悪魔のトリル
武頼庵様主催『この作品どう?企画』参加作品です。
──あ、これは夢の中だな。
はっきりわかった。何だか薄暗い空間で、腰を抜かして怯えたように後ずさりしている外人のオッサンの格好は、どう見ても現実のものじゃない。
ほら、アレだ。あの格好は、音楽の教科書とかで見た大昔の作曲家だ。
両サイドがカールしたようなヘンな髪型で、よく友だちと『めっちゃ不自然、ヅラかよ!』とか笑ってたけど、あれってマジでヅラだったらしいのな。
で、そのヅラのオッサンは、オレの方を指差してわなわな震えながら何かつぶやいてるけど、何語なのか何を言ってるのかもさっぱりわからん。
『ディアーブロ……』って、たしか『悪魔』って意味だっけ?
オレのこと、悪魔だとでも思ってんのかな。
──まあ、仕方ないか。なぜか夢の中のオレは、昔バンドをやっていた頃の格好をしているのだ。
真っ赤に染めた髪をツンツンにおっ立て、黒くテカテカ光る革ジャンには意味もなく鋲が打たれて鎖が絡まってたりしてる。おまけに悪魔みたいなグロいメイクだ。
鏡がなくても自分の外見がわかるあたり、やっぱりこれは夢なんだと思うんだけど──それにしても、よくもまあ、こんなイカレたカッコしてたなぁオレ。こんなの嫁や娘に見られたらマジで死ねるわ。
『若気の至り』全開な姿を見せられて、俺が恥ずかしさに悶絶していると、オッサンがおずおずと何かを言ってきた。身振りから何となく、オレが抱えているギターを弾いてほしがっているのはわかる。
まあ、それはかまわないんだけど、長いこと弾いてなかったから指が動くかな。
とりあえず、スローなバラードっぽいフレーズを弾いてみる。ビブラートを多用して、テクがないのをごまかす『必殺・なんちゃって【泣きのギター】』だ。
──おお、ウケた。オッサン、大喜びだ。
え、何、もっと聴かせろってか。
ま、テキトーに軽く弾いているうちにカンも戻るだろ。あんまり過激なのを演っても、大昔の人には刺激が強すぎるだろうしな。
おーい、オッサン、いいかげんにしてくれねーかな。
もう1時間以上も弾きっぱなしだ。ロックのサウンドが斬新に聴こえるのはわかるけどさー。
これ、いつになったら終わるんだ?
オレがうんざりしてるのに、オッサンは全く気づいてくれない。ワクワクしたような顔で、もっともっとと煽るように手振りで催促してくる。──くそ、何だかだんだん腹が立ってきたぞ。
よーし、そっちがその気なら、オレも本気を出してやろうじゃねーか。後悔するなよオッサン。
最初は物憂げなスローバラードから入って、からの──いきなりテンポアップ!
エフェクターも効かせて、ボリューム最大の歪みまくったディストーション・サウンドで速弾きをかましてやる。
ラン奏法、からの──ライトハンド奏法だっ!
これでもかというほどの音圧で、オッサンのド肝を抜いてやるぜっ!
さすがにオッサンも、両手で耳をふさいで『もうやめてくれ!』みたいな悲鳴を上げてるが、誰が許してやるかよ。
ほーれ、これが聴きたかったんだろ? うわははは、遠慮すんなよ、オレの音を存分に味わいやがれっ!
──バツン!
痛ぇっ!
1弦をスクラッチしたはずみで、いきなり弦が切れて、撥ねた弦の切っ先が右手の人差し指を切り裂く。
痛いけど、あの頃はこの程度は日常茶飯事だった。まだ他の弦があれば曲は続けられる──って、待てよ? 痛みを感じるってことは、これって夢じゃないのか?
──オレがふと我に返ると、オッサンの姿があっという間に遠ざかって、闇の中に消えていく。
えーと、これって夢じゃなくて、もしかして『時空を超えて精神がリンクして──』とかいうSFチックなやつ?
そんなことを考えているうちに、オレの意識もまた、闇の中に溶け込んでいこうとしている。
うーん、マズかったかなー。あのオッサンが本当に過去の人だったら、オレが音楽の歴史を変えちゃったことになるんだろうか。
──ま、別にいっか。どうせオレ、クラシックなんてロクに聴かねーし。
多少、音楽の歴史が、変わった、って──どうって、こ、と、は………
……
【解説:悪魔のトリル】
イタリアの作曲家ジュゼッペ・タルティーニ(1692-1770)の曲で、正式名称は『ヴァイオリン・ソナタ ト短調』。
バロック期の曲としては珍しく、執拗なまでにトリル(隣り合った音を高速で行き来させる技法)が多用されているため、現代でも極めて演奏が難しい曲とされる。
この曲には、成立にまつわる伝説が残っている。
タルティーニが夢の中で悪魔と出会い、その悪魔が演奏した耳慣れない曲に魅了され、目覚めた直後に書き取ったものから着想を得たのだという。
そこから、この曲は『悪魔のトリル』の異名で呼ばれるようになったのだ。