限界突破【虚大魔】
4月14日水曜日 20時34分
カレストロギルドのスタッフルームは、静かに沈んでいた。
壁に掛けられた時計の針が、八時三十四分を示す。
その下で、オーレスとニコレスが黙ったまま資料を見つめていた。
「ただいま戻りました!」
扉が開き、ツバキの声が響く。
次の瞬間、積み重なった静寂を突き破るように、椅子が二つ音を立てて引かれた。
「ツバキ君!」
「おかえり!」
ニコレスは、思わず手元のペンを落としながら立ち上がった。
緊張の糸が解けたのか、肩をひとつすくめて小さく息をつく。
「無事で良かった……」
「言ったでしょ? 大丈夫ですって」
ツバキは笑いながら、オーレスと拳を軽く合わせる。
だが、その後ろでニコレスの目が時計に移った。
「たったの三時間半か……随分と早いな」
「迷わず行けたらこんなもんですよ。ちょっと喉痛めましたけど。それより、色々分かった事があるんで報告を」
「疲れただろう。こっちでまとめておくから」
「自分の感覚じゃないと、説明できない箇所が多いんです。やります」
「……わかった。報告書の作成も、どのみち覚えてもらう予定だ。教えながらやってもらおう」
ニコレスはPCからアプリを立ち上げ、ツバキが座る隣から指示を出し、ツバキは手際よくデータを打ち込んでいく。
「洞窟の中で魔法の実験か……こんな深くまでどうやって来たんだ。来るにしろ逃げるにしろ、転移魔法がなければ難しいように思う」
「転移魔法……」
いつものように軽い口調ではなく、分析者としての声色に切り替わるオーレス。
「転移魔法か……そんな高度な魔法。使える者はかなり限られます。少し調べれば特定できるでしょう」
ニコレスも同様に、既に一歩先を見据えていた。
「魔獣との意思疎通も興味深いね。動画では何も喋ってないように見えるが。本当に聞こえたんだね?」
「はい。単語を一つ一つ喋ってて、言葉を喋るっていうより、概念をそのまま伝えてるって感じでした」
ふとツバキの中に浮かんだ、ゴラゴンとの会話。
『小 僧 魔 法 使 用』
__小僧。という言葉が脳裏で引っかかった。
「そういえば、魔法を使ってた人のことを、小僧って呼んでました」
「小僧……か。巨大な魔獣から見れば、人間は皆そうかもしれないが、覚えとくよ。それも書いておこうか」
添付した動画データも確認しつつ、情報を打ち込んでいく。そんなタイピング音が響くスタッフルームに、その空気を破るように、別室からぬるりと足音が近づいてくる。
「なんか騒がしいと思ったら、ツバキが来てたのか」
「あ、フェクターさん」
仮眠室から現れたフェクターは、パジャマ姿で寝癖のついた髪をかきながら、眠たげな声でそう言った。足元はスリッパ、肩には毛布がかかっている。完全に寝起きだ。
「ニコレスまだ時間かかるの? 早く帰ろうよ」
「ちょっと待て。今は重要な情報を精査しているところだ」
ニコレスは目を離さずにPCの画面を睨みつけたまま応じる。語調は柔らかいが、仕事中の集中力は崩していない。
「フェクター君、お菓子いるかい?」
横で様子を見ていたオーレスが、気を利かせて声をかける。
その瞬間、フェクターの表情が一変した。
「ほんと? いるいる!」
声のトーンが跳ね上がり、毛布を脱ぎ捨ててパタパタとオーレスの後を追う。
だが、部屋を出ようとしたそのとき。ふと、視線がPCモニターに映る動画の一時停止画に吸い寄せられた。
「ん? 懐かしい顔だ」
画面に映る、岩陰からこちらを睨むように覗き込んでいたトカゲ型魔獣。その姿にフェクターが足を止める。
「知ってるんですか?!」
ツバキが思わず声を上げた。
その問いにフェクターはごく自然に頷く。
「昔、器を探してる時に見かけた子だよ。あの時はもっと若々しかったんだけどねぇ。前の器の龍と同じで、もうヨボヨボだ。よく生きてるよ」
フェクターの表情がわずかに引き締まる。
その視線は魔獣に向けられていたはずなのに、いつの間にかツバキの方へと移っていた。
「……あー。この強引に起こされた感じ、魔獣活性化の影響が大きく出てるね」
「あ……やっぱり?」
言葉を置くように呟いたその分析に、ツバキはわかっていたように頷いた。
「ってことは、俺が龍を倒した、えー、三月二十日から、昨日の間に実験してたってことになりますか。……こんなもんですかね」
ツバキの言葉に、ニコレスが横で唸るように呟いた。
「うん、いいと思う。主観的な補足もあるが、物的証拠だけでも十分にみれる。あとはこちらで纏めて、警察にも捜査を依頼する」
ニコレスはスクリーンを見つめたまま、静かに告げる。すでに報告書の構成まで頭に入っているようだった。
「お願いします。それとなんですけど」
ツバキは、テーブルに置かれていたポリ袋入りの魔導書を手に取ると、ニコレスのほうへ顔を向けた。
「この本持って帰ってもいいですか?」
ニコレスは視線だけを向ける。
「どうするんだ」
「家に今の言葉で書かれた同じ本があるんですよ。魔法の専門家に見てもらいます」
「そうなのか……こちらでも専門家に共有するつもりだが、信頼できるのか。その人は」
「はい。たぶん世界一です」
あまりにも即答で、しかもさらっと断言されて、ニコレスは軽く息を吐いた。
「言うじゃないか……なら、頼む」
ツバキはぺこりと頭を下げ、スタッフルームで荷物をまとめる。ドアへ向かおうとしたその背中に、ニコレスがふと問いかけた。
「ちなみにその、専門家というのは……」
「トルモさんです。お疲れ様です!」
片手を挙げて、ツバキは笑顔のまま部屋を出ていく。
ニコレスはその後ろ姿を見送ったあと、静かに呟いた。
「……はぁ……お疲れ」
気だるげにペットボトルのコーヒーを飲んでいると、ツバキと入れ違うように、オーレスが戻ってくる。後ろにはフェクターもついたままだ。
「あれ? あの本持っていっちゃったの?」
「あぁ。はい。見てもらうって言うもんですから」
「そうなんだ……誰に」
「確か、トルモと言っていました」
「ん……?」
だが数秒後、二人の間に、ふと何かが引っかかる。
「トルモ……?」
オーレスがその名を呟いた時には、すでに扉の向こうは静まり返っていた。
***
「ただいまー」
玄関の扉が開き、ツバキの声が響いた。
だが、その声に驚く者はいない。
すでにキッチンでお茶を飲んでいたリーゼが、顔だけこちらを向ける。
「ん。ご飯できてるぞ」
「ちょっと後で!」
ツバキは彼女の背中に返事を投げると同時に、背負った荷物をそのままに室内を駆け抜けた。
本棚の前で足を止め、一冊の魔導書を素早く抜き取る。
そして迷いなく奥の引き戸を開け、トルモ宅へと姿を消した。
「なんだ。随分と早いと思ったが忙しそうだな」
そうぼやきつつも、リーゼはひと口、ぬるくなったお茶を飲み干した。
「トルモさん!」
勢いよく扉を開け、ツバキがリビングに飛び込む。
ソファで足を投げ出していたトルモが、ゆっくりと首だけ動かして振り返った。
「なんじゃそんな慌てて」
「この本知りませんか」
ツバキがリュックをがさっと開き、濡れたポリ袋ごと魔導書を取り出して、テーブルに置く。
その表紙を一瞥した瞬間。
トルモのまなざしが明らかに変わった。
「……な、その本、一体どこで」
トルモの声が、低く強ばった。
「あ、やっぱ知ってます?」
ツバキは苦笑しながら、もう一冊の魔導書を取り出し、机の上に並べる。
「左が洞窟で見つけたやつで、右がうちにあったほう。で、見比べてみたらですねぇ」
指でページをパラパラとめくり、止めたのは、翻訳版では終わっていたはずの最終章のその先。
「こっちには、まだ続きがあって。ここなんですけど」
言いながら、魔力の流れを示すような不穏な図解を指差す。
それを一目見た瞬間、トルモの表情が凍りついた。
「このページはの……」
「トルモさん?」
ツバキが顔を覗き込むと、師匠はゆっくりと言葉を吐き出す。
「訳すならそう……“虚大魔”」
「……キョダイマ?」
その響きに、どこか胸騒ぎを覚えながらも、ツバキは問い返す。
トルモはわずかに頷き、質問を投げる。
「ツバキ君。魔法は限界まで使うと、どうなる?」
「え? ……限界まで使ったら、体がぐっとダルくなるんですよね。魔力がなくならないように」
「その通り。魔力が枯渇するより前に、身体が自動でストップをかける。そうしなければ、使用者は……命を落とすからの」
魔力についての復習がてら、基本的な仕組みを答えていくのだが、本にもそれを示すような絵が載っている。
それを辿るようにして説明は進んでいくのだが、
「それが生き物の、本来の限界じゃ」
トルモは険しい形相で、語り出した。
「しかし、その可能性の扉を打ち破り突破した者は、一段も二段も遥かに強化された魔法を、魔素が尽きるまで扱えるようになる」
「限界突破……ですか」
ツバキの口から漏れたその言葉を受けて、トルモの声色は一層重くなる。
「そしてその限界すらを超え、完全に魔素が失われたその瞬間、痛みも苦しみもない。一瞬の死が待っておる」
静かな言葉だったが、そこには底知れない重みがあった。
ツバキが黙ったままページを見下ろすと、そこには黒々と渦を巻くようなイラストがあった。
まるで、深淵そのものを描いたような構図。言葉にできない禍々しさがそこには宿っていた。
「この力が広まるのはあまりに危険だった。コツさえ掴んでしまえば、代償の割に簡単に扱うことができてしまう」
トルモの目が険しくなる。
「じゃから、翻訳版を作る時には省いた。原本の存在など、もう忘れ去られているものかと思っていたのじゃが……なぜこんなところに」
眉を顰めて不服そうにするトルモ。机を挟んだその先で、ツバキが言う。
「壁外の洞窟で誰かが練習してたみたいです。ずっと同じ魔力の持ち主を探してるんですけど、全然見つからなくて」
路頭に迷い、腰を落としてテーブル肘をつくツバキ。
思考を凝らすその弟子の頭に、トルモが一言かけた。
「そりゃ見つからんわ」
「え?」
トルモは、ふっと花を鳴らした。
「虚大魔によって変換された魔力は、通常のそれとは性質が違うんじゃ。魔力感知で同じものは探せんじゃろうな」
トルモの言葉に、ツバキは納得したように、大きく目を見開き、肘をついたまま両手を合わせた。
「あ、そっか……! だから世界中探しても見つからないんだ。貴重な情報、ありがとうございます!」
「ん? 世界中?」
サラッととんでもない事を言ったようなツバキ。彼はは早々に飛び出して帰っていった。
***
その夜__
光の乏しい一室。
月明かりだけが、薄く、静かに差し込んでいる。
カーテンは隙間から垂れ下がり、床には脱ぎ捨てられた制服の上着。
棚には参考書と漫画、ベッド脇には充電中のスマホ。
一見すれば、どこにでもある高校生の部屋だった。
だが、椅子に腰掛けた少年の瞳だけが、そこに似つかわしくなかった。
「もうすぐ……もうすぐだ。俺の復讐が、終わる」
月明かりが、窓際に座るその横顔を照らす。
頬を伝った一筋の涙が、ゆっくりと机の上に落ちた。