強さの理由
「な、なんだここは。こんな静かな空間が存在するのか……」
どこを見ても真っ白な、この世とは思えぬ光景に、リーゼは唖然と周囲を見渡していた。
「しかし、上下の感覚がまるで掴めん……」
「重力室。トルモさんが作ったんだって。学校に通うまでは、ずっとこの中で修行してたんだ」
恐る恐る足を踏み出すリーゼの先で、ツバキは慣れた様子で準備運動をする。その流れで軽々と跳躍する様は、既に常人にできる動きではない。
リーゼは危険な修行とやらを観察すべく、真っ白な床に座り込んだ。
「っし」
見つめ返された瞬間、リーゼは息をのんだ。そこにあったのは、子供じみた無邪気さではない。
「リーゼは加重力ゼロになってるね。それじゃあ始めるよ。重力百倍!」
白く染まった天井へ向けて放たれたツバキの声が、部屋を満たす魔力を震わせた。
『ピコン』
何かが作動するような音。直後、床がわずかに軋み、低く唸るような振動が空間を満たす。地震の前触れのような低周波が鼓膜を打ち、重たい音だけが体の奥に残った。
やがて音が消えると、部屋には静寂が戻る__かに見えた。
だがツバキの姿は、先ほどまでとは違っていた。
軽やかだったその身体は、まるで鉛を背負ったように地に根を張っていた。
「……ふぅ。リーゼは感じないと思うけど、今、俺の身体は百倍の重力がかかってすんごい重い状態なんだ」
「そ、そうなのか?」
確かに先ほどツバキは随分と重たそうに立っていた。
しかし今は、冗談めかして話すその顔に苦しさの欠片も見えない。
「確かに、心的な負担はあるように思うが……」
「これで、こう!」
ツバキがリーゼから距離をとった瞬間。
次の瞬間には__十に分裂した。
「……は? うぉ?!」
瞬きする間もなく、視界が埋め尽くされる。
残像の嵐が吹き荒れ、轟音と共に巻き起こる風が肌を打つ。
「どうなっている! 一体どんな魔法を使った!」
思わず顔を覆ったリーゼの視線の先で、十人のツバキはついたり消えたりしていた。
しばらくして再び一人へと戻ると額には玉の汗。肩は上下し、息は明らかに荒くなっている。
「うーんまだまだだな……。風がつんよいったらありゃしない」
「い、今のは」
「反復横跳びの超広いバージョンかな。いきなり風強くてごめんね」
「反復横跳び……」
その言葉が、まるで別の言語のように感じられた。壁の外で見せた通り、ツバキの動きはもはや人の域を超えている。
百倍重力でこの速度だ。ニコレスと手合わせをした際に見た、瞬間的な移動にも合点がいった。
「この技、風が一切吹かずに分身だけ残ったら成功なんだけど、この重力下じゃまだきついな」
さらりと語られるその言葉に、リーゼの背筋がじわりと冷たくなる。
彼は一体、何を目指しているのか。
常識外れなぼやきをするツバキだが、どこから取り出したのか、右手にはペットボトル飲料が握られていた。その蓋を開けて、一口飲んだ。
「よーし。次は何しよっかなあ」
すると途切れ途切れだった呼吸が、すでに元に戻っていた。
「おい、さっきの疲れはどうした」
「これ。一滴飲めば全回復だよ」
思わず目を疑った。それはどう見ても、ただのペットボトル飲料だ。ラベルはないが、その形状はどこにでも売っているようなものである。
「ほ、本当に言っているのか? 原材料と製造方法は」
「さぁ……。超賢水っていうんだけど、トルモさんが作ってるってこと以外は、何も知らないなあ」
「トルモ様が?」
「うん」
歴史に残る賢者、トルモが作る回復効果のある代物。ふと、リーゼの中に浮かんだものがあった。
「昔でいうポーションみたいなものなのか?」
「ポーション? 何それ」
「確か、素材を魔法で合わせて錬成する薬だったはずだ。今じゃ技術ごと消えかけてるが……」
「へぇーそうなんだ。これもそういうもんなのかな」
会話の余韻を残すこともなく、ツバキは再び地を蹴った。
「……すぅ」
低く構えた姿勢から、弾かれたように走り出す。跳躍、バク宙、猛ダッシュ。もはや訓練というより、猛獣の跳ね回る姿を見ているようだった。
「これは……龍も倒してしまうわけだ」
視線が追いつかない。彼の姿はついに“粒”のようにしか見えなくなり、そして、声が漏れる。
「あ」
空中で彼の身体が傾いた。
鈍い音が響く。重たい何かが落ちた音だった。
嫌な予感が胸を刺す。思わず駆け寄ったリーゼの目に飛び込んできたのは__
「血? お……おい! しっかりしろ!」
真っ白な床に、鮮やかすぎる赤が広がっていた。
ツバキは倒れている。左腕が、妙な角度で折れ曲がっていた。
「ぅは、はは……やっちゃった」
無理に笑っている。だがその声は震えていた。
頭から落ちそうになったのを左腕で庇い、そのまま潰してしまったらしい。
砕けた腕の中から滲む血が、じわりと床を染めていく。
「ごめん……うっ、グロくならないようにはしてたんだけど……」
「いいから! トルモ様を読んでくるから待ってろ」
息は荒くなり、痙攣した全身から吹き出す汗が、ただ事でないことを告げていた。
咄嗟に走り出そうとするリーゼの背中を、ツバキは呼び止めた。
「いや……大丈夫」
「は?」
「超賢水があるから」
ツバキは右ポケットに手を入れる。そして、先ほどと同じボトルを取り出した。
片手で、慣れた手つきで蓋を開け、こぼしながらもなんとか口に含む。
「まさか……」
飲んだ直後。
潰れていたはずの腕が、音もなく“戻った”。
意識の濁りも消え、彼はまるで昼寝から起きたかのように立ち上がる。
「よいしょっと」
その間、地面に染みた血はそのままだった。
「……なんだそれは。こんなの、あっていいのか」
すでにツバキは背筋を伸ばして、また訓練を続けるつもりでいた。
「よっし。続きを__」
「待て待て待て!」
思わずリーゼは声を張った。
「貴様はいつもこんな修行をしているのか」
「そうだよ。これ一本で十七年やってます」
「ピン芸人か! いやだから、十七年って貴様、私と同世代だろう?! 赤ちゃんの頃から続けているのか?!」
「そう」
あまりにも平然と答えたその一言が、逆に背筋を冷やした。
「な……………。ちょっと、学校は? 通えていたのか?!」
「ここじゃ義務教育も受けてないよ。魔法学校の校長先生がトルモさんと知り合いだったから、特別に試験をやらせてくれて入れてもらったんだ。それまではずっと修行してた」
「は、はぁ? はぁ……」
理解が追いつかない。というより、心が拒否していた。この男は普通じゃない。何もかもが常識の外にいる。
それでも__だからこそ、その強さの理由をもっと知りたいと思ってしまった。
「なあ」
血まみれの修行。自分の体を壊してでも続ける気力。そこに強い意志を見たからこそ、あの日の彼の動機を知りたかった。
「……そこまでして、なぜ強くなろうとする。今の所、世界をどうかしてやろうという気でもないのだろう。こんなに血まみれになって、痛いだけじゃないか」
服に付着した痛々しい血を見て、リーゼは震えた。
「昔にも聞かれたっけな。……求められてる気がするんだ。最後までやりきれって」
「………誰に?」
「自分自身。誰かの笑顔を守れるやつになれって」
彼の口から出た言葉、その目標は、死と隣り合わせの激しい修行と比べれば、規模感は小さく思えた。
「誰かの、笑顔……」
「そう」
ツバキはそう言って、リーゼの目を見つめていた。
ただ黙って過ぎ去る白い静寂。リーゼは胸のざわめきに耐えられなくなり、目を僅かに逸らした。
思い当たる節は、少し前にあった。
ほんのひとときでありながら、暖かさを覚えていたのだ。
「臭いことを言う。……でも、まぁ」
「ん?」
言葉を濁したリーゼが、再びツバキに目を合わせた。何も考えてなさそうな、能天気な顔に、リーゼは小さく微笑んだ。
「あいや……なんでもない」
やはり耐えきれなくなって、また目を逸らした。
「まあ、ともかくだ。私は貴様を監視し、世界が消えるのを防ぐ。だから、変なことはするんじゃないぞ」
「うん。俺もそうならないように、頑張るよ」
静かに伸びをするツバキ。そのままゆっくりと大の字になって寝転がった。
ちょうどその地面は、さきほどツバキが怪我をした場所だった。血溜まりが残っているかとぞっとしたが、その真紅はすでに真っ白な床に戻っていた。
「血がなくなってる……」
「便利でしょ。地面が吸っちゃうんだ。ちょっと早いけど、今日はこんなもんにしとくかな。掃除も進めないとだし。重力一倍」
ツバキの言葉と同時に再び空間が揺れ、また何事もなかったように静かになる。
小さく息を吐き、白い空をぼーっと眺めていた。
「ここ、いいでしょ。静かで。周りの魔力も感じないし、真っ白だし」
「…………そうだな。ずっと居たくなるほど、落ち着ける。まだ居るのか」
リーゼの一言に、ツバキはぐっと体を起こす。
「いや、帰るよ。ここに居すぎたら、また外の感覚に慣れなきゃいけなくなるから」
「それもそうだな」
そう言って立ち上がると、百倍重力から解放された体をぐっと伸ばし、バキバキと鳴らしながら出入り口の扉に向かう。
「あの、改めてなんだが、その」
部屋の扉を前に、リーゼが立ち止まり、ツバキは振り返った。
リーゼは唇をきゅっと結んだまま、床と天井をちらちら往復させる。
“監視だ”と息巻いた舌で、いまさら共に暮らす挨拶をするのかと思うと、頬が熱く、胸の奥が妙にむず痒い。
逃げ場のない真っ白な部屋で、視線だけが落ち着かずに泳いだあと、意を決してツバキの瞳に吸い寄せられる。
「今日から、よろしくたのむ」
「うん。こちらこそよろしくね」
アパートに戻る二人。リーゼはこの時は気が付かずにスルーしたが、ツバキがいつの間にか持参していた超賢水は、重力室に入ると同時にツバキの手やポケットに転送された。
部屋を出る際に、ポケットにしまっていたそれは勝手に消えているのだった。