遮断された学校
4月15日木曜日 8時20分
「おはよう」
「おはよう」
「うーす……」
朝の教室には、かすかに眠気の余韻が漂っていた。
ツバキはすれ違う生徒たちに、軽い会釈を交わしながら自分の席へと足を運ぶ。
中央最後尾の席。その隣に、ほとんど同時にリーゼが腰を下ろした。
「おはよう……」
「おはようリーゼちゃん」
珍しく隣にいたレイスにも、きちんと挨拶を向ける。
その言葉に、レイスはわずかに目を細め、口元をほころばせた。
そんな温かなやり取りのあと、リーゼの視線がさっと教室を一巡する。
「そういえば、マオはまだ来ていないのか。レイスがいるなら一緒にいるものかと思ったのだが」
言われてみれば、いつもセットで見かけるふたりの姿が今日は片方だけだ。
レイスは手にしたノートから顔を上げ、少しだけ困ったように笑った。
「それがねぇ。マオは寝坊と電車の遅延でかなり遅れるみたいなの」
いつも快活なレイスの声に、どこか疲れのようなものが混じる。
少し元気がないのは、きっとその“片方”がいないせいだ。
「そうなのか……。そろそろ時間なのに、やけに人が少ないと思ったら」
時計の針は朝の始業を告げようとしていた。
あと十分もすれば、朝の挨拶と予備学習が始まる時間だというのに、教室内はどこか寂しいほど静かだった。
「しかもその遅延、環状線の影響で動かないらしくてね。三十分は遅れるって……はぁ」
レイスは口元に指を当てたまま、深くため息をついた。
その目は机の隅を見つめているようで、見ていなかった。
小さく漏れる息の重さに、リーゼがふと首を傾ける。
「マオがいないと、……不安か?」
「まあね……あの子、放って置けないから。……あーもう私も遅刻してくるんだった」
それは本音か冗談か。どちらにせよ、少し寂しげな響きだった。
そんなぼやきに、間延びした声が教室の奥から飛んできた。
「へぇ〜」
教室前方、廊下側の席。友人らと駄弁っていたタレックが、机にもたれながら口を開いた。
その表情はいたって無表情。棒読み気味の声色で、わざとらしく呟く。
「そんな都合で遅刻してくる主席はやだなぁ」
彼の隣にいた男子二人はクスクスと肩を揺らし、タレックは悪びれた様子もなく、レイスの方をじろりと睨んだ。
薄く細めた目に、からかいの色がにじむ。
「主席だって遅刻ぐらいするわよ!」
レイスがばっと振り向く。
「むしろ、親友と罪を共にできるこの覚悟を評価してほしいわね!」
勢いよく手を広げて言い放った彼女に、タレックが唇の端を吊り上げた。
「んだよそれ! じゃあ今のお前はなんだァ?! 自虐なんてらしくねーなぁ!」
「なな……なぁんですってえええ!!!」
椅子を蹴って立ち上がる勢いで怒声を上げたレイスに、タレックは余裕の笑みで応じる。
そのやり取りを、教室の空気はどこか微笑ましく見守っていた。
ため息まじりの「またか」が、あちこちの席でひそかに囁かれる。
「まーたいちゃいちゃしてるよあいつら」
「よくも朝からあんなに騒げるよね」
直前までタレックと喋っていた先頭の男子ふたりが、半ば呆れたようにタレックとレイスの言い合いを見つめていた。
しかしその表情に怒気や嫌悪はない。どちらかと言えば、見慣れた夫婦漫才を見るような、そんな諦めと親しみの混ざった眼差しだ。
ツバキは合間なく続くタレックたちのやり取りと、それを観察する男子二人の間を行き来していた。
「よく一緒になってるけど、やっぱりそういう関係だったんだ」
そんな二人の隣に並んで小声で漏らすと、隣に座る男子が肩を揺らして笑った。
名前はアスタ__三日前、タレックとの手合わせの件で、その意味と彼なりの礼儀について話しかけてきた男子だ。
「去年あたりからずっとあんなんだよ」
その声が耳に入ったのか、タレックが急にこちらを振り向いた。怒るでもなく、妙に上擦った声で返してくる。
「聞こえてんだよなぁツバキもアスタもよぉ……」
「ごめんごめん」
とだけ返して、ツバキは特に浮かべた笑みを変えず、机の下にすっと身を滑り込ませた。
__チャイムが鳴った。
騒がしさが名残惜しそうに尾を引く中、生徒たちは徐々に席へと戻っていく。
とはいえ、教室内の空気はどこか間の抜けたような気の乗らないものだった。
見渡せば、三年A組の生徒数はわずか十八人。三十六人クラスの、ちょうど半分だ。
「うわぁ……すっかすかだなあ」
ドアを開けて入ってきたヤクマがそんな呟きを一ついれ、
「たぶん情報は回ってると思うけど、環状線の遅延の影響で人が全然いません。教員側も何人か足止めされててねぇ。えー、一限目は自習になります」
「よっしゃーっ!!!」
「ひゃっはーっ!!!!」
半数のクラスとは思えないほどに湧き上がる歓声。
あまりの素早い反応に、担任は苦笑しながら肩をすくめた。
だが__その笑みが消えるのは、ほんの数秒後のことだった。
「……ん?」
ヤクマがふと、窓の外に目をやった。
その視線に気づいたのか、ツバキとリーゼも同時に顔を上げる。
無言で交わる視線。警戒が一気に高まった。
「ツバキ」
「うん」
呼吸を合わせたようなやりとり。次の瞬間。
窓の外の風景が、突然塗りつぶされた。
鮮やかに差し込んでいた朝の陽光が、まるでスイッチを切ったかのように消え失せる。
校舎の外は、濃い紫に沈んだ闇。まるで夜が突然降ってきたかのような異常な光景。
「おいなんだよこれ」
息を呑んだのは教室の誰もが同じだった。
突如訪れた異変が、緩やかだった朝の空気を冷たいものに変えていく。
「先生!」
誰かの叫びが教室の混乱に鋭く切り込む。
その声に応じて、担任の男が一歩窓際へと身を乗り出した。
異常な紫の闇が校舎の外をすっかり覆っている。
風もない。音もない。ただの暗さではない、不穏な意思を孕んだ静けさだった。
「結界か……」
低くつぶやいたその声は、教師というよりも一人の術者としての判断だった。
教室内に広がる緊張を感じ取りつつ、すぐさま背を向けてドアノブに手をかける。
「みんなそこでじっとしてて。先生らで集まってまたすぐに戻ってくる」
そう言いかけて、彼はふと足を止めた。
ツバキにだけ静かに視線を向ける。
「ツバキ君。みんなの事任せていいか?」
一瞬、生徒全員が一人を振り返り空気が変わる。
ツバキは驚いたように目を見開き__すぐに短く息を整えた。
「……はい!」
大きく芯のある返事。
それを確認した担任は、無言で頷くとドアを開けて足早に教室を去っていった。
扉が閉まる音が、教室に再び重たい沈黙を落とす。
「くっそぉ! どうなってんだぁ?」
教室の隅、タレックが窓にかじりつくようにして外を睨んでいた。
額をガラスにくっつける勢いで、視界の端から端まで目を凝らす。
だが、どこまで見渡してもそこには外がなかった。
ただ静かに黒紫の幕が降りているだけ。まるでこの学校ごと別の場所に取り残されているようだった。
「……圏外かよぉ! 通報できねーじゃんかよ」
別の生徒がスマホを手にしたが、画面には容赦なく圏外の表示。
校内のあちこちから、ざわめきと、焦りの気配がにじみ始める。
「ちょっと見てくる」
ツバキは静かに立ち上がり窓際へ歩くと、迷いのない動作で両足を縁にかけ、ひょいと外へ飛び出した。
「えっ、ちょっ?!」
思わず声をあげる生徒もいたが、その動作に恐怖も迷いもない。
ツバキは校舎の外の闇に手を添えるようにして、魔力の流れを探る。
「……ん?」
感触がない。
表面に触れていたはずの腕が何かをすり抜けた。
違和感に首をかしげたツバキは、体を傾け、顔を外へと出してみる。
そこに広がっていたのは、校舎の裏手__つまり、この学校のグラウンドだった。
「なんで逆側に……」
疑問をつぶやいていたが、この時点で彼の中では、なんとなく結論が見え始めていた。
魔力の流れを追いながら、結界の構造をざっくりと推測する。
「……ってことはそうか」
ツバキは顔を結界から引き抜くと、地面を蹴って教室へ戻る。ざわつく生徒たちの前で、すっと黒板の前に立った。
「みんな。落ち着いて」
その一言に、教室全体が静まる。
龍殺したる技能を前に、確かに頼れる存在として耳を傾けた。
「今の状況はこんな感じで__」
ツバキはチョークを握り、白く擦れる音とともに円形の図が描かれていく。
「まず、学校全体が結界で包まれちゃってる。暗い壁みたいなやつが、空だけじゃなくて地面の下まで、まるごと球状に覆ってる感じ」
黒板に描かれた校舎のスケッチに、丸く囲うような線を加える。その上から下へと突き抜けるように線が引かれ、球体のイメージが強調される。
「なんでわかるの?」
当然の疑問をぶつけたのはレイスだった。彼女の眉間には、わずかに皺が寄っている。
「魔力を感じ取れるから……修行のしすぎだと思うけどよくわかんない」
ツバキの返しは簡潔だったが、その口調に余裕も焦りもない。
簡潔に全体像を伝えようとするツバキの姿に、教室の空気が静かに引き締まっていく。
「で__たぶん、この結界そのものが転移魔法のゲートになってる」
「こんなデカさのゲートなんかあんのかよ」
タレックの疑念まじりの声が教室の奥から飛ぶ。
それに呼応するように、生徒たちの間にざわめきが広がった。
「顔を外に出したら真逆の位置に繋がってたからそういうことだと思うんだけど、そうなると魔力量がとんでもないよね」
ツバキは淡々と、手を止めずに黒板の左端へと移り、状況を箇条書きしていく。
・転移魔法による結界
・外からの魔力遮断
・通信不能(圏外)
「で、今ヤバいのがこの『遮断』。外の誰にも、俺たちの存在が届かないってこと。魔力も通信も、全部ふさがれちゃってる」
チョークを置き、ツバキは教室を見回す。
それまで騒がしかった空気は、いつの間にか一変していた。
全員の視線が、黒板とその前に立つツバキの姿に集中している。
「えー……つまり、俺たちは今、完全に閉じ込められてるってこと」
低く、静かな一言が落ちた瞬間、教室内の空気はぴんと張り詰めた。
この“異常”が、ただの悪ふざけでないことを、ようやく全員が実感し始めたのだった。
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