渇きの中の魔力がぶくぶく
一方、時間を少し巻き戻し、校舎内。
「よし! できた! 解析完了! みなさん行きますよ!」
学校内でも、ヤクマの奮闘の末、結界の解除に成功。
廊下で臨戦態勢の五人の教師たちを前に、校内を包んでいた黒紫の膜が、音もなく裂けた。
「ん……?!」
だが次の瞬間、静けさは砕かれる。
教室の壁、窓、天井、あらゆる境界から、漆黒の突風が噴き出した。
「くっ……?!」
ヤクマが反射的に腕で顔を覆う。
だがその風はただの風ではなかった。
触れるだけで神経を焼くような、魔力を帯びた圧力の塊だった。
「おわあっ?!」
「きゃっ?!」
次々と吹き飛ばされる教師たち。
廊下のガラスが爆ぜ、風に煽られた身体ごと外へと引きずり出される。
制御不能の暴風が、まるで内部を吐き出すように噴き上がっていた。
そして__
その風の奔流に乗るようにして、二つの人影が空を舞った。
「タレック! レイス!」
「「先生!」」
タレックとレイスもまた、風に流されながらも目を見開き、声を返した。
それは偶然の跳躍ではない。
彼らは飛ばされたのではなく、逃げるように飛び出したのだ。
けれどその身は、ガラスの破片と共に宙を舞い、グラウンドの中心へと落ちていく。
黒い風が尾を引き、空間ごと削り取るような圧力が周囲を撫でた。
「不味いな……」
ヤクマが呻くように呟いた。
グラウンドには、すでに避難を終えた生徒たちが集まっていた。
そこへ突如、空から舞い降りるように現れた影と吹き荒れる風。
悲鳴が上がり、生徒たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
「皆さん! 風魔法を!」
ヤクマの一声に、教師陣が即座に反応する。
それぞれが短い詠唱と動作で魔法を起動し、グラウンド一帯に柔らかな上昇気流が生み出された。
空中で煽られたガラス片は逸らされ、二人の落下軌道には穏やかな空気の層が張られた。
まるで目に見えぬクッションに受け止められるように、タレックとレイスの体がふわりと減速し、土を蹴って着地した。
「助かったぁ! ありがとうございます!」
地面に手をついたまま、タレックが歓喜の声とともに叫ぶ。
その勢いのままに、ヤクマに頭を下げたかと思えば、すぐに顔を上げ、慌てて問いかける。
「大丈夫か?! みんなは?!」
ヤクマは言葉を失いかけながらも、反射的に彼らを見つめ返す。
たった二人だけ。生徒たちの中で、解放された教室から姿を見せたのは。
だがその様子に反して、タレックも、レイスも、動揺の色はなかった。
むしろ、何かを確信しているかのような目をしていた。
「俺とこいつ以外は、また別の結界に閉じ込められました。けど、大丈夫だと思います。絶対に戻ってきます」
タレックの言葉に、ヤクマの胸にわずかに希望が灯る__だが、それも一瞬だった。
「ッ……!」
風が一段と強まった。空気が揺れる。
タレックの背後。
まるで地に叩きつけられるように、一つの影がグラウンドへ着地する。
ズン、と大地が鳴った。
教師でも、生徒でもない。
圧倒的な異質を纏った“それ”の登場に、空気が瞬時に張り詰めた。
「……っ」
ヤクマが言葉を失う。
その姿は、忘れるはずのない顔をしていた。
怪我だらけで、目の奥に光もなく、それでも口元だけが緩やかに笑っている。
「お久しぶりです……ヤクマ先生」
その声音は、どこか懐かしささえ滲んでいた。
聞き覚えのある低さ。自分を「先生」と呼ぶ声。
ヤクマは、まるで夢を見ているかのように呆然とした。
「ザカリ……? 君なのか……?」
「ええ。流石ですね。半年かけて用意したあの式を、予想以上の時間で解き切った……」
「なぜ……君が……」
ゆっくりと、しかし確実に滲む悪意。
それでも声は優しかった。感情は、ほとんどこもっていない。
「落ち込まないでください。先生方は悪くありません……これはただの、俺なりの復讐です」
穏やかに、あまりに淡々と告げる。
その言葉に、誰もが一瞬、動けなかった。
「予定は変わったけど、まぁいいや」
ザカリの口元がゆっくりと吊り上がる。
次の瞬間、タレックとレイスが同時に構えを取った。
その気配だけで理解できたのだ。
__目の前のこの男は、もう“戻ってこない”と。
「やる事は変わらない。最高の力で二人をねじ伏せ、そして__全部終わらせる!」
不吉なほどの魔力が、皮膚の下から噴き出すように、ザカリの輪郭を濁らせていく。
その顔はすでに人のそれではなかった。引き攣った笑みは表情というより、皮膚がひび割れた結果のような、歪みそのものだった。
「やめろ、ザカリ……!」
タレックが咄嗟に手を伸ばす。
だが、その声は届かない。
ザカリの身体は黒い魔力に飲まれ、渦の中心で笑いながら崩れていく。
「死ぬんだかラ、関係なィ……」
彼の目が一瞬だけタレックの方を向く。
その眼差しは、どこまでも冷たく、どこまでも脆かった。
「__あ」
タレックは一瞬、彼の目頭から湧き出た、一滴の涙を見た。
その瞬間、ザカリは完全に黒に飲み込まれた。
「く……!」
その瞬間、タレックの目に映った。
__ザカリの目頭から、ぽつりと零れた一滴の涙。
それは警告でも、後悔でもない。
ただ、溢れてしまった想いの“名残”だった。
「くっ……!」
叫びも届かないまま、ザカリの全身が黒い魔力に包まれていく。
皮膚の内側で黒泡が湧き、薄皮を押し上げる。
縫い目のような血管がパチンと弾け、蒸気混じりの魔力が噴出した。
骨が伸びる音が甲高く響き、腕は教室の机ほどの太さへ膨張する。
__人という器が、負の魔力によって裏返された。
「な……なんだそれ」
瞬く間に巨人となったそれは、ただ立っているだけで、周囲の空気を圧縮していた。
グラウンドの砂が震え、風が止まり、視界の端が軋む。
「どうダ……外で戦うなんて、想定外だっタけどナァ……!」
その声は、ザカリのもののはずだった。
しかし、まるで何者かが腹の底から絞り出したような、濁った音色をしていた。
「ザカリ……その姿は……それが君の思いというわけか」
ヤクマが低く問う。
応えるように、黒い巨人が首を傾ける。
その動きは人間のそれに似ていながら、どこか“ズレ”ていた。
皮膚の代わりに煙が滲み出し、赤く灯る両の瞳だけが、輪郭を持っていた。
劣等感。屈辱。渇望。絶望。
言葉にできなかったすべてが、魔力の奔流として肉体を形作っていた。
それは、あまりにも醜く、そして哀しかった。
「……みてロ。これが、俺のぉ……最後の……魔法ダァァッ!!」
吠えるように叫ぶ。
その瞬間、黒い巨人の腕が、ゆっくりと、空を裂くように振り上げられる。
振り下ろされるそれが、何をもたらすかはわからない。
ただひとつ__
このままでは、何かが終わる。誰かが、潰れてしまう。
次の瞬間、戦場が動き出す。