歪な再会
「……つまり、俺たちは今、完全に閉じ込められてるってこと」
ツバキの低い声が、黒板に吸い込まれるように響いた。
瞬間、それまで散発的に交わされていた私語や動作の気配が、ぴたりと止まる。
誰も返さない。目線だけがわずかに揺れ、手元で止まったペンの先が、机に細く音を立てた。
「とにかく、先生たちと協力して__」
張り詰めた空気の中、ツバキの眉がわずかに動いた。
「……ん?」
気配の変化を誰よりも早く察知し、廊下の方を振り向く。
学校全体を包む結界に走ったわずかな乱れ。
目に見えぬ魔力の流れが、どこかで切り替わるような音もなく、静かな違和感として皮膚を撫でた。
「魔力が消えた……?!」
ツバキがそう呟いた瞬間だった。
扉、窓、教室を囲うすべての開口部に、黒紫の膜が張りついた。
絵の具を流し込んだようにじわじわと浸食する闇。
光が消え、音がこもり、教室が外から切り離されていく。
リーゼが急いで壁際へ駆け寄り、指先を魔力の膜にそっと触れる。
「っ?!」
その瞬間、痺れるような痛みが神経を駆け上がり、彼女は思わず手を引く。
くそ……おそらく、結界がもう一枚」
膜は手を拒み、空間を完全に封じていた。触れたとき、ただの障壁ではない意志のようなものがはっきりと伝わってきた。
誰かが、ここを檻にした。逃げられないように。
その時だった。
__紫黒の閃光が、教室の中央を裂いた。
床を這うように魔力の紋が浮かび上がる。空間が歪み、軋むような音もなく、無音の震えが走った。空気が引き絞られ、息を呑む隙も与えられない。
「下がって!」
ツバキが叫び、最前列の生徒たちを庇うように前へ出た。
魔法陣から噴き出す光と衝撃。逆巻く風が机を揺らし、黒板のチョークがひとつ、床に転がり落ちる音がやけに大きく響いた。
そしてそれは、現れた。
重力の軋みを無視するように、影がふわりと着地する。
足音ひとつ立てず、地に溶け込むような静けさをまとって。
深緑のローブを身にまとい、顔の半分を覆うフードの奥に、誰かがいた。
「あ……。ん?」
誰かが、小さく声を漏らした。ざわめきはない。ただ、一人ひとりの呼吸音が、妙に生々しく耳に届く。
ツバキは目を細め、フードの奥を覗き込む。見覚えはない。だが、周囲の反応が明らかに違っていた。
張り詰めた空気の中にただ一人、タレックが足音も気にせず歩み寄り、真横からフードの奥を覗き込んだ。
「お前……もしかしてザカリじゃねーか?」
気安い声が、教室の緊張に微かな波紋を走らせた。
しかしローブの男__ザカリと呼ばれたその少年は、返事をするでもなく、わずかに視線を逸らす。
「なんだよその格好。……それ、ゾンキのコスプレセットのやつだろ。見たことあるぞ?」
タレックの言葉に、教室の空気がふっと緩む。
一部の生徒が思わず吹き出しそうになり、他の者も小さく目を見合わせる。
しかしそれに応じたのは笑いではなかった。
「懐かしいなぁ……ようやく帰って来れた」
低く湿った声。
思い出に手を触れるような、感傷の音色だった。
そのままザカリは、静かにフードを取った。
次の瞬間、教室の空気がまた変わった。
顔があらわになる。
火傷の痕、古いあざ。どこかでぶつけたのか、腫れの残る頬。
そのどれもが痛々しく、見ているだけで心がざわめく。
数人の生徒が思わず目を背けた。
その中でも、タレックだけは真っ直ぐにその顔を見つめた。
「……おま、どうしたんだよその怪我」
今度は、笑いを含んでいなかった。
その声には、明確な驚きと心配が滲んでいた。
ザカリは視線を伏せたまま、ぼそりと答える。
「君には、関係ない……」
その声は冷たくなかった。ただ、遠かった。
「ねぇ、この人が、例の?」
ツバキが一歩、リーゼの横へにじり出る。
冷たい眼差しが、傷だらけの少年に突き刺さる。
リーゼはそんな彼の隣で、気まずそうに小さく顎をしゃくった。
「ああ。一年の最後で中退した、ザカリだ」
昨晩、リーゼが話していた生徒。
周りの反応を見るに、それは間違いはなさそうであった。
タレックはその重たい空気をものともせず、屈託なく笑って肩をすくめる。
「けど、ありがとうな。まさか転移魔法で助けに来てくれるなんて」
それは冗談とも、本気ともつかない軽さだった。
だが、ザカリは応じない。沈黙のまま視線を落とし、唇だけがわずかに動く。
「……いや、タレック。違う。そうじゃないんだよ」
思わずツバキがツッコミに回る。
なのに、いまいち深刻感が薄くなってしまったこの空気に飲まれ、まるで友達を紹介するかのようき、彼の隣に立った。
「えっと、この人が、この結界を張った張本人」
「ええっ?!」
クラス中が跳ねるように驚きの声を上げた。空気がはじけ、ようやく教室の全員が“異常”を理解したようだった。
「俺、ツバキ。よろしくね」
「え、いや……誰」
ザカリが眉をひそめる。聞いたこともない名前に、明らかに困惑したような声。
周囲もその間抜けな温度差に、思わず唖然とする。
「今年ここに編入してきたんだ」
「……は?」
ザカリは言葉を失い、周囲の誰もが状況の理解に遅れていた。
そのとき__一筋のナイフが、曖昧になりつつあった空気を、冷たく切り裂いた。
「話は終わりだ」
鋭く、短い一言。
魔力で錬成されたナイフを握るリーゼの瞳は、ひどく冷え切っていた。
しかし、目の前に突きつけられたそれを前にしても、ザカリは一歩も引かなかった。むしろ、その唇が緩やかに持ち上がる。
「…….ふふ」
静かな笑い声は挑発でも皮肉でもない、待っていたと言わんばかりの反応だった。
「二枚も結界を張って、三年A組だけを隔離した……目的を答えろ」
「……はは、待ってたよそういうの」
ザカリは咳をひとつ、小さく払った。
その目が一瞬だけ、まっすぐクラスを見据える。
「君たちはどうでもいいんだ……ただ、ここが一番都合が良かった」
「都合?」
レイスが眉を寄せる。声の奥に、うっすらと苛立ちが滲んでいる。
「才能のあるエリートたちが揃っていてこの事態だ。当然騒ぎになるだろう。先生たちが手出しできないように、外からの干渉も遮断した」
その場にいた誰よりも冷静な語り口だった。
だが、言葉の切れ端が、どこか乾いていた。
後ろでタレックが、じりと一歩踏み出す。
ザカリはそれに気づきながらあえて反応せず、ぽつりと天井を見上げた。
そこには何もない。ただの白い板張りだ。
それでも、彼はそっと笑った。
「これは……魔法への復讐だ。タレック、レイス。二人を超えてこの俺が一番になる……。それで、全部終わりだ」
__と、その瞬間。
教室の空気がわずかに震えた。
誰かが息を呑む音が、やけに大きく響く。
そして。
ザカリが、動いた。
「さぁ……始めようか」
__パチンと指を、鳴らした。
瞬間、教室の床に淡い紫の光が浮かび、幾何学的な魔法陣が一面に広がっていく。
空間がひずみ、空気が一瞬にして重たくなる。
「え」
タレックの視線の先。ツバキの身体が、床をすり抜けるようにして沈んでいく。
「は」
レイスの隣にいた生徒も同様に、何かに飲まれるようにして姿を消した。
あまりに突然の出来事に、二人は間の抜けた声しか出なかった。
現実感のない光景だった。
目の前で音もなく人が落ちていくだけ。
次の瞬間には、教室全体が静まり返っていた。
タレック、レイス、そしてザカリ。残されたのは、たった三人。
「……な、何をしやがった」
闇が渦巻く結界の中、虚空に響いたタレックの震えた声。
「俺の目的は君たち二人だけなんだ。他の皆んなは、また別の結界に転移させた」
ザカリの声音は、穏やかだった。淡々と今起きた現象を説明している。
「なんなの……なんなのよあんた……」
レイスが唇を噛みしめる。
拳を握ったまま、怒りと戸惑いが入り混じった目でザカリを睨みつけた。
「あんたがこんな結界貼ったんでしょ?! ……だったら、もう超えてるじゃない! こんなすごい芸当、プロの魔法使いでもそうそうできないわよ!」
精一杯の怒りで叫んだその言葉は、なんの皮肉もない、純粋な賞賛だった。
実際、ここまでで既に巨大な結界を二枚も貼り、転移魔法を使用し自分と人を移動させている。そのどれもが、常識の域を超えていた
「そうだよ! お前は昔っからずっと努力してたもんなぁ! 魔力が少ねぇからってあの手この手で工夫してよぉ!」
「くっ……!」
タレックの声が、感情を抑えきれずに揺れる。
その瞬間だった。
“魔力量”という言葉に、ザカリの表情が凍りついた。
ほんの一拍後、奥歯を噛み締める音が聞こえそうなほどに、顔が震えていく。
「実技も筆記も、俺よりずっと成績良かったし、教室で黙ってノート取って、質問したらちゃんと教えてくれて……そんな奴だったじゃねぇか」
タレックの言葉には、澱みも皮肉もない。まっすぐで、真摯だった。
しかひそれが、ザカリの顔を怒りの形相へ歪めていった。
「……それで、どうなった?!」
押し殺した声。
震え、詰まりながら、それでも吐き出すように。
「そんな努力も工夫も、全部意味がなかったんだ! 魔力量が少ないってだけで、俺は才能がないって決めつけられて! ……学校からも、家からも、追い出された!」
「追い出された……?」
レイスが、息を飲む。
それは、今初めて知った事実だった。
知っていたようで、知らなかった。向き合ったことのなかった現実が突きつけられた。
「タレック。レイス。他のみんなも……強いんだ。最初からそうだった。だから、俺の苦しさなんてわかりっこない。理解なんてできない!」
負の感情が顕になるかのように、ザカリの全身を闇のようなオーラが覆う。
「……っ」
タレックが拳を握りしめる。
だが、その手は震えていた。反論の言葉が、喉に詰まって出てこない。
「だったらなんだよ。あぁ?! それで俺らに八つ当たりってわけか?!」
「ち、違う……! そんなんじゃ、ない!」
微かに震えた声をかき消すように、ザカリが手をかざした。
教室の空気が跳ね、再び淡い紫の魔法陣が展開される。そこに込められた意思はひとつ__攻撃。
「来るぞ! あのバカを殴ってでも黙らせる!」
タレックが叫び、机の上に飛び乗る。
「けどこんなところで戦ったら……教室が!?」
「言ってる場合か! であっ!」
叫ぶなりタレックの身体が宙を裂いた。
足を蹴り上げ、拳を握りしめ、一直線にザカリを目指す。
その瞬間、魔法陣が光を帯びる。
三人だけの教室。
逃げ場のない檻の中で、火花が散る。
旧知の仲、因縁の戦いが静かに幕を開けた。