悪夢
カーテンの閉じられた部屋に、ぼんやりとテレビの音が流れていた。
32インチの画面には見慣れたクイズのバラエティ番組。その声が夜の帳をまとうアパートの一室で、小さく生活のリズムを刻んでいた。
平たいクッションに座り、パジャマ姿でくつろぐ少女が一人。
夜を小さく彩る空間。そんな穏やかな空気を切り裂くように、ガラリと引き戸が開いた。
「おお。何があったんだ。珍しく慌てていたが」
帰ってきたツバキに、リーゼがぽつりと投げかける。
「それがね? ギルド関係の事で色々あってさ。いやぁ久々にワー! って叫んだ気がする」
荷物を端に置き、タンスを漁るツバキの声。
せっせと着替えを抱えて、そのまま洗面所に消えた。
数分後、戻ってきた彼は、まだ少し髪の水気を残したまま、リーゼの隣へ腰を下ろす。
「いただきまーす」
テーブルの前で両手を合わせ、湯気の立つ煮物に箸を伸ばす。春野菜をふんだんに使ったそれを、一口食べて目を細めた。
「……うま」
思わずこぼれる声に、リーゼが口元だけで小さく笑う。
ふいに、ツバキが箸を止めて顔を上げた。
「そうだ、知り合いに転移魔法を使う人っていない?」
「……転移魔法?」
言葉の選び方が、どこか慎重だった。
「そんなすごい魔法を使うやつ__」
リーゼは眉をひそめたまま、しばし沈黙する。
過去の記憶を手繰り寄せるように視線を彷徨わせた。
「あ」
「お?」
二人の視線が一言で重なった。
「そういえば……一年生の最後だったか、中退した生徒がいたんだが、確かそいつ、転移魔法を使うって噂があったような……なかったような」
「名前は?」
「喋ったことないから忘れた。そもそも別のクラスだったし……。さっきの遠出していたやつと関係があるのか」
「ちょっとね。だけど話せない情報が多いんだよね」
言葉を濁しながら、煮物を一口つまむ。
さっきまでの朗らかな空気が、少しだけ薄くなる。
「とりあえず気をつけといて」
「ああ」
リーゼはそれ以上は追及せず、マグカップを手に取り、また黙ってツバキを見つめた。
その夜。
部屋はしんと静まり返っていた。
窓の隙間から洩れる月光が、白い筋となってフローリングに落ちている。
シングルベッドの上でリーゼは一人、天井を見つめていた。
その横で眠るツバキの寝息が、淡いリズムを刻んでいる。
「しかし、“変なこと”か……」
ふと脳裏に蘇る、レイスの囁き。
「何のことだったんだ」
夜の静寂は返事をしない。
結局、何を指しているのかわからないまま、涼しい夜風を肌に、静かに目を閉じた。
__ふと、微かな音が混ざった。
「……リン……ェ」
「……なんだ」
寝言だった。
最初は聞き違いかと思ったが、もう一度。
「……リンネ……」
自分の名ではなかった。
誰かの__初めて聞く名前。
リーゼは、気づけば身を起こしていた。
「誰だ、そいつ」
だが、返事があるはずもない。
ツバキは眉をしかめたまま、うわ言のように小さく呟き続けていた。
「ぉめん。あぁ……」
その声には明らかに、苦しみが滲んでいた。
身体を小さく縮こまらせ、震えるように寝返りを打つ。
リーゼの視界に、揺らめく魔力の波が見えた。
いつも穏やかで整っていたそれが、今は酷く乱れている。
怒り、悲しみ、そして__恐怖。
まるで、悪夢に飲まれているようだった。
「……ツバキ」
落ち着きが消えた彼の体は、気がつけば、こちらを向いていた。
痙攣するように震えた両手。
リーゼはいつの間にか、手を伸ばしていた。
自分の手よりも暖かく、そして大きな両手を、包み込むように、ぎゅっと握りしめた。
「……止まった」
震えが収まった。寝息も、寝顔も、よく知るツバキの能天気なものに戻っていた。
心のどこかでホッとした自分もまた、深い眠りについた。
4月15日金曜日 5時22分
「…………あれ」
ツバキが静かに目を開けた。
窓の隙間から差し込む朝の光が、まだ薄い部屋の空気をわずかに染めている。
自分の手が、何かに握られていた。
その柔らかな温もりに目を向けると、リーゼが穏やかな寝息を立てていた。
その手は、ツバキの両手を包み込むように重なっていた。
理由は思い当たらないが、そっと手を解いて起こさぬよう慎重にベッドを抜け出す。
「ふぁぁ……」
床に足をつけると、無意識のうちにテレビ脇の引き戸へと歩を進めていた。
強い眠気に足を引かれながらも、いつもの日課__重力修行へと向かう。
そんな背中に、ふいに声がかかった。
「おはよう」
振り返ると、リーゼが寝起きの髪を少し乱したまま、こちらを見ていた。
「あ、おはよう……起こしちゃった?」
「いや、もう十分寝たさ」
まだ眠そうなツバキとは対照的に、リーゼは元気そうに目を覚ましていた。
一つ間を空け、リーゼが少しだけ目を伏せる。
言いづらそうに呟いた。
「……リンネって、誰だ」
「え……」
ツバキの表情が、一瞬で固まる。
「どうして」
目が泳ぎ、言葉を探すように口がわずかに開いては閉じた。
その動揺を見逃さず、リーゼは静かに詰め寄る。
「ずっと苦しそうに呼んでたぞ……誰なんだ」
「あぁ……そっか」
ツバキは観念したように、どこか遠くを見るような目で答えた。
「俺の、妹」
「妹? お前に妹がいたのか」
リーゼが小さく呟く。初耳だった。
「うん。いつも強気なんだけど、けっこうドジな子でさ。……可愛かった」
そこまで語ったツバキの声音が、ふと陰を帯びた。
「その子は、その、元気にしてるか」
昨晩のツバキの様子からして、いい予感はしなかった。それでも、小さな希望をかけて聞いてみたくなった。
「……もう、亡くなってる」
ツバキは淡々と、それでいて、わずかに霞んだ声で言う。
「そうか__」
「それじゃあ修行してくるね」
食い気味に言い残して振り返る、その背中はどこか、逃げるようにも見えた。
引き戸の先へと消える音が、やけに静かに聞こえた。
一人残された部屋の中。
リーゼはゆっくりと立ち上がり、冷めかけた朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「やっぱり……わからん」
よくわからない気持ちが胸に浮かんだまま、リーゼはキッチンへと向かった。
今日の朝食には、いつもよりちょっとだけ、丁寧に手間をかける気分になっていた。