放課後の帰り道
4月14日水曜日 16時23分
魔獣襲撃から二日。
全国のニュースでは「防壁警報は二十年ぶり」と繰り返していたが、サイレンは三十秒で止み、SNSの憶測も、激しい情報の波に流されていった。
午後の下校時刻。
学校近くの通りには、立ち並ぶビルの飲食店から、焼き鳥や焼肉の匂いが漂っていた。
香ばしい煙が夕方の風に乗って流れ、通りを歩く生徒たちの腹をさりげなく刺激する。
ツバキとリーゼは、そんな帰宅ラッシュの中をいつものように並んで歩いていた。
そこへ、背後から声が飛ぶ。
「おーいツバキー!」
夕暮れの雑踏に、ひときわ元気な声が響いた。
振り返るより先に、ツバキの耳がタレックの足音を拾う。その背後には、レイスとマオの姿も見えた。
「なあ、二人っていつも一緒にいるけどさ、どういう関係なんだ? 兄妹ってわけじゃなさそうだし……」
出会って早々突拍子もない質問に、ツバキは特に気にするふうもなく、いつもの調子で答えた。
「あー。俺は家族でいいと思うんだけど、リーゼはどう?」
「えぇ?!」
不意に振られた問いに、リーゼは思わず足を止める。大きく見開いた目が、ツバキをまっすぐに捉えていた。
「いや、私が自分の都合で勝手に住んでるだけだから、私が居候なだけ……で」
「ってことみたい」
何食わぬ顔で補足するツバキ。その様子に、マオが首を傾げた。
「ん? 同じところで住んでるん? なんか、結構複雑な関係……?」
「まあ、ちょっとね」
柔らかく笑ってみせるその横顔を、レイスがじっと見つめていた。
「最近出会った一人暮らしの男の家に居候ねぇ……。リーゼちゃん?」
レイスがふっと歩調を上げ、自然な流れでリーゼの隣へと並ぶ。そして、誰にも聞こえないように、声を潜めて耳元へ顔を寄せた。
「ねぇ……何か変なことされてない?」
その声は、小さく、それでいて真剣だった。穏やかな口調に隠してはいたが、その奥には、同じ女としての警戒と懸念が滲んでいた。
しかし、そんな心配を前に、リーゼはキョトンとしていた。
「ん? ……変なこと? 今のところは特にはないが……まさか、何か思い当たることが?」
リーゼが首をかしげる。意味が通じていない__と悟り、レイスは息を吸って、ツバキに視線を投げた。
「ツバキ君。あんまり細かい事情は聞かないけどね。この子は、大事にしなさいよ」
その言葉に、説教じみた響きはなかった。ただ、まだ未熟なリーゼのそばにいる彼への、ひとつの願いだった。
「うん。家族だもん」
即答だった。迷いも、照れも、見栄もなかった。
当たり前のように口にされたその言葉に、リーゼは視線を伏せ、頬をわずかに染めた。
「わぁ……」
レイスの唇から漏れたのは、小さな感嘆。
ツバキのまっすぐな返答と、それに素直に反応するリーゼ。
危うさと無垢さが、奇妙な均衡を保っている。
まるで何か、まだ名前のない関係を見せられたようで__言葉にはできなかった。
「三人も、いつも一緒に帰ってるの?」
ツバキには少し意外な光景だった。
マオはともかく、レイスとタレックの間には、言葉にできない火花のようなものがある。あまり行動を共にする印象はなかった。
「偶然こいつがいただけよ」
「お前が勝手について来るんだろ」
言い合いのようで、歩調はぴたりと揃っていた。
意識しないで、足取りだけは自然と噛み合っている。そんな不思議な温度だった。
「リーゼちゃんとは二年間、あまり話す機会がなかったからね。どんな子かちゃんと知りたかったの」
「俺も同じく。一人だとささっと行っちゃうし、こうやってツバキと一緒なら話せるんじゃないかって思ってな」
言い方こそ違えど、伝えようとしてることはほとんど同じだ。それが可笑しかったのか、マオは一歩後ろで小さく笑っていた。
「そ、そうなんだ」
リーゼは小さく俯き、右手の指先でそっと頬をなぞる。
ぎこちない動きだったが、影が落ちた顔は、自然と緩んでいた。
ただ、この感情をどう処理すればいいのか。
そんな揺れが、微かに滲んでいた。
しばらく歩くと、歩道の先に地下鉄へと続く階段が見えてきた。
「じゃあまた明日な!」
タレックが大きく手を振る。マオもその隣で軽く手を上げ、レイスは視線でそれに応えていた。
ツバキも同じように手を振り返す。
ナサラべ駅。看板の下では、人の波が地下へ吸い込まれていく。
何気ない分かれ道。しかし今日は、そこに少しだけ、特別な空気が混ざっていた。
三人と別れ、ふたたびツバキとリーゼだけの帰り道になった。
夕日がビルの隙間を縫って、道に斜めの光を落としている。
その中で、リーゼはじっと横顔を見つめていた。
そして、言葉を選ぶでもなく、素直に思ったままをぶつける。
「貴っ様ぁ……。さっきは家族だのなんだの、適当言いやがってぇ……」
言いながら、頬はわずかに赤い。
睨みつけるような目も、完全な怒りとは違っていた。
「俺は本当だもん。家族だと思ってる」
ツバキは飄々とした調子で、さらりと答えた。
その口調はあまりに自然で、逆にリーゼの方が言葉を詰まらせる。
「こいつ……」
舌打ちとともに、歩幅が一歩ずれた。
そんな折、ふと何かを思い出したように、リーゼの目が大きく開いた。
「はっ?! そうだ」
急に立ち止まり、真顔で言う。
「貴様、さっきレイスに言われたぞ。変なことされてないかって」
「ん? 変なこと? 俺がリーゼに?」
ツバキは、本気で首を傾げた。
悪びれた様子も、はぐらかすような気配もない。ただ純粋に、思い当たらなかった。
「ああ。何か……したのか」
「変なこと……えー変なこと……」
ツバキは腕を組んで、しばし考え込む。
そして、ぽつりと何かを思い出したように呟いた。
「あ」
「なんだ」
その声に、ツバキは遠慮もなく告げた。
「ごめん。今日はリーゼのシャンプー使ってみた」
「は?」
リーゼの声が一段高く跳ねた。
「か、勝手に使ったのか貴様」
「ちょっと気になっちゃって。でもね。俺が使ってる方よりなーんかさらっとするんだよな。いや、つるっとかな」
悪びれもせず、素直に感想まで述べる。
リーゼはもはや、呆れを通り越し、何か言いかけてから大きくため息をついた。
「は、はぁ。別にいいんだが」
怒鳴るわけでも、笑うわけでもない。
ただ、少し拍子抜けしたような表情を浮かべた。
__レイスの一歩先を超えた懸念は、結果として、何気ない日常の雑談へと帰結していった。
学校近くの喧騒が背後へと遠ざかり、ふたりの足が静かな住宅街へと踏み入れていく。
ざわめく駅前の音は次第に薄れ、その代わりに、夕餉の支度を知らせる香りや、遠くの子どもたちの笑い声が耳をくすぐる。
ツバキとリーゼは、いつもの分かれ道に差しかかっていた。
「そろそろ俺も行くよ」
歩みを緩めたツバキに、リーゼも自然と足を止める。
「今日は初めての出勤なのだろう。遅くなるのか?」
「多分。それじゃあね」
簡素なやり取り。それでもそこには、日々を重ねるごとに形作られた、ふたりだけの穏やかな習慣があった。
別れの言葉も、戻る時刻も、歩幅さえも__静かに揃ってきている。
ツバキは手をひらりと振り、リーゼもそれに倣って、ぎこちなく返す。
街灯が静かに灯り始める中、ふたりの影がゆっくりと、別々の方向へとほどけていった。
ツバキは一人、夜景に変わりつつある街を行く。
無数のノイズが支配する頭の中で、一際目立つ反応にツバキは空を仰いだ。
「……今の魔力。なんだろ」
ぽつりと呟きながら、ツバキは早足になって向かう。
目的地は“GUILDLINEカレストロ支店”。ニコレスに誘われた会社。今日がその初出勤である。