一.賢者の弟子・前編─夢の切れはしをさがす旅
序章1話
「うわっ!?」
背中を誰かに突き飛ばされた瞬間の記憶を最後に、目が覚めた。荒い息をつきながら起き上がると、そこは見知らぬ天井、木の香りが漂うログハウス風の部屋だった。家具がやけに大きく、ベッドさえ沈むほど柔らかい。
……いや、それだけじゃない。視界が低い。体が……重くない。
「……え?」
声が出ない。いや、出たのはか細い、くぐもった赤子のような鳴き声だった。手も足も信じられないほど小さく、滑らかだった。
思わず跳ね起きようとするも、まともに動けず、シーツに倒れ込む。
夢かと頬をつねろうとして、また手のひらの小ささに打ちのめされた。
ふいに足音が近づき、扉が開く。
「おお……もう起きておったか」
現れたのは、長い白髪と髭をたくわえた老人だった。穏やかな笑みを浮かべ、のぞき込んでくる。
「あおー……」
どうやら空腹だったらしく、腹がぐぅと鳴った。老人は納得したように頷く。
「そうかそうか。ご飯の時間じゃな。少し待っておれ」
どこかで聞いたことのある“優しい爺さん”像そのままに、老人は部屋を出ていった。
……混乱している暇もないらしい。
しばらくして戻ってきた彼の手には、まさかの哺乳瓶があった。差し出されるそれに一瞬戸惑ったが、空腹に勝てず、ツバキはおとなしく口をつける。
ぬるくて、うす味。
しかし喉を通ると、不思議な安心感に包まれた。
「ふむ……さてはお主、意識があるのではないか?」
老人のひと言に、口の中のミルクを吹き出しそうになる。
「ん、あ、あー……」
慌ててごまかそうとするも、老人はニヤリと笑うと、哺乳瓶を押し戻してきた。
そして飲み終えた後、ベッドに寝かせながら、こう言った。
「もしワシの言葉が理解できるのなら、右手を挙げてみよ」
__来た。
迷うことなく、ツバキは小さな右手を上げた。
それを見た老人は、目を細めて満足げに笑った。
__目が覚めてから半年。ツバキは赤ん坊として、それでいて前世の記憶を保ったまま、この世界に慣れはじめていた。
「ふぁぁ……おはようございますトルモさん……」
「おはようツバキ君」
まだ乳児の体ながら、言葉も歩行もすでにほぼ習得済み。喋る筋肉すら自力で鍛え、発声練習までしてきた。
リビングに向かいながらブラウン管のテレビをつける。画面隅に表示された時刻は「八時二十一分」、カレンダーには「二〇〇四年一月十三日」の文字。
初めは“過去に戻ったのか?”と混乱したが、今ではほとんど受け入れかけている。
キッチンから漂う香りと、陽気な鼻歌に気を引かれて声をかけた。
「ふんふふーん♪」
「おお……やっぱ凄いですね、魔法って」
空中で舞う野菜と浮かぶ鍋。見慣れたはずの異常が、もはや朝の風景になっている。
食卓に着くと、今日もトルモ特製の離乳食が用意されていた。
「っし、いただきます」
「いただきます」
食べながら、ふとトルモが問う。
「ところでツバキ君。こないだ、君は転生したんじゃと言っておったな」
「あはい。多分ですけどね。自分がいた世界に魔法なんてなかったし、ここが別の世界……だとして、俺は十七歳だったのに、こーんなスベスベした体になっちゃったから。つまり、異世界転生したんじゃないかなって思うんです」
淡々と語るその口ぶりは、まるで他人事のようだった。
トルモがふと、食事の手を止める。
「もし、君が元の生活に戻れるなら、迷わずそうするか?」
スプーンの動きが止まる。だが、答えはすぐだった。
「戻れるならそうしますよ。あっちはまだ途中でしたもん。あいや、けど、今戻ると、いつかまた潰れちゃうんじゃないかなって思うんです」
口調は健気なほど穏やかで、それでいて、どこか遠くを見ているような声だった。
トルモが眉を寄せる。
「潰れる……というと?」
「ここにくる直前、俺、死のうかなって思ったんです」
明らかに食事中の内容ではなかったが、ツバキは続けた。
「はっきり考えたわけじゃないですよ。いつの間にかそういうふうに動いてて、ハッとして戻ろうとしたんですけど、誰かに押されて、結局死んじゃって……」
ツバキの顔に、ふっと笑みが浮かぶ。
まるで、昨日転んだ話でもしているような軽さだった。その笑顔は、場違いなほど柔らかい。
「それでトルモさん。どうしても頼みたいことがあるんです」
「なんじゃ?」
ツバキはスプーンを置き、ひと呼吸おいてから、勢いよく残りの離乳食をかき込んだ。
食べ終えたあと、小さな拳をぎゅっと握りしめて言う。
「俺のこと、鍛えてくれませんか。強くなりたいんです!」
「むぅ?!」
スプーンを落としそうになりながら、トルモが驚きの声を上げた。
「……本気で言うとるんか」
「はい! 超本気です」
ツバキの瞳は真っ直ぐだった。
年端もいかぬ幼子の顔に宿る意志の光は、どこか異様で、痛々しいほどだった。
「むぅ。……なぜ強さを求める」
トルモの問いは静かだった。
だが、その一言に込められた重みを、ツバキはきちんと受け取っていた。
「……求められてる気がするんです。強くなれ。やりきれって。このままじゃまた、どこかで潰れてやりきれなくなる。だから、強くなって生きるんです」
真っ直ぐと紡がれる誓いのような言葉。
言葉はどこか曖昧で幼くもあったが、その中に秘められた決意は、なによりも熱く燃えていた。
トルモの口元がわずかに緩む。
「そうか……しかし、よくワシに頼もうと思ったな」
「だってトルモさんは、偉大な“賢者”じゃないですか」
「よく知っとるな……それでツバキ君。君はどれ程の強さを目指す?」
ツバキの答えは決まっていた。
椅子から立ち上がり、両手を机について身を乗り出した。
「俺が目指してるのは、大事なものを守れる強さです。やるなら、最強を目指してやり切ります」
「守れる強さ……か」
俯いていた顔が、やがて静かに上がる。
トルモの中で何か踏ん切りがついたように、先までの落ち込んだ雰囲気は無くなっていた。
「分かった。いいだろう。やるなら徹底的にやるぞ。本当にいいな?!」
「え? ……はい!」
こうしてツバキは、“賢者の弟子”としての第一歩を踏み出した。
それは、かつて見た夢の切れ端をもう一度手にするための、静かな旅の始まりであった。
__世界を変える戦いへと繋がるのは、随分と後のことである。
必要な情報をコンパクトにまとめて、読みやすく……色々勉強中です。