賢者との出会い
「うわぁっ?!」
背中を誰かに突き飛ばされた瞬間の記憶を最後に、目が覚めた。
「はぁ……はぁ……」
荒い呼吸のまま起き上がると、そこは見知らぬ天井。木の香りが漂うログハウス風の部屋だった。
家具がやけに大きく、ベッドさえ沈むほど柔らかい。
……いや、それだけじゃない。視界が低い。体が……重くない。
「……え?」
声が出ない。いや、出たのはか細い、くぐもった赤子のような鳴き声だった。手も足も信じられないほど小さく滑らかだった。
思わず跳ね起きようとするも、まともに動けずシーツに倒れ込む。
夢かと頬をつねろうとして、また手のひらの小ささに打ちのめされた。
「あぁ?」
最後の景色から考えて、電車に轢かれたとしか思えない。あの後、自分の身に何があったのか。
あり得ない状況に頭が真っ白になる。
そこに、不意に足音が近づき意識が現実? へ戻される。
警戒する中、扉が開かれた。
「おお……もう起きておったか」
現れたのは、長い白髪と髭をたくわえた老人だった。穏やかな笑みを浮かべ、顔をのぞき込んでくる。
「あおー……」
どうやら空腹だったらしく、腹がぐぅと鳴った。老人は納得したように頷く。
「そうかそうか。ご飯の時間じゃな。少し待っておれ」
どこかで聞いたことのある“優しい爺さん”像そのままに、老人は部屋を出ていった。
……もはや混乱している暇もないらしい。
しばらくして戻ってきた彼の手には、まさかの哺乳瓶があった。差し出されるそれに一瞬戸惑ったが、空腹に勝てず、おとなしく口をつける。
ぬるくて、うす味。
しかし喉を通ると、不思議な安心感に包まれた。
「ふむ……さてはお主、意識があるのではないか?」
「……ぶっ?!」
老人のひと言に、口の中のミルクを吹き出しそうになる。
「ん、あ、あー……」
慌ててごまかそうとするも、老人はニヤリと笑うと哺乳瓶を押し戻してきた。
そして飲み終えた後、ベッドに寝かせながらこう言った。
「もしワシの言葉が理解できるのなら、右手を挙げてみよ」
__来た。
迷うことなく、椿は小さな右手を上げた。
それを見た老人は、目を細めて満足げに笑った。
***
ここは不可解なことばかりだった。
だから、まずは情報を収集するところから始めた。
まずは対話ができるように歩行訓練や発声練習を行い、さっさと自分の前世の記憶を明かすことにしたのだ。
そうやって奔走すること、もう半年が過ぎた。
「おはようございますトルモさん……」
「おはようツバキ君」
子どもの舌と喉で発音する「あ」「い」から始めて、ようやく会話ができるまでになった。
椿と名乗ったものの、この世界の名前はカタカナであることに加え苗字の概念がないときた。
だから、この世界での自分の名前は“ツバキ”と表記されることとなった。
「ふあぁ……」
まだ寝起きの目をこすりながらブラウン管のテレビをつける。
世代的にギリギリ懐かしいと思える四対三のアスペクト比。その画面隅に表示された時刻は「八時二一分」、その隣に飾られたカレンダーには『二〇〇四年 一月十三日』とあった、
「これでタイムスリップじゃないんだよなぁ……」
年数だけを見て、最初は過去に戻ったとみていたが、そんな推測を無かったことにするほどの、更なる混乱が待ち受けていた。
キッチンから漂う香りと、陽気な鼻歌に気を引かれて声をかけた。
「ふんふふーん♪」
料理のために用意された野菜や肉が、何もなしに空中に舞い上がったかと思えば瞬時にバラバラになって鍋に入っていく。
「おお……やっぱ凄いですね、“魔法”って」
こんな非現実な光景が、今や朝の風景になっているのだ。
食卓に着くと、今日もトルモ特製の離乳食が用意されていた。
「っし、いただきます」
「いただきます」
食べながら、ふとトルモが問う。
「ところでツバキ君。こないだ、君は転生したんじゃと言っておったな」
「はい。多分ですけどね。自分がいた世界に魔法なんてなかったし、ここが別の世界……だとして、俺は十七歳だったのにこーんなスベスベした体になっちゃったから。つまり、異世界転生したって事ですよ」
淡々と語るその口ぶりは、まるで他人事のようだった。
トルモがふと、食事の手を止める。
「もし、君が元の生活に戻れるなら、迷わずそうするか?」
スプーンの動きが止まる。だが、答えには迷わなかった。
「戻れるならそうしますよ。あっちまだ途中でしたもん。ぁいや、けど、今戻ると、いつかまた潰れちゃうんじゃないかなって思うんです」
口調は健気なほど穏やかで、それでいて、どこか遠くを見ているような声だった。
トルモが眉を寄せる。
「潰れる……というと?」
「ここにくる直前、俺、死のうかなって思ったんです」
スプーンが皿に当たる音がやけに大きく響いた。トルモの手が止まる。
「はっきり考えたわけじゃないですよ。いつの間にかそういうふうに動いてて、ハッとして戻ろうとしたんですけど、誰かに押されて、結局死んじゃって……」
ツバキの顔に、ふっと照れの笑みが浮かぶ。
まるで、昨日転んだ話でもしているような軽さだった。その笑顔は場違いなほど柔らかい。
「それでトルモさん。どうしても頼みたいことがあるんです」
「なんじゃ?」
ツバキはスプーンを置き、一呼吸おいてから、勢いよく残りの離乳食をかき込んだ。
食べ終えたあと、小さな拳をぎゅっと握りしめて言う。
「俺のこと、鍛えてくれませんか。強くならなきゃいけないんです!」
「むぅ?!」
スプーンを落としそうになりながら、トルモが驚きの声を上げた。