終発点
2 終発点
傾いた景色。耳を裂いた悲鳴。握り込んだ拳にまとわりつく熱と冷気__
それらが、今も自分の鼓動を鳴らし続ける。
“呪い”という言葉は嫌いだが、それでも起こった事実は二度と消えない。
2022年 2月24日木曜日 16時40分
卒業式の予行を終えた生徒たちが右へ右へと流れていく中、椿は左へ折れた。
目の前を過ぎていく景色は何もかもがぼやけている。
音もそうだ。風の音だけがゴワゴワと鼓膜を刺激しているだけ。
「なあ椿」
背後からノイズが聞こえ、
「おーい、椿聡太さん?」
「えっ」
肩を叩かれた。
ハッと現実に引き戻され、振り返ると同じクラスの生徒がいた。
「ったく、卒業前日に一人かよ。……なんか思い残すこととかないの?」
「……あー、授業中に犬入ってきたよね。いや、猫だったっけ」
その日は冬の夕暮れだった。
用水路脇の田は凍えたまま、橙の光を薄く受けて輝いていたと記憶している。
「それだけ?」
隣で友人は、困ったように目を細める。
あまりにささやかな思い出なのだから、当然の反応だっただろう。
しかしこの時の自分にはそれぐらいしか思い浮かばなかった。
「あぁ……悪ぃ、変なこと聞いたな。でもまあ、たった三ヶ月だもんな。あ、そうだ……一人暮らしはもう慣れたか?」
自分なりに無理をしながらも呼び掛けてくれる。そんなところが少し嬉しかった。
椿もまた、口元で無理やり笑みを作るのだ。
「あんまり。多分慣れとかじゃないんだろうな」
「そっか……」
「心配ありがとうね」
哲学的に語る低い声に、友人は言い返す言葉を失くしたように目を細め、
「なんかあったら連絡しろよ。明日、卒業式だからな! 絶対来いよ!」
背を向けて去っていく。
その背中を見送る間、椿の眼差しは人の暖かさを宿していた。
やがてその影が角を曲がり視界から消えると、瞳の光が乾いた冬の風と共に静かにしぼむのだ。
駅への道中、椿は買い物袋を抱えた老人を同じ駅のホームまで送り、彼の荷物を両手から下ろす。
「いやーまた助けられちゃったよ。ありがとうね」
「どういたしまして。気をつけてね」
それだけのやり取り。
礼を受けても鼓動のリズムは変わらない。
椿は上り列車を見送り、下りホームへと降りる。
夕焼け色の構内には、自分の足音だけが反響していた。
ベンチの冷たさだけが確かだった。視線は橙の空を越えて、見えないところに落ちていた。
それを阻害したのは、構内スピーカーだった。
『一番線を快速電車が通過いたします。危険ですので、黄色い点字ブロックの内側までお下がりください』
機械の声が、空洞になった頭蓋でよく響く。
妙に落ち着く音だった。
「……よし」
無意識に前へ出ていた。荷物も持たずに、靴の先が、黄色い粒の列を踏み荒らす感触だけが生々しい。
冷たい風が耳を掠め、誰かの低い声が滲んだ。
『やりきれ』
聞き慣れた、呪いに潜む自分の声。
凍った空気が耳朶を刺し、三ヶ月前と同じ熱く冷たい体温が背骨を這い上がってきた。
「うわっ……!」
反射的に、二歩、三歩と後ろへ下がった。
全身が本能的に震え、心臓が跳ねた。
何をしようとしていたのか、自問自答する頭の中。
遅れてやってきた実感に、怒りの形相と共に歯を食いしばった。
「そうだよな……なにやってんだ」
足はすくみ目は泳ぐ。
__楽をしようとした自分を恨んだ、その瞬間だった。
ドンっ!
背中に強い感触が走った。
足が地面についていない。
誰かに強く押された。
耳をちぎる列車の咆哮。
ライトが一枚ずつ切り出された静止画のように迫る。
音が遠のく。
「…………?!」
視界の端、ホームの縁に黒い学ランの袖がちらついた。今までそこに、自分がいたはずだ。
「お……」
次の瞬間、光と鉄が全部を持っていく。
『お兄ちゃん。やりきらないと、またみんな死んじゃうよ?』
__白黒に反転した視界に、その言葉が何度も焼き付いた。