魔法実験の痕跡
会社支給のスマホに映る赤いピンを頼りに、ツバキは樹海を一直線に駆け抜けた。
その先__岩壁の裂け目が、夕焼けを吸い込むように口を開けている。
「ああ……」
漏れたのは思わずの独り言。視覚に飛び込んできたのは底の知れない闇。どこまでも続くような漆黒の奥行きだった。
魔力感知を使えば、視界がなくとも周囲の構造や空間の広がりはおぼろげに読みとれる。
実際、目を閉じれば洞窟の内部が淡く浮かび上がるように脳裏に広がった。
「あれかあ」
空間の一角に異様な魔力の残滓が見える。自然なものとは明らかに異なる、誰かの意思で放たれた魔力だ。
ツバキは眉をひそめ、慎重に洞窟へと足を踏み入れた。
「さっすがにリュック一つは舐めすぎたかなぁ」
スマホのライトで足元を照らしながら足取りを早める。
魔力感知で洞窟の構造は追えても、湿った岩肌の滑りやすさまでは読めない。
「……よくドローン通せたなぁ。操縦してた人は天才かな」
感心と警戒をない交ぜにしながら、奥へ奥へと進んでいく。
道は複雑に入り組み、ぬかるんだ床に足を取られそうになる。
そんな時だった。
「うおわっ?!」
不意に足裏が滑った。反射的に体をひねるも遅く、バランスを崩して腰から地面に叩きつけられる。
ツバキの体は斜面に沿って加速していった。
「うおああ!」
岩面の滑り台の先に、ぽっかりと開いた空洞が迫ってくる。
そして__地面が、なくなった。
「すぅ……」
一瞬、体が宙に浮いた。
そのまま、容赦なく重力に引きずり下ろされ__
「おおおお!」
息もできぬまま、ツバキの身体は十数メートルの高さから空洞の底へと真っ逆さまに落ちていった。
下から吹き付ける風を感じるのも束の間、
ドスッ!
鈍い音とともに、背中から勢いよく落下した。
「……あっぶなぁ。そりゃ死ぬよなこんなの」
仰向けに転がったまま、滑り落ちてきた天井を見上げる。
普通の人間があの高さから落ちれば、間違いなく死んでいた。
『入念に計画しなければ、死者が出る』
ギルドでニコレスが言った言葉はこういうことだろう。それでも自分なら大丈夫なのだと、ツバキは息を吐いた。
しかし、恐怖よりも先に込み上げてきたのは__
「なんか、ワクワクしてきた」
この未知の空間に放り込まれたという非日常感が、心の奥底をくすぐる。
闇に包まれた場所、湿気の重さ、そして何かが潜んでいる気配。
どれもが、ツバキの感覚を研ぎ澄ませるには十分だった。
ふと、周囲を見渡して気づく。
「ん……? ここ、目的地か」
感知で把握していた空間構造とも一致する。
この場所から発せられていた魔力の残滓は、今も空気の中にうっすらと漂っていた。
そして何より、他の空間と異なるのは光。
天井の岩の隙間から、どこか淡く乳白色のような輝きが漏れ出している。
人工的な灯りではないが、魔素の反射か、あるいは自然光の名残か。
そのぼんやりとした光が広大な空洞の奥行きを朧げに照らしていた。
「この魔力。やっぱり人がいたんだな……」
ツバキは目を細め、空気に集中した。
魔素の密度、粒子の色、残響する波長。どれもが、ただの自然発生とは明らかに異なる。
それは、人間の錬臓を通過した魔力だけが持つわずかな熱の名残だった。
「……あれは」
感知した違和感を追い、ツバキは静かに足を踏み出す。
空間の奥に異質な気配が確かにあった。
滑らかな岩の出っ張り。ちょうど机のような形をしており、横には腰をかけられそうな小さな窪みがある。
そして、ツバキの目がある一点で止まった。
「ポテチじゃーん」
思わず声に出し、直後に苦笑が漏れた。
ぽつんと置かれたのは、裏側から開封されたポテトチップスの袋。中には数枚分の欠けた芋がまだ残っている。
それは、どこにでもあるような市販品。見慣れたパッケージ。コンビニやスーパーの棚にあるべき物だった。
「賞味期限は……あと半年。ってことは、来たのは最近か」
ツバキは袋の端に印字された日付を読み取る。
こんな閉ざされた空間にまで持ち込んで、菓子を食べていた__あまりに現実感のない光景に、思わず眉をひそめる。
だが同時に、これは紛れもなく人がここにいたという確かな証拠だった。
ツバキはリュックから軍手を取り出し、手にはめる。
軽く指を鳴らし、汚染防止用のポリ袋も用意。
袋に触れないように、軍手の指先でポテチのパッケージをつまみ、ゆっくりとポリ袋へと滑り込ませた。
湿った空間に、ビニールが擦れる乾いた音が響いた。
「それでこっちは……ん?」
ポテチのすぐ隣に、不釣り合いな重みを持った物があった。
厚手の紙で綴じられた、一冊の書物。
表紙はひどく色褪せ、角は擦り切れ、紙の端には古びた黄ばみが染みついている。
ツバキは慎重にそれを手に取り、表紙を眺めた瞬間、目を細めた。
「これ……トルモさんの魔導書だ」
その感触、その厚み、その独特な装飾。
幼い頃、魔法の勉強をしようと何度もページをめくり読み込んだものだ。
「けど知らない言葉なんだよなぁ。翻訳前……ってことかな?」
ぽつりとつぶやいた声に自分でも違和感を覚える。
本来“魔導書”と、まんまのタイトルがつけられている本書だが、それが全く知らない言葉で記されている。
じわりと背筋を撫でる感覚と共に、指でページをめくっていった。
原語以外、懐かしい記憶で溢れたページの流れがある一点で止まる。
「……あれ」
本来なら終わりのページ。
そこから先に、見覚えのないページが続いていた。
「こんなんあったっけ」
ごくり、と喉が鳴る。
ページの縁にそっと指を添え、めくる動作が、自然と慎重さを帯びる。
劣化した紙がふわりと浮き、空気をはらんで揺れた。その時だった。
____ふと、背後から微細な魔力が光る。
瞬間、それが熱を帯びて迫ってきた。
ツバキはそれを確認もしないまま、ページをめくろうとした指を光弾へと向ける。
ぱしっと弾いた音がして弾は真横へ逸れた。洞窟の壁で小さく爆ぜる音を残して消える。
「勝手にお邪魔してすみません」
まるで図書室の戸棚を勝手に開けてしまったかのような口調で、本を静かに閉じる。
そしてようやく、背後を振り返ると、そこには__異形がいた。
『想 定 外』
その言葉は、声というにはあまりに低く、重く、まるで地の底から這い出るような、鈍い響きが頭蓋を揺らす。
実際に耳で聞いたわけではない。
“届いた”という感覚だけが、脳の芯に残った。
闇の淵から、何かが現れた。
像をも凌ぐ一本の脚。鱗と苔が溶け合った装甲が、淡い灯りを撥ね返す。
めきっ。
足裏が洞床を押し潰す鈍音。だが巨体はまだ闇の奥で全容を見せない。
崩れた岩が遅れて砕け、粉塵だけが白く舞った。
「魔獣……?」
まるで古代種の龍を思わせる重厚な防壁。だが、翼はなく、骨のような角も見当たらない。
巨龍の鱗だけを残したまま、四足獣に凝縮したようなシルエット。そして、再び響く。
『…………再 度 睡 眠 邪 魔 者 在 リ』
声ではない。
それは、意識に直接染み込むような“概念”だった。
一言一言が意味というより、存在の意志として圧し掛かってくる。
ツバキはそれを、敵意というより、苛立ちとして感じ取っていた。
まるで眠りを妨げられた老人のような、重たく、だが明確な不満。
洞窟の空気が、瞬く間に濃密に変わる。
ツバキは、静かに息を吸い込んだ。
「……えっと」
声に出した自分の声が、あまりに場違いに感じられて、ツバキは自分でも戸惑った。
目の前の存在は、あまりに異質だ。だが__論理がある。
会話が可能かもしれない存在だと理解できた。
魔獣というよりかは、異国の言葉を操る知的生命体に近い。
ツバキの喉が、ごくりと音を立てて動いた。
「……あの、俺の言葉、わかりますか?」
声に最大限の柔らかさを乗せる。
刺激しないよう、怒らせないよう、言葉を一語一語、紡ぐように。初対面の外国人に話しかけるような、その慎重さで。
『……貴 方 言 語 理 解』
確かにそこに、知性があった。
ただの音ではない。文脈と、意志と、対象を識別する力がある。
ツバキの中で、強張っていたものが一気に解ける。
安心__その一瞬の気の緩みは、あまりに早すぎた。
『……邪 魔 者 排 除』
ツバキの背筋にゾッと冷たいものが走った。
再び響いた魔獣の思念は、容赦なく冷たい。
冷ややかな眼は、ハッキリとこちらを捉えていた。
「ちょっと、まって! ストップ!」
咄嗟の叫びが飛び出す。
『弱 者 命 令 資 格 無 シ』
しかしその返答は、鋼のように冷たかった。