カレストロ防衛線
「…………」
4月12日月曜日 13時33分
太陽は天頂をわずかに過ぎ、空の高みから力強い光を降り注いでいた。
少年は、静かに遠くを見据えている。
壁を囲む森の、さらにその外側に広がるひび割れた黒いアスファルトと、その遥か先に立ち昇る土煙、そして、その中でうごめく無数の獣たち。
姿はまだ影のようだが、それは確実にこちらへ迫っていた。
ツバキはその場にどっしりと構えたまま、大きく息を吸い込み、それをさらに長く吐き出す。
「すぅ……はぁ…………」
呼吸に意識を逸らしながら、心のざわめきを押さえつける。飛び出す瞬間に備えて、そっと拳を握りしめた。
右足を一歩引いたその時、聞き覚えのある駆動音がツバキの耳を突き、後ろを振り返る。
真っ直ぐに伸びるアスファルトを、一台のバイクが疾走してした。
こちらに気づくと、徐々に速度を緩め、やがてツバキの隣に並んで止まった。
「やはり、君も来ていたか……。授業はどうしたんだ。もう五限目の時間だろう」
バイクに跨ったままツバキに声をかけたのはニコレス。それも、すでにセルディーへ変身を完了させている。ツバキの隣へと並び立った。
「遅刻です。魔獣を倒して戻ります」
「……すまないな」
「謝るのは俺の方ですよ。それでは」
隣についたニコレスに軽く会釈して、再び飛び出そうとした。
「ちょっと待ちなよ」
突如割って入ったのは、ツバキの知る声だった。
反射的に顔を向けると、ニコレスの身体がぼんやりと光を帯び、そこから地面に向かって粒子が溢れ出し、人の形を取っていった。
「……フェクターさんですか」
目の前に立つ、貧相な少年。ツバキは迷わずその名を呼んだ。
「おや、覚えてくれてたんだ。嬉しいね」
鼻で笑うフェクター。だがツバキは、表情を変えずに続けた。
「色々聞きたいことはあるんですけど、それどころじゃないですね」
なぜ倒したはずの存在が、今ここにいるのか。
なぜ、ニコレスから現れたのか。
理由も、仕組みも、ツバキの中で疑問が渦巻いた。
だが、すぐに飲み込む。今は戦場だ。
「ちょうどさっき色々とあってね。後でまた話すよ」
「お願いします」
ニコレスが言う。
ツバキは一つだけ頷き、心の整理をつけた。
「早速だけどこの戦い、ニコレスに譲ってもらっていいかい?」
唐突な申し出。
ツバキは小柄なフェクターをじっと見つめた。
「……やめておきます。二百体はいるんです。軍やギルドの戦力じゃ止められません」
「だってさ、ニコレス」
フェクターが軽く肩をすくめる。
ツバキの断りは、和やかさの裏に鋭い現実を突き刺していた。
「それは……わかっている」
低く、しぼり出すような声だった。ニコレスの拳は、わずかに震えている。
少しの沈黙の後、彼は吐き捨てるように続けた。
「はっきりいってこの異常事態。__今、君がいなければ、街に魔獣の侵入を許していたところだ」
それでもツバキを見据えるその目には、強い責任感が宿っていた。
「しかし……これは本来、私に課された役目だ。君のような子供が背負っていい問題じゃない」
自分に言い聞かせるような、わずかに震える口調。
ニコレスはバイクの荷台へ手を伸ばし、アタッシュケースを一つ引き寄せる。
分解されて収納された銃身を、手際よく、無駄なく組み上げていく。
「だから、私は生物の頂点を目指し、君の力に頼らず安寧を手に入れてみせる」
「……本当に危なくなったら、すぐにでますからね」
最後にマガジンを装填し、ボルトを引く。
金属が擦れる冷たい音が、広大な大地に響いた。
ニコレスはスナイパーライフルを抱え、無駄な動きひとつなく、魔獣の群れへ向かって歩を進める。
「……ふぅ」
小さく、呼吸を整える。
右手の拳を顔の前で握りしめ、先の大群を見据え、スコープを覗いた。
緑の平原、清々しい晴天。静かに流れる自然の流動。
セルディーの体は、再び変化を始めた。
煌びやかな緑色に輝く複眼。
全身を覆う針山も、赤から無駄な装飾を削ぎ落としたかのような、軽やかな緑の鎧へと変わっている。
「緑になった……」
ツバキは低く呟き、さらに銃身へ視線が動いた。
構えていた黒い銃身は、まるで血管のような脈が表面を走り、金属はごつごつと荒れた有機的な形状へと変わっていく。
「へぇ。そうなるんだ」
変身の過程を見届けながら、フェクターは身体を白い光へと変え、あろうことかセルディーの中へと入っていった。
動じない彼女を見るに、初めてのことではないのだろうと、ツバキは迫る魔獣を見据えた。
一方、ニコレスもまた、精神を極限にまで集中させ、スコープ越しにやつらをとらえた。
「__僕の器に相応しいか、じっくりと拝見するとしよう」
低く呟いたフェクターの声とともに、異形の戦士は、静かに、そして確実に動き出した。
「ツバキ君。しばらく耳を塞いでおいてくれ」
そう言い、ツバキが言われた通り耳に手を当てた矢先
____ドンっ!
砲撃のような音が鳴り響き、二キロメートルは離れた位置の魔獣が撃ち抜かれた。
「ぐっ__!」
反動で大きく怯んだが、それでも手を止めることなくリロードにはいった。
そして再び、炸裂する衝撃。
地を割るような砲声が、響くたびに、感覚を研ぎ澄ませたセルディーの肩が小さく跳ねる。
だが、意識を無理やり引き戻し、射撃を続ける。
リズムを刻むように、爆音と静寂が交互に繰り返される。
セルディーの放つ銃弾は、先の魔獣を正確に、確実に貫いていった。
だが____
「応戦するしか、ないな……」
二百体を超える群れは、なおも間断なく迫ってくる。
セルディーは低く呟き、ライフルを地面にそっと置いた。
次の瞬間、緑色の異形は赤いセルディーへと姿を変え、バイクの荷台から短い木刀を取り出す。
すると、迷いなど一片もなく、魔獣の群れへと疾走した。
「…………」
ツバキは、険しい目でその背中を見送った。
彼は、既に戦闘の構えをとったまま、じっと前線を見据え続ける。
「来た……けど」
その時、背後から、地を這うような低い震動が伝わってきた。重く、鈍い鼓動のように、空気を揺らす。
ツバキは僅かに肩を揺らすが、それだけだった。顔に張りついた緊張は、微動だにしない。
震動は、次第に一定のリズムを刻み始める。戦車隊が到着したことを、ツバキは即座に悟った。
道を空けるべく、ニコレスのバイクとライフルを端へとどかす。だが、目だけは、決してニコレスから離さなかった。
__この戦いは、いつでも終わらせることができる。
しかし、彼女の戦いへの意志、そして、軍の面子にも関わる。
ツバキは即座に選ぶことができなかった。
そのもどかしさを胸に秘めながら、ツバキは自分のすぐ横を通り過ぎる戦車と軍用車の列を、静かに見送った。
***
通常の動物とは、サイズも、形状も、色も、すべてが歪な獣たち。
魔力によって異様な進化を遂げた群れの中へ__さらに異形の、赤い鎧を纏った人影が飛び込んだ。
「たあっ!」
宙へと跳躍した瞬間、赤い装甲が、紫を基調とした形へと変貌する。
同時に、手にしていた木刀も生物的な粘り気のある音を立てながら物質そのものを変え、見るからに鋭利な刃へと姿を変えた。
「ギェャアアン!」
嘴を持つ二足歩行の魔獣が、鉤爪を振り上げる。
その攻撃を、着地と同時に一閃__
獣の前足を縦に切り裂く。
怯んだ隙を逃さず、重みのある横薙ぎで、細い首を一撃のもとに飛ばした。
『後ろ』
脳内に響くフェクターの声。
鋭く殺気を感じたセルディーは、即座に剣を振り切る。
頭二つ分は大きいカンガルー型の魔獣の腹を斬り裂き、
さらに剣を腰に引く____
「はあっ!」
裂けた傷口に、鋭い剣先を深々と突き刺し、返り血を浴びながら短く叫ぶ。
「爆砕!」
紫に光る剣先が、魔獣の体内で一閃。
次の瞬間、魔獣は腹から爆発を起こし、吹き飛んだ。
一方その頃、道路を中心に、十台の戦車隊が展開していた。
砲塔は、戦場の中心__セルディーの両脇から押し寄せる魔獣の群れへと向けられる。
「一斉射撃開始!」
戦車隊の後方で、上背のある男が通信機越しに号令をかけた。
次の瞬間、轟音とともに砲撃が始まる。
隙間なく迫る魔獣の中へ、砲弾が容赦なく撃ち込まれていく。
肉を裂き、煙を撒き散らしながら、獣たちは次々と倒れていった。
__断末魔と黒煙にまみれた戦場。
その中心で、紫の異形の戦士は、止まることなく剣を振るい続ける。
『おいおいあの人ら僕らがいるの分かってんの?!』
フェクターの脳内ボイスに、セルディーは微動だにせず応じた。
「私の位置は常に共有されている。気にするな! はっ!」
叫びと共に剣を振る。
紫の刃が一体、そしてもう一体を倒す。
肉が裂け、血煙が視界を曇らせた。
戦車隊からの砲撃も、着弾。爆炎。獣の列に穴が開く。
……が、わずか三秒で別の個体が塞ぐ。
砲身が火を噴くたび、焦燥だけが増していった。
それからというもの、ノンストップでの戦闘が続く。やたらと長い数分が経とうとしていた。
徐々に消耗の色が、動きに滲み出てくる。
「ふぅ…………」
剣を両手に構えたまま、セルディーは、肩で息を吐く。
止むことのない魔獣の咆哮に、わずかに意識が削がれた。
『ぼーっとするな!』
脳内に響くフェクターの怒鳴り声に、ハッと意識を引き戻す。
だが、反応がわずかに遅れた。
背後から飛びかかるトラ型魔獣。
咄嗟に避けようとするが__体が、意図せぬ方向へと動いた。
『おらっ!』
剣が、力任せに振るわれる。
鋭さを欠いた太刀筋で、魔獣の腹を強引に切り裂いた。
「痛っ……?!おい! 今のはなんだ!」
『勝手に動かして悪いね! ちっちゃい体の扱いは初めてなんだ』
フェクターの声は軽いが、セルディーの肩と腕には、関節を無理に捻った痛みが走る。
操作される違和感。自分で動かしているはずの四肢が、僅かにズレた感覚。
「意図せず体が動くのは気味が悪いが、助かった。しかし、ジリ貧だ。まだ、終わるわけには__」
息が、途切れ途切れになる。
体力の限界が、確実に迫っていたその時。
地面に、不穏な音を立ててヒビが走る。
「ぐあっ?!」
次の瞬間、地面が炸裂し、顎に鋭い打撃を受ける。
異形の体が宙を舞い、剣が手を離れて吹き飛んだ。