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死滅回遊魚

作者: ぺ子

 薄暗い照明の下で目が覚める。視線だけ動かすと白いカーテンから外の光が漏れていた。朝の始まりを知らせるスズメの声、不思議と今日は肌寒さを感じなかった。ハンガーに掛けられた制服は皺一つない。ベッドから起き上がって軽く背伸びをした。顔を洗い着替える、制服のリボンが今日はなかなか真っ直ぐにならない。マフラーと手袋を身に着けて部屋を出る。扉越しにキッチンを覗けばお母さんとお父さん、弟の祐介が朝食を食べていた。もちろん、私の分はない。いってきます、なんて朝の挨拶を掛けることもなく私は黒の革靴を履いて家を出た。


 いつからか、朝ご飯を食べなくなった。いつからか、いってきますの言葉も出なくなった。そしてお母さんは私の朝食を用意しなくなった。初めの頃は「いってらっしゃいは?」と声を掛けてきたのに、今はもう何も言われなくなった。私の朝はこうして誰とも会わず、誰とも会話せず、誰にも気づかれずに始まる。

 家族とでさえ接触するのが苦痛だった。学校で起きた出来事、日常、なんでいちいち報告しなくちゃいけないのか。干渉されている気分がして嫌だった。でも上手く言いたいことが言えない自分はもっと嫌いだ。嫌なら嫌と言えばいい、なのに言えない。無理をしているわけじゃなくて、ただ単に言葉が出てこない。そのせいで人間関係も土台すら築けなかった。表情で伝えようと努力すれば八方美人だと言われて、無表情でいれば怒っていると勘違いされた。言葉は人と触れ合う、交流する上で重要なものだとあらためて実感した。私はそのたった一つの術を持っていない。そうじゃない、私は今…失いかけている。だんだんと怖くなった…人と会話することが。話せば話すほど自分をダメにするような気がして。


 教室に入ると自分の席に花瓶が置かれていた。仏花だけれど生き生きしている。ガラス花瓶に施された彫刻もまた綺麗だった。これは何かの儀式のつもりなのか、私は花瓶を下に置き席に座った。一連の動作をしても教室にいる人間、誰一人私を見ようとはしなかった。それが当たり前で私にとっても丁度よかった。監視されないことが唯一の救いでもあった。中途半端に接触してズタズタにされるより、私の存在を無くしてもらった方がよっぽどマシだ。机を教室の外に出され、教科書の文が見えなくなるほど落書きされ、陰口をひたすら囁かれる…そんな儀式と比べたら優しいものだから。


 先生が生徒の名前を一人一人読み上げてゆく。私の名前を呼ぶと先生は私が返事をする前に次の人の名前を呼ぶ。返事をしていないわけではない、私の声が先生の耳に届いていないだけだ。けれど、先生は私の声を聞かないまま次の人を見る。私は教室に存在しているようで、存在していなかった。授業の終わりのチャイムが鳴っても私は席を立たない。立ってどこかへ行こうとしても向かう先がないから。次の授業が始まるほんの数分の間でも、一言も発せず机の真ん中を見つめる。嫌でも耳に入ってくる会話、雑音…どれも私には無関係な音。目線を上げて時計を見れば、もうすぐチャイムが鳴る時間だった。


 時計の秒針が進むにつれて、窓の外から暖かい光が入ってきた。隣の席の子が眩しさに耐えられなかったのか、カーテンを閉めてしまった。私はこの生温く暖かい日差しが好きだ。ノートにできた自分の手の影、私はそれを見るたび自分の存在を再確認した。私はここにいる、自分で自分を納得させた。


 さようなら…一日の最後の言葉なのに、私を含めた生徒のほとんどが挨拶を交わさず教室を出て行く。友達と並びお喋りをしながら階段を上り下りする光景。賑やかで明るい声がいろんな場所から聞こえてくる。昇降口に着いて私は靴を履き替えた。私の上の下駄箱が開く。私の隣で靴を履き替えるその子は一人だった。そしてそこには私とその子しかいない。生唾を飲み込む音が聞こえないか心配だった。緊張して手袋の下にある手のひらからたくさん汗が滲み出ている。喉が一気に渇く、それでもこの言葉を口から出してしまいたかった。


ばいばい。


 やっと奥から吐き出た四文字の言葉…だけどその子は私に背中を向けたまま行ってしまった。振り返りもせず行ってしまった。聞こえなかったんじゃない、きっと聞こえていた。ただ、言葉が返って来なかっただけ。期待をもってしまった自分自身を呪いたくなった。最初から期待なんかするんじゃなかった。そんな風に思うからまた勝手に自分で傷つくんだから。


「ねぇ、死んだふり上手いね」、もう名前も覚えていない女の子に言われた。クラスメイトに違いないけれど、既に名前は忘れていた。なのに、その言葉も彼女の表情も生々しく私の頭に残っていた。思えば、それが私にとってこの学校で聞いた最後の言葉だった。最後に話し掛けられた言葉は私のすべてを消すものだった。私は死んでない、死んだふりなんかしてない、一度だってしたことなんかない。私をそうさせたのは…、誰かのせいにするのが惨めで私はそこで言葉を失い、考えることを放棄した。蔑むような目で見られてもちっとも嬉しくなんかない。そんな目で見られるくらいなら、見えなくていい。私を無視してくれてもいい。下駄箱に書かれた自分の名前を指でなぞった。そして今日も誰にも気づかれずに学校を終える。



 ただいま、心の中で呟いた。マフラーと手袋を外して階段を上る。ベッドの上に重い鞄を置いて制服に手をかける。その前に鞄から昨日持ち帰り忘れた体操服を取り出して、一階の脱衣所に持って行く。階段を下りる途中、普段はあまり使わない和室の扉が開いていた。祐介の頭が見える。祐介は黒い学ラン姿のまま立っている。いつ帰って来たんだろう。私は無意識のうちに音をなるべく立てないように足を動かした。祐介の背中、中学生なのに大きかった。ついこの前まで私より小さかったのに、見た限りだと私より身長が伸びていた。気づかないうちにどんどん成長する。私の成長期はもう終わった。高校に入って初めてやった身体測定が懐かしい。

 祐介…心の中で呟いた後、喉の前まで運んだ言葉。祐介の名前も口に出すことが減った。こうして私は名前や言葉の発し方を失くしていく。先生、友人、家族でさえ。祐介、背が大きくなったね、祐介、部活のレギュラーになれたの、祐介…。


「姉ちゃん、俺今度の大会に出るんだ。すげーだろ?」


私の心の声が聞こえたのか、それとも口から言葉が出てしまったのか、祐介が私に言った。でも、私の前にいる祐介は私に背を向けたままだ。祐介の声は私の空耳なのかもしれない。祐介は私が喋れないのが分かっているかのように、私を気にせず一人で話し出した。


「俺さ、この前身長測ったら15センチも伸びててさ。もう姉ちゃんより大きいんだよ。野球だって球拾いから卒業してたくさん打たせてもらってるしさ。あ、でもこの前赤点とって母さんに怒られてさ。姉ちゃんみたいに勉強ができれば俺も…あー、母さんも父さんも姉ちゃんの話ばっかりするんだぜ?それに比べて俺は」


違うよ祐介。私は全然駄目なんだよ。自分の気持ちも、祐介の名前すら言えないんだから。私は逃げてばっかり。嫌なことも困難なことにもぶつかっていく祐介が羨ましい。傷つくのが怖くて逃げてばかりの私と祐介は全然違う。

 俯いた祐介の肩が震えていた。大きな背中がだんだんと小さくなる。昔の祐介を思い出していた。祐介はいつも誰にも見られない、誰もいない場所を見つけて声を押し殺して泣いていた。私はそんな祐介を見つけては後ろからわざとらしく話し掛けた。一人で泣いたりしないで、寂しくなるから…幼いながらもそう思いながら祐介の傍にいたことがあった。


 言葉が出ない代わりに汗が滲む手を背中に向けて伸ばした。どうしたの、泣かないで…今すぐ背中を擦ってあげたかった。

「祐介、何してるの」

私の横を通り過ぎてお母さんが祐介を呼んだ。

「泣いてるの?泣き虫ね祐介は」

お母さんは祐介の顔を覗き見する。けれど祐介は顔を背けた。お母さんの顔がどんどん変化していく、眉の間に皺をつくって目を細くした。そして震え出した唇を必死に手で覆い隠していた。身震いしたままお母さんは畳の上に両膝をついた。


 駆け足で部屋の中に入ると全身の力が抜けた。二人の前にあるのは私、私の写真。白くまとめられたその場所に私の写真と花、お線香からは薄い煙が外へ流れている。

「裕子、裕子…」

なにお母さん、返事をしたのに届いていない。お母さんも祐介も泣いている。私の顔も見ずに泣いている。二人の見えないところで私は何度も名前を呼んだ。なのに、何一つ届いていない。伸ばした手は空気を裂くだけで二人に触れない。


 ああ、死んだんだ。私は死んだ。今まで気づかずに今日を終えるところだった。いつから気づいてなかったんだろう。この遺影は、遺骨はいつからあるんだろう。疑問ばかり浮かんで悲しみなんて微塵も出てこなかった。涙ももちろん出てこない。涙腺の蛇口が固く閉じられたように一滴も出てこない。それは私が死んだせいなのかもしれない。自分が死んだことに気づかないなんて、とことん自分は馬鹿だと思った。死んで正解だ。


「裕子、朝ご飯はちゃんと食べなきゃ。あと、帰ってきたらちゃんとただいまって言うのよ」

ただいまお母さん。

「学校で何か嫌なことがあったの?お母さんに言ってよかったのに」

言えないよお母さん。お母さんを困らせたくないから。

「どうして…どうして死んじゃったの」

ごめんねお母さん。


 泣かないでよ、死んだ私のことなんて話さなくていいから。私がいないところで話したりしないで。どうして、なんで私が生きてる時に言ってくれなかったの。死にたくなんてなかったよ。死んでからじゃ遅いんだよ。私は死んだの、今謝っても意味ないんだよ。



 部屋に戻って制服のまま横になった。今日の朝に戻る…私は心の中で祈った。神様、お願いだから今度生まれ変わるときは人間にしないで、もうこんな思いしたくないから。生まれ変わらなくてもいい。そんな祈りを捧げていても、お母さんや祐介のことが気になって仕方がなかった。あの二人はこれからもずっとああして私がいないところで泣き続けるのか。でも、そんな二人に掛ける言葉が出せない私は何もできない。


「ばいばい」

渇いた唇が僅かに震え私は誰にも気づかれないまま最後の言葉を言った。


 朝日は知らしめる、「私がいない」ということを。影が消えもう朝が始まる。私の存在しない今日が始まる。

どこかで誰かが死んでも世界は変わらない。

でも、誰かが死ぬことによって世界のどこかで悲しむ人がいる。

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