世界を変える一撃
カレストロは約三十メートルの巨大な壁に覆われた都市であるが、これは他の地域も例外ではない。
というか、全世界の人類の生活圏は、基本的に壁で周囲を固めることで、魔獣の侵入を防ぎ安全を確保しているのが現状である。
その外側、人類が住んでいない地域では、ほとんど人の手がつけられていない、自然の風景が美しく広がっていた。
この上空で、龍の鉤爪がぱたりと開き、二人は空へ投げ出された。
みるみる膨らむ地面を前にして、ツバキはリーゼを抱えたまま着地案を巡らせる。
だが胸元で震える彼女が、かすれた声をひねり出した。
「くぅっ! “飛方至大”!」
白い魔法陣がリーゼを貫き、光の羽根が背に咲く。
翼が視界をふさぎ、ツバキは思わず目を見開いた。
「飛べるの?!」
「ああ! だから貴様は手を離せ! 上手く飛べない!」
「うん!」
理解は一瞬。
ツバキは腰をつかみ、真上へ軽く放り上げた。
落下速度をそいだ彼女は羽ばたき、空中で姿勢を整える。
ツバキ自身は、そのまま草原へ一直線。
数十メートルの衝突音が轟くも、膝を曲げた彼は土を払って立ち上がった。
隣ではリーゼが無事に着地し、驚愕の瞳でこちらを見ていた。
「貴様……あの高さから落ちて平気なのか?!」
「けっこう鍛えたから。リーゼは大丈夫?」
振り向き様にかけられた心配の声。その言葉にリーゼは、意外な様子で固まった。
「え、私は__」
返事を、途中で飲み込む。頭上を旋回する龍の羽ばたきが突風となり、草原を押し潰した。
「あ……き、来た」
恐怖に震えた翼は光の粒となって霧散し、リーゼは再び膝から崩れた。
「グオオオオオオ!!!」
高らかに響く咆哮。龍の胸元に四色の魔法陣が咲き、白銀のオーラが刃と化す。空気が焼ける匂いがした。
迫る巨体を前に、リーゼは俯いたまま動けない。
そんな彼女の前に、ツバキは一歩前に出た。リーゼを自分の影で包み込むように、両拳を構えた。
「任せて」
ツバキは両腕を突き出した。狙いは、大空すら震わす銀白の弾丸。
雲一つない平原に、白と黒が正面衝突した。
ドゴオオォンッ!!!
「……ガァッ?!」
「くううう……」
低空で放たれた閃光の突進。だが龍の巨大な頭部は、ツバキの掌で鈍く制動した。
受け止めるどころか、ツバキは逆に押し返していく。砂塵が渦を巻く。龍の爪先が地面を削る。その質量ごと、彼は無言で一歩ずつ前進した。
背後でリーゼは声も失う。人間が龍を押している__その非常識だけが視界を満たし、思考が追いつかなかった。
「な……なんてヤツだ」
息を呑むリーゼ。その数メートル先で、ツバキは地を踏みしめ、両腕にぐっと力を込めた。
肩から背にせり上がる筋肉が、束ねた鋼線のように盛り上がる。
砂が奔り、龍の前脚が土をえぐるたび足元が重く震えた。
それでもツバキは腰を落としたまま重心をぶらさず、一歩__さらに一歩と押し出す。
「だぁっ!」
咆哮めいた短い気合いとともに、体重ごと両掌を突き出す。
龍の巨体が弾かれ、巻き上がった突風が草原を倒し、白銀の翼が空を切り裂く。
半回転した龍は、土煙を噴き上げて着地した。
「……なんでお前が」
龍は唸り声とともに巨体を引きずった。
爪が大地を削り、尻尾が草原を打つたび震動が走る。
「なんでお前がこんな力を……! 一体何をした!」
龍の身のまま、少年__フェクターの声でツバキに叫んだ。
ずっとわけのわからない事ばかりを言われ、命を狙われ、理不尽の連続。
ここまで静かだったツバキも、流石に怒りが隠せない。
「鍛えたんです! 十七年!」
「鍛えた……だと? こんな力で何をする気だ! まさか誰かをぶっ飛ばそうって気じゃないだろうな!」
フェクターの声は強くも震えていた。
ツバキの背後で、リーゼも息を呑んで彼の背を見上げていた。
「誰かの悲しむ姿が見たくない! それだけです!」
ツバキは口角泡を飛ばす勢いで声を張った。
怒りか、はたまた悲しみか。彼の切羽詰まったその表情の下で、震えるものが確かにあった。
「悲しませたくない……だと?」
唸る龍の目がツバキを見定めるように、眼を細く、静かに見つめていた。
__彼の腕が小刻みに揺れる。それを見た瞬間、
「ちっ……」
フェクターは雲を裂く勢いで天へ飛び上がる。
紡錘形の乱気流が白銀の鱗を巻き上げ、空気はきしむような唸り声を上げた。
高度を確保した龍の周囲に、次々と魔法陣が咲く。
緋・蒼・黄金・碧__四色の魔法陣が龍のまわりを公転する。
稲妻めいた魔力が環の外周を走り、空気だけでなく大地までも圧し潰すように振動した。
「なら、今ここで! その力も覚悟も証明しろ!」
神々しい光が輝きを放ち二人に狙いを定めていた。空は瞬く間に暗雲に覆われ、異常な圧力が生まれる。
「やれるのか」
赤黒い顔の残像が脳裏を横切る。染みついた感触が拳をじわりと震わせる。
それでも『やりきれ』と、頭蓋の内側を小槌で叩く音がした。
瞬きも忘れた眼の端に影が落ちた。
見上げれば、白銀の巨体が陽光を遮っていた。四つの輪が重なり、光が収束してゆく。
空は低く唸り青を暗雲で染め上げる。気圧が肌を押しつぶすようだ。
「あぁ……」
ツバキの背後で小さな嗚咽がこぼれた。
制服の袖口を握りしめたリーゼが膝をついている。銀のツインテールが、土に触れそうに垂れ下がっていた。
「ふぅ」
ツバキは二秒だけ目を閉じ、細く息を吐く。浮きかけた足裏に重さが戻る。
誰かの絶望した顔は、もう見たくなかった。
この恐怖が暴力への恐怖を上回る。すると拳の震えが引いていくのを感じた。
__ならば、やる。
「あいつ、殴ったら止まるかな」
「やめろ……勝てるわけがない!」
少女の声が背中越しに届いた。
それでもこの重圧が曇天を裂く中、視線は落とさない。
「大丈夫。俺が、なんとか食い止める」
荒れ狂う天地の中で、自分でもわからないくらい静かに言い切った。
「本気なのか? あんな大きな龍を、お前が?」
少女の声が裏返る。
ツバキは小さく頷いた。
「本気だよ。今やらないと、君を助けられない」
「っ?!」
背筋が伸びたまま振り返らない。
ただ、拳を強く握り直す。
「助けるって……お、お前は__」
「大丈夫」
少女の言葉を遮りツバキは地を蹴った。
その刹那、大気が爆ぜる。身体は一直線に天へ弾け龍の巨体が下へ流れる。
力の使い方は、学んできた。
「すぅ……」
あとは、使うだけ。
龍の胴体が下になる。
人間と龍の視線が交わる。
見上げていた位置は、もう眼の下だ。
「グオォォォォォッ!!!」
四色の魔法陣が唸り、虹色の光束が束ねられて放たれる。
空を裂く光がツバキを呑み込もうと走った。
「くっ!?」
一人を丸ごと覆う幅。熱と眩しさが頬を焼く。
宙で身をすぼめ、左足を伸ばす。一回転。
「だあっ!」
次の瞬間、伸びた足が光を踏み抜いた。
V字に分断される光束。
空気が悲鳴をあげながらツバキの落下速度はさらに増していく。
「うおおおお!!!」
拳を巨龍の額へ、ただ守るためだけの力で。
迷いも恐怖も、今だけは置き去りに、
そして__
ドゴォォンッ!
嫌な感触と共に、衝撃波が大気を震わせた。
その余波は大地に巨大なクレーターを穿った。
白翼の巨体は瞬時に力が抜け落ち、回転しながら抉れた地の窪みへ堕ちていく。
「……っ?!」
砕け散った龍の鱗はツバキの頬をかすめ、その顔はしばし呆然と窪んた地表を見下ろしていた。
静寂。上昇気流に体を揺らせながら息を整える。
視線は空を捉えているのに、焦点は合っていない。殴った拳は、ひどく痺れていた。
数百メートルの高さから軽々と着地すると、痛がる様子もなく少女のもとへ駆け寄る。
「ほら。大丈夫だっただろ?」
親指を立てる。少女の肩から、音だけが消えたように力が抜けた。
ただ呆然と自分の顔を見て一言、かすれた声で呟く。
「お前……本当に、“ツバキ”なのか」
迷う瞳。別人を重ねるような視線。
「そう、だよ? ツバキ」
ツバキは柔らかく微笑み、リーゼに手を伸ばした。
雲が晴れ、快晴の空から放たれる光が彼の笑顔を照らす。
リーゼは自然と彼に伸びていたその手を、すんでで止めた。
「いや……いい。一人で立てる」
スカートについた汚れをはたきながら立ち上がる。
「……私は、未来からやってきた__」
「フェクターさん見てくる!」
「えっ?」
自己紹介をしようとした矢先、すでにツバキは背を見せて走り去ってしまっていた。
「おーい!」
背後からかけた声は虚しく草原の風と共に散っていった。