荒レ狂イ
「あ……」
タレックが短く声を漏らしたと同時、巨人の足が影を落とす。
気づいた時にはもう遅かった。
轟音とともに地面が裂け、タレックの体が宙を舞う。
「がぁっ!?」
「タレック!」
レイスの叫びが、風圧にかき消されそうになる。
「レイス! そっちに行ったぞ!」
「え?!」
ヤクマの鋭い声に、レイスが反射的に振り向く。
その視界に映ったのは__
あの巨体とは思えない速度で、四肢をバネのように弾ませて突進してくる。まさに怪物だった。
「く……逃げられなさそうね」
レイスは地を蹴るように一歩踏み出し、両手を広げて構えを取った。
あの教室で抑えたあの術、“バインノヴァ”を、もう一度。
だが、その瞬間__
「レイス! これを受け取って!」
遠くから飛んできた声。それに続いて、くるくると回転しながら何かが空を裂いて迫ってくる。
「……あ!」
とっさに手を伸ばし、片手でそれを受け止める。
木製の、先端がやや膨らんだ形状の魔法の杖。簡素な造りながらも、魔力を伝えるのに十分な媒介だった。
「助かりました! __なら」
構え直す間もなく、巨人の腕が目の前まで迫る。
レイスは杖を両手で突き出し、魔力を迸らせた。
「“パイロプロージョン”っ!」
__ッツゴォォォォん!!
爆音と閃光が一瞬にして世界を包む。
ほぼゼロ距離での爆破魔法。
杖によって増幅された出力が、巨人の腕をねじ切り、そのまま貫通する。
灼熱の炎柱が漆黒の天へと伸び、黒い巨体をその中心で割いた。
爆風が吹き抜け、砂塵を舞い上げる。
「ガ……グォア……あ」
黒い巨体の胸元に、ぽっかりと穴が空いていた。
損傷に耐えきれず、巨人は膝をつき、どさりと地面に沈み込む。
レイスは魔法の杖を構えたまま、息を切らしつつも警戒を解かない。
崩れかけたとはいえ、あの執念の塊が、これで終わるはずがない。
だが、その時だった。
__ピシぃっ。
「リア__」
背後で、空気が焦げるような音がした。
振り返る間もなく、暗い空間に青白い閃光が閃き、雷が地を裂くように落ちる。
「ローダーぁぁぁ!」
タレックの咆哮とともに、黄色い稲妻をまとった拳が、まっすぐに巨人の頭部へと叩き込まれた。
バチバチバチィィィイ!!
炸裂音と衝撃波がスパークし、巨体がのけぞる。
雷撃に貫かれた黒い頭部が一瞬ひしゃげ、そこから白煙と蒸気が立ち上った。
「ガァぁぁぁア!?」
苦悶と怒号が混ざり合ったような、異様な叫び声がグラウンドに響く。
巨人はのたうち回るようにして仰向けに倒れ、地面をえぐるように沈み込んだ。
爆風が吹き抜け、砂埃が巻き上がる。
その中、タレックの体はよろめきながらも、しっかりと着地した。
「はぁ……はぁ……やったなレイス」
地面に膝をつき、息も絶え絶えのタレックが笑みを浮かべる。
だがその視線は、まだ崩れ落ちたままの黒い巨体を離してはいなかった。
「相変わらずムチャするわねぇ」
杖を支えに立ち上がるレイスもまた、同じく警戒を解かない。
微かに揺れる砂煙の向こう、横たわった巨人は音もなく沈黙していた。
「もう、いいでしょ……」
レイスが小さく呟く。
その声は、少しだけ哀しみを帯びていた。
「あんたはめちゃくちゃ強いわ。一人じゃ絶対に勝てなかったと思う。だから__」
だが、その言葉は最後まで届かない。
「マダダァッ!!」
爆音のように響いた咆哮。
言葉に乗せられた魔力が、空気を軋ませる。
グラウンドを震わせながら、黒い肉塊がぐにゃりと蠢く。
「こんなんじゃ、終われナイッ!!」
声には濁りが混ざっていた。怒りなのか、狂気なのか、もう判別できない。
「さっきから終われないって何が!」
レイスの声が震える。
目の前の存在が、もはや人間ではないと認識したその瞬間、背筋に冷たいものが走る。
空いたはずの胸の穴が、もくもくと黒煙を上げながら再生を始めていた。
傷口から這い出すように、肉が蠢き、骨が軋み、再び完全な形へと戻っていく。
「……勝つのは、オレ……!」
その呻きにも似た執念の声が、地面から響く。
倒れてなお、戦意を絶やさず、ただ勝利だけを求めて這い寄ってくる姿に、レイスは初めて、ザカリの存在に恐怖を覚えた。
__このままでは、本当に何も残らない。
そしてその一瞬の躊躇こそが、ザカリにとって唯一の好機だった。
「レイス……っ!」
「え……?!」
頭上で、紫の魔法陣が不気味に浮かび上がった。
光が凝縮し、白く輝くその中心が、レイスの体に狙いを定める。
「しまっ__」
その瞬間、彼女の姿がその場からふっと掻き消えた。
「……リーゼちゃん!」
背中から純白の羽を広げたリーゼが、空中でレイスの体をしっかりと抱えていた。
すんでのところで助けられ、その体をゆっくりと地面に下ろす。
突如として現れた姿に、グラウンドは一瞬ざわめく。
しかしリーゼは周囲に構う様子もなく、冷静に周囲を見渡し、何かを探すように視線を走らせていた。
「ありがとう。油断したわ……」
「礼はいい。……それより、ツバキはまだ来ていないのか」
レイスの問いに、リーゼが目を瞬かせる。
「ツバキ君? 一緒じゃないの?」
「ああ。他のみんなは一緒に出てきて、教室にいるんだが」
その会話を、地面に座り込んだまま聞いていたタレックが、低い声で口を挟む。
「おいザカリ。ツバキはどこにやった」
問いかけに、黒い巨体が微かに揺れ、声が返る。
「ツバキ……? あア。あの知らないやつは、観戦用の空間に入れタさ。あいつだけハ関係ないからネ」
「んだと?」
思わず声が尖る。
「関係ねぇんだったら早く出せよ」
怒りを露わにするタレックの声にも、ザカリはどこまでも平坦だった。
感情を殺したまま、まるでそれが当然であるかのように呟く。
「出して欲しいなラ……オレを殺セ」
あまりに静かなその言葉に、タレックは言葉を失った。
「いい加減にしろよお前」
口から漏れた呆然の一言。
巨大なその黒い身体は、倒れもせず、ただ微動だにせずそこにあった。
殺さなければツバキは出さない。
そう語るザカリの姿は、ただの敵ではなかった。
そこへリーゼが一歩歩み寄る。
「……お前はそもそも、私たちを殺そうなどと、微塵も考えていないだろう」
静かな声だったが、確信に満ちていた。
ザカリの巨体が微かに揺れ、溜め息が吐き出される。
「……はぁ」
その息は、まるで観念したように聞こえた。
黒煙を纏った巨体の中で、どこか諦めにも似た感情が見え隠れする。
「私たちが送られた空間……あれだけの数のゾンビを出しておきながら、実際はどれも弱く、群れてくるだけの人形みたいな存在だった。あれは戦闘なんかじゃない。ただの時間稼ぎだったんだろう?」
「……そうサ。元々全部は“仕掛け”でしかなかった。優秀な先生方のせいで予定は滅茶苦茶にされたケド……今ごろ、俺の計画は完成してるハズだったンダ」
リーゼの言葉に、ザカリはあっさりと肯定してみせる。
それを聞いていたタレックが、呆れたように眉をしかめる。
「ふざけんなよ……じゃあ、結局何なんだよ。わざわざ俺らと戦うために、こんな手の込んだ結界やら空間やら作ったってのか? 本気で意味わかんねぇぞお前……!」
その苛立ちは怒りよりも困惑に近かった。
そして、その空気を裂くように、落ち着いた一つの声が割って入る。
「__君は、自殺を計っている。そうだろう?」
声のした方に、一斉に視線が集まる。
グラウンドの奥。
ゆっくりと歩み寄ってきたのは、長身の男だった。
白髪のオールバックに、軍服とも見紛う黒の制服。
魔法学校の象徴ともいえる威厳を背負いながら、彼はその場に現れた。
「……校長先生」
誰かが小さく呟いた。
彼は足を止め、淡々と続けた。
「魔力量が少ないはずの君が、これほどまで複雑な魔法を、際限なく発揮している。私の知る限り、そのような芸当を可能にできるのは、“虚大魔”しかありません」
タレックが目を見開いた。
「そういえば、そんなこと言ってたな……」
その言葉を受けて、校長はさらに一歩前に出る。
「あなたの持つ魔素が、あとどれほど残っているのか。リーゼさん。答えてあげてください」
「……え」
いきなり名を呼ばれたリーゼが、戸惑いながらも頷いた。
グラウンドの視線が一斉に彼女へ集まる。
なぜ知っているのか。その重圧に一瞬だけ言葉を詰まらせたが、やがて静かに口を開いた。
「も……もう、少ししか残っていません。このまま使い続ければ……彼は、魔力切れで死にます」
その言葉に、グラウンド全体が凍りついた。
「アァ……そっカ。もうそんなトコまで、減ってたンだナ……」
ザカリが、再び不気味に笑った。
まるで、それを待っていたかのように。
命の危機を前にしてなお、その顔に浮かぶのは、怯えでも焦りでもない。
どこか安堵すら感じさせる、救いを見つけたような表情だった。
「けど、二人を倒せてなイんじャ、死にきれないヤ……」
よろめきながらも、ザカリは再び立ち上がる。
穴の空いた巨体は、まるで時間の巻き戻しでも起きたかのように再生を始めていた。
欠けた肉体は膨らみ、腕や足すらも黒煙とともに生えてくる。
「ザカリ! もうやめろ!」
ヤクマの声が響く。
だがその声は、血を流し続ける理性の前で無力だった。
黒い巨人の足が、倒れたタレックに向けて動き出す。
「くっ……!」
リーゼがすかさず駆ける。
刃を構え、地面を削るように跳躍__
「はあっ!」
その一撃が黒い右腕を斬り裂いた。
ついで羽をたたみ、空中で一回転。
軌道を変えながら、左腕を躊躇なく切断。
「だあっ!」
両足も、一直線に。
巨体の膝を狙い、関節ごと粉砕するように叩き切った。
崩れ落ちるザカリの身体。
無防備となった胴体の上に、リーゼが静かに着地し、その胸に片足を乗せた。
「ツバキ! まだか!」
天へ向かって叫ぶ。目を閉じ、心の奥へ届くように声を張る。
「このままじゃ本当に……ザカリは死んでしまうぞ!」
***
「はぁ……はぁ……」
ツバキは、ひとり。
閉じ込められた薄暗い空間の中で、肩を上下させていた。
何度も声を出し、何度も叫んだ。
だが結界は砕けず、ただその声だけが壁に吸い込まれて消える。
『あの時感じた力は、こんなものじゃなかったぞ!』
リーゼの声が、頭に響く。
『その力が魔法なのか何なのかは知らんが……魔力を高めるには、お前自身の“想い”が要るんだ! 本心をさらけ出せ!』
「本心……」
孤独な部屋を照らす月明かりのような光が、ツバキの頬を照らす。
ツバキは自分自身へ耳を澄ませた。
みんなを助けたい。
死なせたくない。
それだけのことのはずだった。
だが__それだけじゃない。
もう一つ、足りないピースがあった。それはただの、綺麗事には収まらない。
誰かを想う優しさなんてものではない。
彼自身の、もっと卑近で、もっと根深い“怒り”だった。
「……逃げるなんて、卑怯だ」
ぽつりと呟いた。
その瞬間。
ツバキの中で、何かがはじけた。
深く、重く、ずっと奥底で眠っていた“怒り”の火種が、心の奥から吹き出した。
その時、自分の鼓動が強く鳴り響くのを感じた。
魔素が熱を帯び、体内を駆け巡る。
次第に白い光が全身から漏れ出し、気流のように舞い上がる。
「うぅ……あぁぁ……っ」
歯を食いしばり、体を震わせながら、ツバキは天へと向かって叫んだ。
「うおおおおおおおおおっ!!!」
空間が、震えた。
床が揺れ、壁がきしみ、天井に亀裂が走る。
ただの叫びが、魔力の波動を伴って部屋全体を包み込み、
その叫びに、空間そのものが軋みを上げて応え始める。
次の瞬間、爆発にも似た破裂音と共に__
白光が弾けた。
そして、閉ざされた空間は崩壊し、ツバキは、帰還する。
「__来た」
リーゼが顔を上げる。瞬間、空気が変わった。
その視線の先、校舎の方角__
砕けた窓から、真っ直ぐな影がこちらへ歩いてくる。
「……結界ごとぶっ壊したのカ」
その存在感は、まるで一陣の風。何も語らず、ただ歩く。
だが、歩くたびに空気がざわめき、周囲の魔力が反応していく。
「ツバキ……!」
名を呼んだリーゼの声が、歓声にも、祈りにも似ていた。
ザカリの赤い瞳が、その姿を捉える。
「……来たかァ……」
かすれた声を漏らしたその瞬間、黒い肉体が再構築を始める。
千切れた四肢が盛り上がり、踏み潰されていた胴体が形を取り戻す。
「うおおおオオ!!」
咆哮とともに、ザカリの巨体が跳ねる。
リーゼを押し退け、黒い拳を地面スレスレに構えて突進する。
破壊の奔流そのものだった。
だがツバキは、まったく動かない。
構えもなければ、足を引くことすらしない。
ただ、歩いていた足を止め、両腕をゆっくりと下ろしただけだった。
そして__
ドゴォォン!!
拳と拳がぶつかるような音ではなかった。
それは一方的な質量の衝突。
だが、その拳は。
「……ぁア?」
ザカリが、唖然と声を漏らす。
巨人の一撃。
全身の筋肉と魔力を込めて放たれたはずの拳が__ツバキの掌で、あまりにもあっさりと、止められていた。
「…………」
ツバキの表情に、力はなかった。
怒りも、誇りも、誇示もない。
ただ、見下ろすように見上げたその目には、ひとつだけ感情があった。
哀れみ。
その小さな手が、黒い拳を押し返す。
それだけで、ザカリの腕が揺らいだ。
巨体が後ずさる。山が押されるように砂煙が立つ。
ツバキは、震えた拳を、強く握りしめた。