拳と言葉
「君を死なせたくない。だから、俺は本気で君を倒す」
静かに告げたその言葉が空気を震わせる。
「魔法も使えないやつガ……適当言うナぁぁッ!!」
狂気じみた咆哮が響く。
だがその声を遮るように、ツバキの瞳が変わった。
哀れみから、決意の光へ。
赤い巨眼を鋭く射抜くと、彼の姿が一瞬で霧のように消え、
__ドゴォォォン!!
次の瞬間、黒い巨体が宙を舞っていた。
「おおォッ?!」
ツバキの蹴りが、正面から黒い腹を貫いたのだ。
その衝撃は凄まじく、巨人の体ごと地面から浮かせ、まるで弾丸のように吹き飛ばしていく。
「うおおお?!」
「きゃあぁっ!」
その進路の先には、グラウンドの端へ避難していた生徒たち。迫る巨体に悲鳴が上がった、その直後__
「いない!」
誰かが呟くより早く、ツバキの姿が消えた。
次の瞬間には、飛来する巨人の正面にツバキが現れ、拳を構える。
「だあっ!!」
__バギィっ!!
腰を回転させた正拳が、ザカリの背に再度叩き込まれる。
音を立てて肉が軋み、黒い塊は再び空中を跳ねる。
今度は逆方向。
その着弾点に、またツバキが現れた。
「でやぁぁ!!」
__ドカッ!
左足を軸に回し蹴り。
重力を無視するかのような加速で、黒い巨体をそのまま空へ蹴り上げた。
漆黒の塊が、弧を描いて上昇していく。
その光景を、誰もが呆然と見上げていた。
「おい! あれ!」
誰かの叫びに、グラウンドの空気が一変した。
上空__それまで黒と紫に染まっていた天蓋が、音もなく剥がれ落ちていく。
黒い膜のように空を覆っていた結界が、上部からゆっくりと溶け始め、裂け目の先にはまばゆいほどの青空が広がっていた。
「空……!?」
「結界が、消えていく……!」
その光景に、逃げ惑っていた生徒たちが次々と立ち止まり声を上げる。
恐怖の檻が崩れゆく歓喜と安堵の声が、次第にグラウンドを包み込んでいった。
だが、ツバキだけはその歓声に耳を貸さなかった。
遥か頭上__蹴り飛ばした黒い巨体が空へ消えていくのを目で追い、彼は静かに腰を沈めた。
気合いは込めず、ただ静かに、正確に。跳ぶ。
__ダンッ!!
空気を裂く音と共に、ツバキの姿が宙に弾ける。
一歩踏み切っただけで、彼の身体は弾丸のように空を翔けた。
瞬く間にドームの天井を超え、空の彼方へ飛び出していく。
「は、速ぇ……!」
「あれが……魔法なしの動きなのかよ……」
誰かが呟いた。
その声はやがて伝播し、生徒たちの間にざわめきが広がる。
その隣で、リーゼはただひとり、空を睨みながら祈るように口を開く。
「……頼むツバキ。あいつを……止めてやってくれ」
誰も言葉を返さなかった。
ただ皆が、上空に消えていく二つの影を見上げていた。
***
「なんなんだよアイツはぁぁ……!」
空中を吹き飛ばされ、必死に体勢を立て直そうとするザカリ。
その目には恐怖が滲んでいた。
魔法でも技でもない。あの力はただの“現象”だった。
「魔法じゃない……こんなの、ただの……バケモノだろッ!!」
叫びにも似た呻きと共に、巨体が宙を泳ぐ。
__だが。
「__ッヌ!?」
その下方から、地鳴りのような衝撃が迫ってくる。
風を裂いて跳ね上がる白い閃光。
ツバキだった。
ドズッ!!
「がはっ……!」
腹を抉るような一撃。
黒い巨体がのけ反る間もなく、ツバキはそのまま跳躍を活かして空中へと舞い上がる。
__ゴガガガッ! ドガバギッ! ガンッ!!
連打。
さらに連打。
音すら置き去りにする速さで、拳が振るわれ続ける。
バギバゴッ! ドズガッギゴガゴゴッ!!
身体のどこに命中したのかも判別できないまま、ザカリの巨体は押し上げられ、何もできずに叩かれ続けた。
「がっ、はっ……!?」
呻く暇もない。
視界が揺れ、脳が振り切られ、意識が空へと滲んでいく。
「うおおおおおおっ!!」
ツバキの咆哮と共に、最後の一撃が振り下ろされた。
が。
「__っ……!?」
その拳は、わずか数ミリを残して止まった。
巨人の顔面を狙ったツバキの拳の先に、現れたのは、かつてのザカリの“素顔”だった。
黒い化身が、形を保てなくなったのだ。
呪いのようにまとわりついていた煙が、風に溶けるように散っていく。
「はぁ……はぁ……」
呟くように、ザカリの口が動いた。
「ギブ……もう、無理……苦しい……」
抵抗の意思も、怒りもない。
ただ息を吐くように、言葉を漏らしたザカリは、そのまま自然と落下していく。
黒い仮面は剥がれ落ち、そこにいたのは、疲れ果てた一人の少年だった。
ツバキもまた、拳を下ろし、上昇の勢いを失って空中に静止する。
風が、ようやく吹いた。
落下する空の中、ツバキはザカリの隣に並んでいた。
浮遊するような重力の中、どちらからともなく静寂が流れ込む。
「……なんで、死のうと思ったの」
ツバキの問いかけは、風に乗せるように、そっと放たれた。
ザカリは天を仰いだまま、すぐには返事をしない。
身体は重力に従いながらも、心だけがまだ抗っているようだった。
「………」
彼は黙って、ほんのわずかに顔をそらした。
沈黙に、ツバキが先に口を開く。
「あ……」
ツバキは小さく息をついた。
順番を間違えたと思った。こういうのは、きっと自分から話すべきなんだと。
「俺が殴ってでも止めなきゃって思ったのはさ、……羨ましかったからだよ」
「え……?」
不意を突かれたような声を、ザカリが漏らす。
「虚大魔って苦しみもなく死ねるんでしょ? ちょっといいなって思ってたんだ」
ツバキは空を仰ぐ。
笑っていた。でも、その瞳には、どこか置き去りにされたような、虚ろな光が浮かんでいた。
「何も考えなくてよくなるなら、それだけで……楽なんじゃないかって」
ひとつひとつの言葉が、重力よりも重く沈んでいく。
けれど、それでも語るその横顔は、どこか救いを探しているようにも見えた。
ザカリは沈黙したまま、ツバキの顔をじっと見つめていた。
そして、長い間を空けたあと、ぽつりと呟く。
「……だよな。大体、同じだ」
その声には、初めて誰かに触れられたような、ひどく弱い熱がこもっていた。
ただ落ちていくだけの時間。
なのに、そこには確かに何かがあった。
孤独な二人が、ほんの少し、重なった。
「けど、俺は……死んじゃダメだから、生きてる」
ぽつりと、ツバキが言った。
それは決意でも誇りでもなく、自分に課した命令のようだった。
「……そうなんだ」
ザカリは横目で見るだけだった。
どこか気の抜けた返事。しかしその声の奥には、少しの羨望が滲んでいた。
「多分ね、そうやって、自分で自分を縛ってるから、迷わず死ににいけるザカリに嫉妬してたんだと思う」
ツバキはゆっくりと瞼を伏せた。
「好きに死ねるなんて、卑怯だ。って……」
ザカリは、虚を突かれたように目を見開いた。
けれどすぐに、その口元が、自然と緩んでいく。
「死ぬのが卑怯か……面白いね君」
呟いた声には、わずかに笑みが滲んでいた。
ふと、何かが解けたような響きだった。
「……俺さ、親が魔法にうるさくて。ちっちゃい頃から、嫌々訓練ばっかさせられてたんだ」
ザカリの声が、落ち着いていた。
語るというより、心の奥をこぼすような口調で。
「でも全然ダメでさ。魔力量が少ないってだけで、お前は使い物にならないって、ずっと言われて……」
そこには怒りもなかった。
ただ、疲れた記憶だけが、静かに綴られていく。
「結局、魔法学校も中退してさ。家も追い出されて、今は婆ちゃんのとこで暮らしてる。悪い人じゃないけど……まあ、遠慮して息が詰まるんだよね」
「うん」
ツバキは頷いた。
どこまでも真っ直ぐに、ザカリの言葉を受け止めていた。
「勉強はそれなりにできたし、魔法なんてなくても生活に困るわけでもない。けど、何やっても虚しくて……。魔法のことばっか頭に残って、離れてくれない」
ザカリは空を見上げた。
その目は、過去に縛られたままだった。
「だから……俺にこんな思いをさせた魔法が許せなくなった……。魔法で自分が死ねば、魔法は社会で危険視されて、ついでに楽になれると思った。それだけだよ」
苦笑を交えながら、ぽつりと締めくくったその言葉には、悔しさと諦めが同居していた。
だけどその時__
「ザカリって、魔法、結構好きだよね」
その一言に、ザカリの顔が固まった。
「はあ? いやいや、俺は魔法なんて__」
「結構というか、すごく」
「……え?」
否定しかけて、止まった。
ツバキは笑っていた。けれど、その笑みはふざけているわけじゃない。
「目的はどうあれさ、実験したり、魔導書読んだり、術式組んだりしてただろ? この前なんか、洞窟でも何かしてたよね」
「え、それ、バレてる?」
ザカリがぎょっとして目を見開く。
「まぁ、ちょっとね。そこに来たり逃げたりするのだって、魔導書を自力で解読して、その力を身につけるのだって、好きじゃないと普通できないし、やらないもん」
ツバキの言葉は優しかった。
まるで、ザカリの中にある小さな気持ちを、そっと肯定するように。
「それだけの気持ちがあれば__きっと見返せるよ」
ツバキの声は、軽くも優しかった。
それは叱咤でも励ましでもない。ただ、事実として言っていた。
ザカリは、ゆっくりと目を伏せる。
浮かんだ涙が、頬を伝わるより先に、重力に引かれてふわりと宙に舞った。
「はは……今日は、学校のナンバーワンとナンバーツーにぎゃふんと言わせて、ちょっとだけ、いい気分がいいや」
落下していく空の中、笑うザカリの表情はどこかスッキリしていた。
その頬に伝う涙も、悔しさからではなかった。
流れ落ちる涙が、風に押されて踊るように漂う。
「でも、それよりもさ……」
ザカリは隣をちらと見やった。
「今日は、君と話せてよかったよ。……ちょっと、スッキリした」
「うん。よかったら魔法のこと、いつか色々聞かせてよ」
ツバキも、空を見上げたまま穏やかに言った。
「俺はまだ使えないけど……いつかは、魔法、使ってみたいからさ」
ザカリは何も言わなかった。
けれど、確かに一度だけ、小さく頷いた。
その沈黙には、もう拒絶も否定もなかった。
空が近づいてくる。
その先、晴れ渡るグラウンドでは、教師たちが魔法陣を展開し、二人の着地を待っていた。
風が巻き起こり、地面から優しく持ち上がるような上昇気流が生まれる。
ふたりの体は、ゆるやかに減速しながら、
まるで抱きとめられるようにして__
そっと、地上へ降り立った。