虚構の世界に届いた声
「わあぁっ!?」
気がついた時にはもう重力に引きずられていた。
さっきまでの冷たい緊張感はどこへやら。リーゼは間の抜けた声を上げながらまっさかさまに落下する。
「どぉぁ?!」
どすん、と体が沈み込む。
落ちた先は、ふかふかのマットだった。痛みはなく、ただただ予想外の展開に目を白黒させる。
「……体育館なのか?」
木目の壁。高い天井。白線の引かれた床に落下者たちの山。薄暗い空間に、不気味な空気が流れていた。
見覚えのあるようで、どこか違和感のある広い空間。三年A組の生徒たちが、みんな同じようにマットの上でもがいていた。
「そうは言っても、俺らの学校のそれとは違うみたいだし」
ぼやく声に振り向けば、茶髪をぼさぼさとかきながら歩いてくるアスタの姿。出席番号一番の彼は、やけに落ち着いた様子だった。
「なにより……。なんていうか、画質が低いよね。ここ」
「……言われてみれば、確かに」
リーゼは床に目を凝らす。
木目のラインが途中で急にぼやけ、影の落ち方も妙に不自然だ。
まるで描きかけの世界をそのまま放り込まれたような違和感が、足元からじわじわと迫ってくる。
「おーいアスタ! 外はまた結界だぁ……あーもう何回閉じ込められんだよぉ!」
体育館の出入り口を調べてきたクラスメイトが、げんなりした顔で戻ってくる。
「まあまあ。多分出られるよ」
アスタは相変わらず眠そうに返し、あくび混じりにスマホを取り出した。
「策があるのか」
「いや、感覚的な話。……この魔法、作り置きした料理みたいなもんだから」
「……どういうことだ?」
リーゼの眉がぴくりと動く。アスタは画面をスクロールしながら、ぽつりと答える。
「魔法そのものを、使う直前じゃなくて前もって保存しておく。魔力と一緒にね。時間をかけて準備すれば、あとは“再生ボタン”を押すだけで動く」
「なんだそれは。事前に組み立てた魔法を後から発動させているってことか?」
初めて耳にする魔法の使用方法。
その場で即座に武器を錬成するリーゼの魔法からは、とても考えづらい発想だった。
「うん。そういう風にしか説明できない。ザカリはあの少ない魔力量で、この結界も教室の転移も、全部準備だけでやってのけた。彼の高度な魔力制御を考えると筋は通る」
画面には、アスタが独自に書き留めていたメモが並んでいた。
“ザカリ”という名前の隣には、魔力量の特性、使用傾向、研究痕跡、何重もの項目が走り書きされている。
「けど__」
アスタはそこで一度指を止め、目を細めた。
「保存した料理はいずれ劣化する。この魔法も同じく、そう長くないうちに形が崩れてくるだろう」
周囲の数人が息を呑むのが聞こえる。
「その時がチャンスだ」
声のトーンは変わらない。しかしその言葉だけは確かな芯を持っていた。
誰よりも静かに状況を分析していた男が、はっきりと“出口”の可能性を示したその瞬間。
リーゼは、ふと周囲を見回した。
「……そういえば、ツバキはいないのか?」
アスタの周囲に集まった十五人の中に、ツバキの黒い髪の姿はなかった。
「そう言えば見てないな」
「どっかで探索してんじゃない?」
誰もが口を揃えて首をかしげる。
リーゼは、ふと胸の奥がざわつくのを感じた。
何かがおかしい__そんな直感が思考よりも先に彼女の身体を動かした。
リーゼは静かに瞼を落とした。精神は闇の海の奥深くへ沈む。
「……どこだ」
暗闇の中で感覚が研ぎ澄まされていく。
無数の気配が交差する中、彼だけの魔力を探す。
その瞬間、闇の奥にぽつりと一つ、白い灯が浮かんだ。
「いた……! でも、どこだ?」
気配は確かに生きていた。だがその座標は掴めない。
隔離され、ねじれどこか別の層に存在している感覚。
リーゼは彼の名を、心の奥で強く念じる。
『……ツバキ』
呼びかけに応じるように、遠く微かな想いが反応する。
『……ぃ……バキ……』
霞がかった意識の奥で、声が揺らぐ。
手を伸ばしても届かないような距離。しかしそれでも__
『ツバキ!』
声に力がこもったその瞬間。
遠く隔てられた空間の中で、何かが跳ね起きた。
「……っ?!」
ツバキは、息を吸い込むようにして目を見開いた。
暗い部屋の中、ベッドの上で跳ね起きた身体が小さく軋む。
「リーゼ?」
呼吸が乱れる。心音がやたらと大きい。
見渡せば四方は壁に囲まれ、閉じられた一人部屋。
ベッド、勉強机、テレビ。誰かの部屋のように思えた。
しかし、この空間が本物ではないことだけは、直感で理解できた。
窓の外から見えるザカリの結界。
その隙間から漏れ聞こえる、微かなテレビの音に気づく。
「……あ」
その映像に目が吸い寄せられた。
教室の中。レイスとタレック、そして__ザカリ。
今まさに戦闘の最中。画面越しでもわかる緊迫感が肌を刺すようだった。
「早く戻らないと……けど、どうする。それにみんなは」
歯を食いしばり、思考を巡らせる。
その時、再び脳裏に響いた声がツバキの中に確信を与える。
__さっき聞こえた声。あれは幻聴ではない。
間違いなくリーゼの声。魔力を通じて届いた確かな想いだった。
ツバキは静かに目を閉じる。
彼女の魔力の残滓を辿り、意識を闇に沈める。
目の前にある閉ざされた空間の壁を、精神で手繰り寄せるように。
ツバキの閉じた目の奥に、ふたたび熱が灯る。
モニターの向こう__彼の仲間が今まさに奮闘していた。