プロローグ
もう二度と殴りたくはなかった__それでもツバキは、拳を強く握りしめた。
陽は真上、草は風で倒れ、鉄臭い土が喉を刺す。
自分と背後の一人も含め、ここでは人の吐息さえ異物だ。
天から吹き付ける風の中、黒い髪がはためき拳は握り潰すように力んでいた。
「やれるのか」
赤黒い顔の残像が脳裏を横切る。染みついた感触が拳をじわりと震わせる。
それでも『やりきれ』と、頭蓋の内側を小槌で叩く音がした。
瞬きも忘れた眼の端に影が落ちた。
見上げれば、白銀の巨体が陽光を遮っていた。四つの輪が重なり、光が収束してゆく。
空は低く唸り青を暗雲で染め上げる。気圧が肌を押しつぶすようだ。
「あぁ……」
ツバキの背後で小さな嗚咽がこぼれた。
制服の袖口を握りしめた少女が膝をついている。銀のツインテールが、土に触れそうに垂れ下がっていた。
「ふぅ」
ツバキは二秒だけ目を閉じ、細く息を吐く。浮きかけた足裏に重さが戻る。
誰かの絶望した顔は、もう見たくなかった。
この恐怖が暴力への恐怖を上回る。すると拳の震えが引いていくのを感じた。
__ならば、やる。
「あいつ、殴ったら止まるかな」
「やめろ……勝てるわけがない!」
少女の声が背中越しに届いた。
それでもこの重圧が曇天を裂く中、視線は落とさない。
「大丈夫。俺が、なんとか食い止める」
荒れ狂う天地の中で、自分でもわからないくらい静かに言い切った。
「本気なのか? あんな大きな龍を、お前が?」
少女の声が裏返る。
ツバキは小さく頷いた。
「本気だよ。今やらないと、君を助けられない」
「っ?!」
背筋が伸びたまま振り返らない。
ただ、拳を強く握り直す。
「助けるって……お、お前は__」
「大丈夫」
少女の言葉を遮りツバキは地を蹴った。
その刹那、大気が爆ぜる。身体は一直線に天へ弾け龍の巨体が下へ流れる。
力の使い方は、十七年間学んできた。
「すぅ……」
あとは、使うだけ。
龍の胴体が下になる。
人間と龍の視線が交わる。
見上げていた位置は、もう眼の下だ。
「グオォォォォォッ!!!」
四色の魔法陣が唸り、虹色の光束が束ねられて放たれる。
空を裂く光がツバキを呑み込もうと走った。
「くっ!?」
一人を丸ごと覆う幅。熱と眩しさが頬を焼く。
宙で身をすぼめ、左足を伸ばす。一回転。
「だあっ!」
次の瞬間、伸びた足が光を踏み抜いた。
V字に分断される光束。
空気が悲鳴をあげながらツバキの落下速度はさらに増していく。
「うおおおお!!!」
拳を巨龍の額へ、ただ守るためだけの力で。
迷いも恐怖も、今だけは置き去りに、
そして__
ドゴォォンッ!
嫌な感触と共に、衝撃波が大気を震わせた。
その余波は大地に巨大なクレーターを穿った。
白翼の巨体は瞬時に力が抜け落ち、回転しながら抉れた地の窪みへ堕ちていく。
「……っ?!」
砕け散った龍の鱗はツバキの頬をかすめ、その顔はしばし呆然と窪んた地表を見下ろしていた。
静寂。上昇気流に体を揺らせながら息を整える。
視線は空を捉えているのに、焦点は合っていない。殴った拳は、ひどく痺れていた。
数百メートルの高さから軽々と着地すると、痛がる様子もなく少女のもとへ駆け寄る。
「ほら。大丈夫だっただろ?」
親指を立てる。少女の肩から、音だけが消えたように力が抜けた。
ただ呆然と自分の顔を見て一言、かすれた声で呟く。
「お前……本当に、“ツバキ”なのか」
迷う瞳。別人を重ねるような視線。
「そう、だよ? ツバキ」
戦いは終わったと、拳が緩んだ。
指の間がべたつく。吐き気が、また一度。
それでも骨の内側で、声が何度も反響する。
『やりきれ』と。
こういう超パワーでの戦闘が書きたい。
その気持ちがこの作品を生みました。
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