本心で求めたもの
4月10日土曜日 7時13分
ワンルームの通路兼キッチンに立つ二人の顔は、実に眠そうだった。
「結局、全然眠れなかったんだが」
「ごめんね。やっぱり俺が下で寝るべきだった」
リーゼは洗面台で、ツバキは台所の水で、顔を洗う水の音が朝の静寂に響いていた。
「だから、居候の私が下で寝るんだと何度言えば」
「まだダンボール多いんだよ? 絶対寝つき悪いって」
「だからこそだと……はぁ。結局、こんな譲り合いで時間を使ったんだろう。……今七時か。四時間しか眠れなかったぞ」
「休みなんだしもっと寝たら?」
「誰が朝飯を作るんだ」
「俺が作るよ」
「朝起きて朝食を作って支度をする。これが私の日常なんだ。ルーティンを優先させてくれ」
タオルで濡れた顔を拭い、ツバキをキッチンから押し除ける。
昨晩に初めて使った狭いキッチンを、すでに慣れたような迷いのない動きで朝食の準備に取り掛かる。
「このベッドに二人はしんどいよなぁ。布団敷けるスペースは空けるかぁ」
ツバキは壁の隅に張り付いたシングルベッドを横目に、未開封のダンボールを一つ開封した。
まだダンボールの多いこの部屋は、快適からは程遠い。
ツバキ一人だけの空間でなく、リーゼも加わったなら尚更であった。
目まぐるしい昨日を得た二人にとって、この土曜日は驚くほど静かに始まった。
午前の間に、互いの日常用品の仕分けをしつつ、風呂や家事、細々と決め事をしようとした。
昨晩のベッドの上下を決めるのにすら、多大な時間を要した二人。またもや奇妙な譲り合いに発展してしまい、ある結論に達する。
「じゃあもう、好きにやろうよ」
「……そうだな。どのみち互いの気持ちはわかってしまうんだ」
「てことで、ちょっと買い物に行ってくる。リーゼも来る?」
「監視対象が動くなら、私もそうせざるを得ないだろう」
たったワンルームの狭い空間。少ない口数で驚くほどスムーズに支度をして家を出た。
同日 14時24分
休日でごった返す人の波の中、二人は並んで歩いていた。
都会の空気に慣れ、まっすぐ進むリーゼと、初めての土地を前に、興味津々に辺りを大きく見回しながら歩くツバキ。
街を知り、新生活のために必要なものを買う目的でやってきた。
「ほんと人多いね。ショッピングモールとか思い出すなぁ」
「地方のそういうのとは規模が違うんだ。とにかくついてこい」
いつの間にか、リーゼに連れられるようにして百貨店を回っていた。
足りない筆記用具を買い足したり、古着屋やブランドものなど、リーゼに連れられながらアパレルショップを巡ったり、こうして誰かと行動を共にするのは、いつぶりだっただろうか。
「そこ寄っていい?」
そんな感嘆に浸る中、フロアの片隅にあった雑貨屋に意識がそれた。
「ああ、行こう」
文房具やアウトドア商品、DIY工具などなど様々な商品を取り扱う清潔感のある店舗。
ツバキがキョロキョロと探しながら進むのを、リーゼは並んでついていく。そして、目的の品を見つけたようだった。
「そんなものを買ってどうする? 手品でもする気か?」
雑貨店の一角にはお手玉やトランプ、あやとりといった、手品用の雑貨が陳列されていた。
「……うん。昔はよくやってたんだ。もっとかないと」
「ふーん」
それらを買った矢先、通路のガラス手すり寄りかかり、袋に入ったそれらの商品を見つめていた。
「……ツバキ? 何をぼーっとしている」
視線が落ちたツバキの横顔を、リーゼは下から覗いた。
「え? ああ。色々久しぶりで、ちょっと懐かしい気持ちになってた。......そうだ。リーゼは大丈夫? 結構人、多いけど」
魔力感知は二人にとって、何かと不便に働くことの方が多い。
何もしなくとも人の動きや感情が四方八方から突き刺さる。
「今更なにを。ずっと魔力を感じ続けているんだぞ。重力室とかいう快適な部屋にいた貴様と同じにされては困る」
誇らしげに鼻を鳴らすリーゼをよそに、ツバキの視線はお手玉にもリーゼにも向いていなかった。
まるで興味がなさそうなそぶり。ムッとしてツバキの肩を叩いた。
「お、おい、聞いているのか貴様」
「あの子......」
ツバキの視線を辿った先、ここから五十メートルほど離れた通路に、“あの子”はぽつりといた。
背丈は幼児のそれで、人の波の端っこで、壁にもたれて小さくうずくまっていた。
「子供……? 何か、恐怖に近いものを感じるが。……よく気がついたな」
「迷子かも。ちょっとみてくる」
「私も」
ツバキの後を追い、その子の元へ歩み寄る。
「君、大丈夫?」
顔は俯いているが、鼻を啜る動作と音で泣いているのがわかる。
ツバキはゆっくりと屈み、柔らかく声をかけた。
「お母さんとはぐれちゃった?」
「…………うん」
「そっか……お母さんいないと寂しいよな」
ツバキは男児の隣で、同じような体勢でしゃがんだ。
「私が探してくる。……ツバキはこの子のこと、見てやってくれないか」
「うん。大体の特徴は掴めそう?」
「当たり前だ。その子と似た魔力を探せばいい」
リーゼが駆け足気味に、そばにあったエスカレーターを下っていった。
親御さんが見つかるまで、ツバキはなんとかこの子を励ましてあげたいと、先ほど買った袋の中を覗く。
「よし。あやとりって、知ってる?」
そこから見せびらかすように取り出した、三つで一つのセットになったあやとり。
包装を開けて赤い紐を取り出すと、彼の前であぐらをかいて、慣れた手つきで両手に絡めた。
「その様子を、男児は涙で濡らしたままだあったが、その目はツバキの手元の方へ向いていた。
「見てて。こうしてこうして……はい!」
指と腕を素早く動かし、たったひとつの赤い輪っかが、たちまち形を変えていく。
「ほうきー。かーらーの、飛行機!」
男児の反応を見ながらやってみるが、受けがなんとも微妙だった。あやとりよりは、もっと派手に動くもののほうが好きなのかもしれない。
「はい! 東京タワー……ぁこれはわかんないよな。じゃあそうだな……お手玉とか好き?」
今度はお手玉を3つ取り出して、右手にひとつ、左手にふたつ持って、軽くジャグリングを披露する。
「おわっ」
しかし、ひとつ目から頭の中にあった軌道からは大きく逸れ、玉がひとつ、大きく弧を描いて通路側へ飛んでいってしまった。
「すみません!」
軽く頭を下げながら、人混みへ飛んだ玉を回収して戻ってくる。
今度こそはと構えたところ、その子の口角はいつの間にか緩んでいた。
「お兄ちゃん本当にできるの?」
派手に飛んでいった玉が面白かったのか、失敗を煽るように笑っていた。
その様子を見て、ツバキも自然と笑みが浮かんでいた。
「次は失敗しないよ。見ててね」
今度は力を加減し、三つの玉が同じ軌道で動いた。
空中で交差した玉の軌跡が、綺麗な八の字のを描いていた。
「すごい!」
「でしょ?」
喜びにはしゃぐ男児の顔をちらちらと確認しながら、背後からこちらに向かってくる気配に気がついた。
「お母さん来たんじゃない?」
「え? ……ほんとだ!」
リーゼと共に、夫婦らしき二人がエスカレーターで上がってきた。男児を見つけては、安堵した様子で駆け寄ってきた。
「トモキ! ごめんねはぐれちゃって!」
「怖くなかったか?」
「うん! 平気だったよ」
一件落着したのを確認し、ツバキもほっと一息。
黙って立ち去ろうとした。その時だった。
「お兄ちゃんがね、お手玉すごくうまいんだよ!」
「面倒見てもらってすみません! ありがとうございました!」
背中に浴びせられた感謝の言葉に、ツバキの肩が跳ねる。
「いえいえ全然全然。なーんもしてなんで」
にこやかに軽く後ろを振り返って、へこへこと会釈しながらその場を後にする。
「あ、そうだ」
ふと思いついて、身を翻してトモキと呼ばれた子に右手に持っていたお手玉三つを渡した。
「あげる」
「ほんと!」
「それじゃあ」
それだけやって、手を振りながらリーゼのいるところに戻った。
もらったお手玉で自分の真似をしようとするトモキを見送る。その時は全身の力が程よく抜けていた気がした。
「……行くぞツバキ」
リーゼは、戻ってきたツバキと目的もなくまっすぐと歩きだした。
黙って隣を歩く清々しい顔を直視できず、勝手に自分だけが気まずくなっていく。
「さっきはありがとうね。お母さんすぐに見つかってよかったよ」
「……あぁ。そうだな」
ツバキもあの子の面倒を見てくれてありがとう。
そんな単純な言葉の一つが出てこない。
出そうとすればするほど、喉でつっかえて嗚咽に変わってしまう。
「ツバキ。勘違いされては困るから改めて言うぞ」
「うん」
「貴様は敵だ。私が好き勝手にできる敵でなければならない」
わざわざ前置きまでしたのに、ボソボソと小さな声でしか出なかった。
変わらず前だけを見ているが、意識だけはずっと隣に向けていた。魔力の巡りが気になって仕方がなかった。
「いいと思うよ。それで」
「え」
平坦に答えた声が何故かとても恐ろしく感じて、間抜けな声が出た。
緊張で全身が力んでしまう。
「どっちの俺も俺だから。やりやすい方できてよ」
「……ほんと、ふざけたことばかり言う」
別に言い争っていたわけでもないのに、一方的に負けた気分になって恥ずかしさが込み上げてくる。
「買うもの買ったし、そろそろ帰ろっ__」
「ちょっと待った」
「ん?」
ここでようやくツバキの顔を直視した。
この恥と呼べる顔の熱さを吹き飛ばすべく、ツバキをなんとか打ち負かしたい。
「ゲームセンターに寄るぞ。私の得意なゲームがある」
「お、いいじゃん。見せてよ」
その一心でツバキの手を掴んでビルの上階へ上がった。
「おー。はっや。それどうやってんの?」
「黙って手を動かさんか!」
リズムに合わせて、レーンを流れるノーツを叩き、なぞり、弾き飛ばす。
二人はいわゆる音ゲー__音楽に合わせて両手を動かすアーケードゲームで遊んでいた。
「貴様でもプレイできる難易度で難しいのとなると……」
意気揚々と最高難易度を選ぼうとしたリーゼだったが、ゲストプレイのツバキではそれがまだ解放されていない。
仕方なく難易度をひとつ落としつつも、制限時間のギリギリまで難しい曲を選んでいた。
「なるほどそこ手ぇ浮かすんだ」
「反射神経だけでついて来るか……」
曲の中盤。ツバキはリーゼの動きを追いながら恐るべき反射神経でコンボを繋げていた。
いきなりの挑戦である。開始数秒はミスを連発していたがだんだんと波に乗ってきていた。
「だがしかし!」
とある二つの長押しノーツに手を置いた二人。
やってきたそれに対し、ツバキは両手、リーゼは右の二本指を置いた。
「かかった! その長押し、両手で置いたが最後だ!」
画面の奥へと伸びるノーツは二つとも合流して右へと逸れ、左方向からさらなるノーツが連続で流れて来る。
両手を塞いだ音ゲー初心者には対応できない初見殺し。
それをツバキは__
「おっ?! わっ?!」
「ん?!」
ツバキのコンボの数字ははっきりとは見えないが、あの初見殺しを超えてなお3桁をキープしている。
まさか対応したのかと、驚嘆しながらも自分の画面に集中した。
「まさか初見でここまでやるとはな……」
目の前のパーフェクトの文字に目もくれず、ツバキのスコアに目を奪われていた。
「全然。その場その場で動くのに大変だったよ。あ、リーゼのそれって全部できたってこと? すごいじゃん!」
ツバキがこちらの画面を覗き込んで感嘆の声を上げた。
「い、いや、別にまだ上の難易度あるし。こんなの朝飯前だし。……それより、さっきの両手が塞がった時はどうしたんだ」
「あ……どうだったんだろ。画面が切り替わる瞬間にパパッとやっただけだから、力技も力技だったよ」
「意味がわからん」
普段褒められ慣れていないのが、ここでも響いて来る。
ツバキのトンデモプレイを後に冷静になってみると、ゲームで負かそうとした意地そのものが、とてつもなくカッコ悪く感じてしまった。
ただ、誰かと同じことを共有できたあの瞬間が、楽しいと思えたのだった。
「いや〜楽しかった」
「そうか」
買い物袋を両手に抱えた帰り道。
「うん。ちゃんと遊ぶの久しぶりだったから。いいんだなって」
「いい……?」
何がいいのか、リーゼには分からなかった。
聞いてみようとしたが、ツバキの底に眠る黒い塊には、本能的に触れることができなかった。
「今日はありがとうね。よかったらまた行こう?」
「え?」
今日の外出は、ずっと妙な感覚に飲まれていた。
人と行動を共にするというのは、ここまで心が上下するものなのだろうか。
「……それは、いいんだが」
特段悪い気持ちではなかった。
しかし、根本的にあるはずの安堵からは、見て見ぬふりをするのであった。