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三.ギルド・前編─ステキな出会い

 二〇二一年三月二十日 土曜日 午前九時十四分


 冷たい水が少年の顔を打つ。

 洗面台に両手をついたまま、彼は静かに息を吐いた。黒いタンクトップの下にあるのは、長い鍛錬の末に作り上げた引き締まった筋肉。腕も、肩も、かつての華奢なものではない。しかし、顔はどうだろうか。

 伸ばした指先が水滴の伝う頬をなぞる。骨の形、目の色、口元の歪み__鏡に映るのは、あの頃と寸分違わぬ十七歳の顔だった。鏡に映る自分を、まるで仇のように睨みつけた。


「ツバキ君! 荷物は転移魔法で先に送っておいたぞ!」


 朝の静寂に突如響く育て親であり師匠の声。

 扉越しの大声にハッとして振り返る。


「は、はい! ありがとうございます!」


 こちらもまた大きな返事で感謝を伝え、何事もなかったかのように、今日から始まる新生活に向けて身支度を急ぐのであった。


 ツバキ・ソウタは、この世界でただひたすら強くなるために生きてきた。

 師匠トルモのもとで修行に明け暮れること、約十七年。気がつけば、かつての自分とほとんど同じ年齢になっていた。

「もうそんな歳か」とトルモは笑いながら、それでも当然のように修行を続けようとした。だが、その日だけは違った。ツバキは拳を握りしめ、ずっと胸に秘めていた想いを、ついに口にしたのだ。


「トルモさん。俺……学校に行きたいです」


 師の手が止まる。いつもなら厳しく鍛錬を課してくるはずの男が、珍しく沈黙した。ツバキはその顔を見つめながら、腹の奥が妙に落ち着かないのを感じていた。

 こうして修行は一旦中断され、トルモは弟子のために学校を探し回ることになった。だが、義務教育すら受けていない少年を受け入れる場所など、そう簡単に見つかるはずもない。結局、頼れるのは知人が理事長を務める魔法学校だけだった。


「アパートに着いたら連絡頼むぞ」

「はい。それじゃあ行ってきます」


 これから通う学校の近所に引っ越すこととなり、今日がその引越し当日である。

 トルモに一旦の別れを告げて颯爽と家を飛び出した。


 何年ぶりに外の景色をまともに見ただろうか。冷たい風が頬を撫でるように吹き抜ける。

 この家が建つ山は、年中吹雪に見舞われる。高い標高ゆえに空気は薄く、窓からの景色はいつも霧のようにぼやけていた。雪の壁の向こうに何があるのか、ツバキは考えたことすらなかった。

 斜面は急で、一歩踏み外せば、白銀の底なしに沈んでいくようだった。何の目印もなく、ただ冷たさだけがどこまでも続く世界。その山を、ツバキはたった一度の跳躍で飛び降りた。


 空気が変わる。今までまとわりついていた冷気が薄れ、下から吹き上げる風が身体を包んだ。

 標高が一気に下がり、いつぶりかの朝日がツバキの視界へ差し込む。懐かしい眩しさに目を細めながら、ツバキは初めてこの山の外へ降り立った。


「すぅー……はぁ……」


 冷えた空気が喉を通り、肺を満たす。

 高山の薄い空気に慣れきった身体にとって、ここは天国のようだった。酸素が濃い。それだけで全身の細胞が活性化していくのが感じられた。

 ツバキは目を閉じ、胸いっぱいに空気を吸い込んだ後、ゆっくりと吐き出した。


「っし。行くか」


 目的の方角を見据え、一歩を踏み出す。

 最初はただの歩み。しかし、数歩のうちにその速度は跳ね上がった。風が頬を叩く。地面を蹴るたびに景色が流れ、普通なら何時間もかかるような距離が、一瞬のうちに消費されていく。

 草原の中を駆け抜ける影。乗用車など比にならないそれ以上の速度。もし誰かが見ていれば、風に紛れた残像を捉えることすらできなかっただろう。

 道中に見つけたアスファルトに沿って進むと、ツバキは視界を覆い尽くす巨大な壁に阻まれ、足を止めた。


「すんごい圧だぁ……」


 思わず言葉が口をついて出た。巨大な壁に圧倒されて、ツバキはその場に立ち尽くした。

 目の前にそびえ立つのは、石のような硬質の壁。どこまでも続くその表面は無機質で、まるで天を裂くかのように空へと伸びている。その上空、壁の高さすら超えてなおそびえ立つ高層ビル群が、都市の規模を物語っていた。


 ここがカレストロ__これから自分が暮らす場所。


 事前に調べた情報では、面積は約二百平方キロメートル。日本の大阪市よりもやや小さい。しかし、その全てが壁で囲われているという点に、異様さが際立つ。単なる都市ではなく、もはや要塞だ。数字で見たときよりもはるかに巨大で、閉鎖的で、そして……どこか不気味ですらあった。

 入口には屈強な警備員が立ち並び、鋭い視線をこちらに向けていた。ツバキは懐から書類を取り出し、無言で差し出す。


「……通れ」


 無骨な指示とともに、重々しいゲートが開く。

 ツバキはそのまま軍の駐屯地を横切り、敷地の外へ抜けた。


 __そして、目の前に広がったのは、見慣れた景色だった。

 ビル群、百貨店、四車線道路。信号機、横断歩道、人々の喧騒。どこかで見たことのあるはずの光景。十七年もの間、虚空で過ごしてきたツバキにとって、それは記憶の奥底に沈んでいた懐かしさそのものだった。

 行き交う車の流れを見つめながら、静かに胸の奥が波打ち始める。


「えーっと」


 スマホの地図を頼りに、ツバキは慎重に歩を進める。

 初めて訪れる土地。せっかくならじっくり見て回ろうと、徒歩で移動することにした。しかし、画面と目の前の風景を照らし合わせるたび、その情報量に圧倒された。

 電光掲示板が矢継ぎ早に流す広告や、スマホを片手に忙しなく歩く人々。

 目まぐるしく変わる景色に、ここが魔法のあるファンタジーな世界観である事を忘れてしまいそうになる。


『本日早朝、イイナミ市周辺で巨大な龍が目撃されたとの情報が入りました』


 偶然、通り過ぎた家電量販店に置かれたテレビから、朝のニュースが流れる。ツバキは街の風景に夢中で、特に気にする事なく先をいった。


 道を進むこと約二時間。

 ビル群は徐々に低くなり、街の喧騒も幾分和らいできた。住宅街らしい落ち着いた空気が漂う。歩道沿いには低層のマンションや一軒家が並び、公園の緑が視界に広がる。

 マップの現在地点から目的地への線がいよいよ短くなってきた。その時だった。


「おお、良い筋肉してるねぇ。もしかしてあんたが依頼受けてくれたっちゅうにいちゃんか」

「え?」


 不意に声をかけられたツバキは、思わず自分を指さして首を傾げた。

 住宅街に並ぶ一軒家の前で、どっしりとしゃがみ込んでいたタンクトップの老人が、まるで知り合いかのように声をかけてきたのだ。


「ほら、亡くなった弟のゴミ部屋片付けてって依頼したやろ?」

「お爺さん。俺そういう業者の人じゃあ__」

「ええからええから上がって」


 完全に人違いをしている老人に戸惑った。間違いを告げて去ることもできたが、


「あ__。まあ、いっか!」


 ツバキは特に急いでいるわけでもなかったことや、片付けぐらいならやってみようと、老人に言われるがままに部屋に上がった。

 弟のゴミ部屋と言っていた通り、昭和の家庭を思わせるフローリングの床や古びたテーブルの上に、新聞紙やプラスチックなどのゴミが散乱していた。

 ひとまず部屋に落ちていたビニール袋に細かなゴミを入れていく。近くで本の整理をしていた老人がふとこちらを見て、


「そういや兄ちゃん、今日一人で来てるみたいやけどタンスとか冷蔵庫とかどないするんや」

「家具も持って行くんですか?」

「そうや」

「そっかぁ。……しまったな」


 片付けの詳細について知ったツバキは自分の浅はかさを反省。

 家具も処理するとなれば、もはや引越し作業のようなものであった。流石にトラックなどの運搬車がないと運べそうにない。そもそもどこに運ぶかも知らないのである。

 ともかく、本来の依頼先がくる前に、ホコリを払うなり、できる範囲で掃除をしよう。そう思った矢先、外からエンジン音が響いた。

 それは丁度この家の前で止まったようで、インターホンが鳴った。


「清掃の依頼を受けて参りました。ギルドカレストロ支店のエルリオです!」

「あれぇ、君らギルドの人か。一人先来てやってくれとるで」

「え?」


 エルリオと名乗った男が、訝しげに眉を寄せる。ツバキより少し背の高い肩に茶髪を垂らし、引越し業者のような制服を着込んでいる。

 老人の肩越しに部屋を覗き込んだ彼の目が、引き戸の隙間から覗くツバキの目と交差する。

 一瞬の沈黙が流れた。

 互いに知らない表情を浮かべたまま、時間が止まったように見つめ合った。


「こんにちは。俺、ただの通りすがりなんですけど、頼まれたんで掃除してます。家具も運ぶんですよね。最後まで手伝いますよ」

「おや、いいのかい?」

「中途半端に帰るわけにもいかないんで」

「うーん。それじゃあ、お言葉に甘えますか。俺はエルリオ。よろしく」


 エルリオはにっと笑い、手を差し出してきた。ツバキもそれを握り返す。


「ツバキです。よろしくお願いします! いやあ、まさかギルドの人に会えるとは……。俺、いつかギルドで働きたいなって思ってるんです」

「おや、奇遇だね。じゃあ今日の仕事は良い経験になるかもね」


 エルリオが笑いながら肩をすくめる。ツバキは胸を高鳴らせ、憧れのギルド職員と作業を再開した。

分量的に分割を決意

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