あるトップバッターは、この私、部長の一ノ瀬詩織が務めさせていただきます!」
(一ノ瀬、恭しく原稿を胸に抱き、すっくと立ち上がる)
四方田「待ってました! 部長の『走れメロス』! 絶対、感動巨編になってるに違いないです!」
二階堂「……お手並み拝見と行きましょうか。あの絶望的な状況を、どれだけ『合理的』に解決できたのか、楽しみですよ」
三田村「……仮説の提示を、待機します」
一ノ瀬「ふふふ、期待してくれていいわ。私が描いたのは、奇跡ではない。人が人を信じる時に生まれる、必然の力よ! 受け取りなさい! 私の解釈する、最も気高く、最も美しい『走れメロス』の物語を!」
(一ノ瀬、咳払いを一つし、朗々とした声で朗読を始めた)
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走れメロス
作:一ノ瀬 詩織
目が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。メロスは跳ね起き、寝具を畳み、それから、これから花婿になる若い牧人たちのところへ行き、祝いの言葉を述べた。
「今日の佳き日は、私にとっても生涯忘れられぬ日となるでしょう。どうか、私の可愛い妹を、末永くよろしくお願いいたします。私は、これから王城へ行かなければなりませぬ。夜が明ける前には、必ず、必ず帰ってまいります」
そう言い置いて、メロスは牧人たちの返事も聞かず、家を飛び出した。若い牧人は、ただ唖然として、そのたくましい背中を見送るばかりであった。
故郷の村を出て、メロスは野を横切り、森を抜け、ひた走りに走った。朝日が、東の山の端からその金の光線を投げかけ始めた頃には、メロスは既に路程の半ばを過ぎていた。その胸に去来するのは、ただ一つの想い。日没までに、王城へ。あの暴虐非道の王に、信実の尊さを、人間の誇りを、身をもって示してやるのだ。そして何より、あの、たった一人の無二の親友、石工のセリヌンティウスを、己の身代わりとなって死なせるわけにはいかぬ。
「セリヌンティウス……! 待っていてくれ。私は、お前を疑わなかった。お前もまた、私を疑ってはいないはずだ。その信頼に、私は必ず応える!」
独りごち、己を鼓舞し、メロスは走った。その頬を、汗とも涙ともつかぬ熱いものが流れ落ちていた。
路程の半ばを走り抜いた頃であろうか。メロスの行く手を、一つの絶望的な光景が阻んだ。昨夜、山を襲った豪雨のせいで、濁流が川の堤を乗り越え、どうどうと渦を巻きながら、なにもかもを押し流していた。普段ならば、膝まで浸かる程度の、穏やかなせせらぎに過ぎぬというのに。橋は、跡形もなく流されていた。
「ああ、神よ!」
メロスは、天を仰いで絶叫した。泳いで渡ることは、到底できそうにない。岸辺の木々に掴まり、流れの弱まるのを待っていては、日没までに間に合うはずもなかった。迂回するには、半日を要するであろう。万事休すか。メロスは、わなわなと震える拳を握りしめ、その場に膝から崩れ落ちそうになった。
その時であった。
「……おじさん、どうしたの?」
か細い、子どもの声がした。振り返ると、粗末な身なりの、十歳になるかならぬかの少年が、不思議そうにこちらを見上げている。その手には、粗末な釣竿が握られていた。
「坊主か。見ての通りだ。この川を渡らねばならぬのに、この有様だ。私には、日没までに果たさねばならぬ、命を懸けた約束があるのだ」
少年の瞳が、大きく見開かれた。
「命を懸けた、約束……?」
「そうだ。友が、私の代わりに、死刑台の上で待っている。私が戻らねば、友は死ぬ」
メロスの言葉には、もはや何の飾りもなかった。ただ、事実だけを、魂を振り絞るようにして告げた。少年は、何かを理解したようにこくりと頷くと、くるりと踵を返し、岸辺の坂を駆け上がっていった。
「おい、どこへ行く!」
メロスの制止も聞かず、少年は走り去り、やがて坂の向こうに見えなくなった。裏切られた、とメロスは思った。子どもの気まぐれに、最後の望みを託そうとした自分が愚かだったのだ。
だが、半刻と経たぬうちに、少年は息を切らせて戻ってきた。その背後には、日に焼けた、岩のようにたくましい腕をした、中年の男がついて来ていた。
「父ちゃん! この人だよ!」
男は、渡し守であった。彼は、濁流を一瞥し、それからメロスの絶望に満ちた顔を見て、ゆっくりと首を横に振った。
「……無茶だ。この流れでは、俺の腕でも舟は出せねえ。あんたの気持ちはわかるが、命あっての物種だ。諦めな」
「いや、諦められぬ! 私の命は、もはや私の命ではないのだ! 友に捧げた命なのだ! 頼む、どうか、この通りだ!」
メロスは、その場に額をこすりつけ、渡し守に懇願した。その目からは、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちていた。
「……父ちゃん」
少年が、渡し守の袖を、くいと引いた。
「この人、嘘を言ってる目じゃないよ。本当なんだよ。友達のために、死ぬって言ってるんだ」
渡し守は、黙っていた。彼は、じっとメロスの背中を見つめ、それから、天を仰ぎ、濁流を見つめた。やがて、彼は、意を決したように、重々しく口を開いた。
「……分かった。舟を出そう。ただし、保証はできねえ。途中で転覆し、二人して魚の餌になるやもしれん。それでも、いいんだな?」
「ああ、構わぬ! 恩に着る!」
メロスは、渡し守の手を取り、何度も頭を下げた。渡し守は、頑丈な樫の木で作られた小舟を、二人で岸辺まで引きずり出すと、メロスを乗せ、一本の長い竿だけを頼りに、渦巻く濁流へと乗り出した。舟は、木の葉のように揺れ、何度も濁流に呑まれそうになった。だが、渡し守の神業のような竿さばきと、メロスの必死の祈りが通じたか、半刻ほどの死闘の末、舟は奇跡的に対岸へとたどり着いたのである。
「……ありがとう。このご恩は、生涯忘れぬ」
「礼なんぞいらねえ。早く行きな。お前の友達とやらが、待ってるんだろう」
渡し守は、ぶっきらぼうにそう言うと、再び濁流の中へと舟を返していった。メロスは、その背中に向かって、深々と頭を下げると、再び王城目指して走り出した。時間を、ひどく浪費してしまった。だが、その心には、先ほどまでの絶望とは違う、温かな光が灯っていた。
日は、既に中天に差し掛かっていた。メロスは、山道に差し掛かり、ただひたすら、無我夢中で足を前に進めていた。疲労は、極限に達していた。喉は渇き、心臓は張り裂けそうであった。
その時である。道の脇の薄暗い林の中から、数人の男たちが躍り出て、メロスの行く手を塞いだ。山賊であった。
「待て。身ぐるみを置いていけ」
頭目と思われる、顔に古い刀傷のある男が、低い声で言った。
メロスは、立ち止まった。もはや、彼らに抵抗する力も残ってはいなかった。
「……生憎だが、私には金目のものなど何もない。この、ぼろきれ一枚だけだ。だが、この命だけは、日没まではやれぬ。友との約束がある」
メロスは、静かに、しかし、きっぱりと言い放った。
山賊たちは、顔を見合わせて、下卑た笑いを浮かべた。
「命乞いか。見苦しいぞ」
「いや、命乞いではない。事実を言っているまでだ。私を殺したくば、殺すがいい。だが、日没を過ぎてからにしてくれ。それまでは、私の命は、友のものなのだ」
頭目は、そのメロスの、あまりにも真っ直ぐな瞳を見て、少し眉をひそめた。
「……友、だと? 馬鹿馬鹿しい。人が人を信じるなど、ただの綺麗事だ。裏切られ、奪われるのが、この世の常よ」
「そうかもしれぬ。だが、私は信じる。そして、友も私を信じている。その信頼こそが、私を今、ここに立たせているのだ。道を開けてくれ。頼む」
メロスは、再び頭を下げた。その姿には、一点の曇りもなかった。
頭目は、しばらくの間、腕を組み、黙ってメロスを睨みつけていた。彼は、長年、人を殺め、奪い、裏切りの世界で生きてきた男であった。だが、目の前の男が放つ、その愚直なまでの「信」の光は、彼の、凍てついた心の奥底にある何かを、ちりりと揺さぶった。
「……面白い。その約束とやら、果たせるかどうか、この目で見たくなった」
頭目は、不意にそう呟くと、部下たちに顎をしゃくった。
「行かせてやれ。こいつからは、何も奪うな」
「頭、よろしいんですかい?」
「いいから、行けと言っている」
部下たちは、不満げに道を開けた。メロスは、信じられぬという顔で、頭目を見つめた。
「……なぜ」
「気まぐれだ。だが、一つだけ教えてやる。この先、道が二つに分かれている。右に行け。獣道だが、半刻は時間を稼げるだろう。それから、これを持っていけ」
頭目は、腰に下げていた、水の入った革袋を、メロスに向かって放り投げた。
「……感謝する」
メロスは、それだけ言うと、革袋を掴み、再び走り出した。その背中に、もう山賊たちの嘲笑はなかった。
日は、大きく西に傾き、メロスの影を長く地上に伸ばしていた。疲労は、もはや痛みとなって、全身の骨の髄までを蝕んでいた。革袋の水は、とうの昔に尽きている。幻覚が見え始めた。道端の草が、毒蛇に見える。風の音が、王の嘲笑に聞こえる。
ああ、もう駄目だ。間に合わぬ。私は、友を裏切るのか。あの、渡し守の善意を、山賊の情けを、無にするのか。私は、やはり、ただの嘘つきだったのか。
メロスは、ついに、道端の草むらに、ばたりと倒れた。指一本、動かす気力も湧いてこない。意識が、遠のいていく。
その、朦朧とした意識の片隅に、ふと、親友セリヌンティウスの顔が浮かんだ。彼は、きっと、刑場で、静かに、澄んだ瞳で、西の空を見つめているだろう。メロスが帰ってくることを、微塵も疑わずに。
『メロス、お前なら必ず来る。私は知っている』
友の声が、はっきりと聞こえた気がした。
その瞬間、メロスの全身に、電撃のような力が走った。
「……そうだ。私は、何をしていたのだ。私が、彼を信じなくて、どうするのだ!」
自分は、友に信じられている。その事実が、枯れ果てたはずのメロスの心に、最後の炎を灯した。彼は、呻き声を上げながら、泥のついた両腕で、地面を押し、よろよろと立ち上がった。足は、鉛のように重い。だが、彼は、再び、一歩を踏み出した。そして、また一歩。
走る、というよりは、もはや、魂が肉体を引きずっている、という方が近かった。だが、その歩みは、決して止まらなかった。
やがて、陽は完全に地平線の向こうに没し、あたりは急激に暗くなっていった。シラクスの市の灯りが、遥か前方にかすかに見える。間に合わなかった。
絶望が、再びメロスの心を覆い尽くそうとした、その時。彼は、市の城壁の上に、一つの、巨大な炎が燃え盛っているのを見た。それは、日没を知らせる、合図の狼煙であった。
「……まだだ。まだ、陽は、沈んでいない……!」
王の定めた日没とは、太陽が完全に姿を消す瞬間ではない。あの、狼煙が消えるまでだ。メロスは、最後の力を振り絞り、市の門へと駆け込んだ。
刑場は、広場の中央にあった。黒山の人だかりが、固唾を飲んで、処刑台を見守っている。親友セリヌンティウスが、まさに、磔にされようとしていた。
メロスは、人垣をかき分け、かき分け、叫んだ。もはや、声とは呼べぬ、かすれた、獣の咆哮のような声で。
「待て。その人を殺してはならぬ。メロスが帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た」
***
(一ノ瀬、朗読を終え、感極まった様子で原稿を閉じる。その目には、達成感と感動の涙が光っている)
一ノ瀬「……どう、かしら……? メロスの不屈の精神と、彼を信じた人々の善意が繋いだ、奇跡の物語……。これこそが、『走れメロス』の真髄だと思うの!」
(自信満々に部員たちを見回す一ノ瀬。しかし、三人の反応は、どこか微妙なものだった)
四方田「う、うーん……。すごく、いい話だとは思うんですけど……。なんていうか……その……真面目すぎません?」
一ノ瀬「ま、真面目ですって!?」
四方田「はい……。渡し守のおじさんも、山賊の頭も、なんか『いい話』にするための、都合のいい人たち、みたいに感じちゃいました。もっとこう、メロスとセリヌンティウス、二人の関係性にもっとギュンとくる描写が欲しかったなー、なんて……」
三田村「……善意では、乳酸の生成は抑制できません。渡し守との対話、渡河、山賊との遭遇に要したロスタイムを計算に入れると、メロスの要求巡航速度は、時速二十キロメートルを超えます。一般成人男性の体力を考慮すると、この計画の成功確率は、依然として8.7%を下回る。論理的解決には至っていません」
一ノ瀬「ろ、論理!? 私の感動巨編を、そんな数字で……!」
二階堂「一番の問題は、リアリティラインが中途半端なことよ、部長」
一ノ瀬「なっ……!?」
二階堂「あなたは、メロスの走りに『リアリティ』を持たせるために、善意の第三者を登場させた。でも、その第三者の行動原理に、リアリティが欠けているわ。長年、非情な稼業で生きてきた山賊の頭が、旅人の綺麗事一つで、そこまで簡単に心変わりするでしょうか? 私なら、何か裏があると疑います。例えば、王がメロスを試すために、密かに手を回していた、とかね。あなたの物語は、ご都合主義の連鎖で奇跡を説明しているだけ。ミステリーとしては、完全に失格よ」
一ノ瀬「し、失格ぅぅぅぅぅ!? わ、私の、この血と汗と涙の結晶が……! ご都合主義の、失格作品ですってぇぇぇぇぇ!?」
(がっくりと両膝から崩れ落ちる一ノ瀬。その背中は、夕陽に照らされるメロスのように、悲壮感が漂っていた)




