第8話「……また来たのね。今回は少し意外」
家に帰ってから、スマホの電源をつけて『夢幻界症候群』について調べてみた。
ネットに転がっている情報は、ほとんど怪が言ったことと変わらない。
ただ、一つだけ。一つだけ新たにわかったことがある。
「『夢の世界』では、本人の性格まで歪められる」らしい。
例えば内気な女の子が、明るくクラスメイトの中心になりたい、という想いから『夢幻界症候群』になったとして、『夢の世界』では内気さのカケラもなく、根っこから明るい、クラスの中心人物と言って差し支えないレベルで変わる。その『夢の世界』の自分の姿が現実世界の自分を犯し、夢と現実の区別がつかなくなっていく……といった感じだ。
そうして考えてみると、僕はあの世界においてこれと言って変わった変化はなかった。
けれど、『夢幻界症候群』ってのは、夢と現実の区別がつかなくなっていく病気らしい。
その情報と現状を照らし合わせると、夢の世界の話をこうして現実に持ち込んでしまっている時点で、もう重症なのかもしれない。
もし、またあの世界に行くことができたのなら、彼女に聞いてみることにしよう。それが一番手っ取り早い。
僕はスマホを閉じ、ベッドの上に寝転ぶ。
もしかしたらまた彼女に会えるんじゃないか、そんな淡い期待を込めて僕は眠りについた。
☆ ☆ ☆
はっと目が覚める。さきほどまで感じていたベッドの柔らかい感触も、ぬくい布団も、ちょうどいい高さの枕もない。
僕は地に足を付き、立っていた。
黒板とチョーク。スピーカーと時計。無数の机と椅子。
外はどんよりとした雲がかっている。初めてきたときと何ら変わらない、僕を不安にさせる空。校庭はかろうじて見えるものの、そこから先にあるはずの建築物は切り取られたようになくなっている。
だというのに、室内は放課後を彷彿とさせる夕暮れの日がかかった明るさがある。
外と室内の明るさの矛盾、ギャップが頭を混乱させてくれる。
夢の世界。現実と勘違いしてしまうほどの現実感。夢であり、現実。
「また、来たのか……来れた、のほうがいいのか?」
僕は室内の圧倒的な違和感に頭を抑えながらつぶやく。
「……また来たのね。今回は少し意外」
ガラガラと音を立てて教室のドアを開け入って来たのは、やはり夢さんだった。
「なあ、この世界は『どっちの』なんだ?」
僕は単刀直入に聞いた。いちいち遠回りして聞くのも面倒だ。
尋ねられた当の本人はと言うと、少し驚いたように目をパチクリとさせる。
「なるほど。少しはこの世界についてわかったのね」
「ああ、『夢幻界症候群』。今まで聞いたことはなかったけど、これはそうなんだろ?」
現状、僕がたどり着ける限界の答え。これ以上は本人に聞くか、『夢幻界症候群』になった当事者に聞いて、僕がそうであるかどうかを聞く以外に方法は浮かばない。
「ええ、そうね……けれど、『私の世界』か『あなたの世界』かは区別がついてないみたいね?」
「だから、きいてるんだろ。なあ。どっちなんだ?」
夢さんはつかつかと僕の前まで歩いてきて、何もかもをわかったような口ぶりで、僕をからかうように「ふふ」と彼女は笑う。
「教えてあげてもいいけれど……ただ教えるだけじゃつまらないわ」
「どうしたら教えてくれるんだ?」
僕の質問に、彼女は「うーん」と顎に手を当て頭上を見上げて考えるような素振りを見せる。
そして何かを思いついたようで、口を開いた。
「そうね……じゃあ、私と恋人ごっこをしてくれる? それで、私が満足したら教えてあげる」
「……はっ?」
彼女の提案に、僕はワンテンポ遅れて返事とも言えないような返事をした。
僕と彼女の間に流れる静寂。僕がぽかんとしていると、提案をした当の本人の顔はみるみるうちに赤くなっていく。
「ね、ねえ。だめ、かしら」
「い、いやそういうわけでは……」
彼女は自信なさげに顔を少しずらして、恥じらうように聞いてくる。僕は答えながら、僕は彼女の顔をじっと見つめる。
流れるような、清楚さを感じさせるきれいな黒髪。きっと丁寧に手入れをしていないとこの綺麗さは得ることができないだろう。
凛としていて、燃えるようなきれいな紅い瞳に、長いまつげ。左目の下の方にわかりやすいほくろがあった。
程よく高い鼻は、鼻筋がまっすぐとして、彼女をより美しく引き立てている。
そしてぷっくりとした桜色の唇は惹きつけられるものがあり、つい見入ってしまう。
「な、なに?」
ツヤハリのあるきれいな頬を赤く染めて不思議そうな顔をする。
正直、夢の中とは言えこんなにも美人な人から「恋人ごっこ」を提案されて、悪い気はしない。
ただ、なにか裏があるようにしか思えてならい。
「その、夢さんみたいな美人できれいな女の子にそんな提案をされて嬉しくないわけじゃないんだけど……裏がありそうで」
「う、裏なんてないわよっ? た、ただのその、あの、えぇと……って、ていうか、今私のこと美人って……! うぅ、うれしい……」
予想していなかった反応に、僕は面食らってしまう。
現実の夢さんとは、明らかに違う。確かに整ったきれいな顔は一緒だけれど、明らかに、違う。
現実の彼女はもっと自信ありげで、僕の発言を自分から肯定してしまうような、強気で、お高く止まった印象さえ与えてしまう、そんな女の子だった。
「ねぇ、じゃあ、裏なんてないってわかったら、してくれるの?」
彼女はまた頬を赤く染めて少し横を向く。
彼女にある違和感が、少し怖い。
「……あら? もしかして、怖い?」
先程まで照れてもじもじしていた彼女が急に、冷静さを取り戻したようだった。
「そう、怖いのね。じゃあ少し目を閉じて……」
僕が黙り込んでいると、彼女は背伸びをして僕の目を右手で覆った。
背伸びを安定させるために左手で掴まれた僕の袖が、彼女の重さを感じる。
「……おもくないわよ」
そういえば、初めてきたときに考えていることが何となく分かるとは言っていたようなきがするけれど……。
そこまで考えてから、ふとあることに気がついた。
さきほどまで感じていた恐怖感が、一瞬にして消え失せていた。
「どう? 大丈夫?」
覆っていた手がどけられ、彼女が少し距離をおいて僕の顔を覗き込むようにして聞いてくる。垂れた黒髪がきれいだと思った。
「あぁ、うん。大丈夫……」
「それで? してくれるの?」
「う、うん。したら教えてくれるんだよね?」
「ええ、もちろん。嘘はつかないわ」
「……わかった。しようか、恋人ごっこ」
少し考えてから、僕は彼女の提案を承諾した。といっても、僕は承諾しない限り僕の知りたいことを知ることができないから、する以外の選択肢はあってないようなものだったけれど。
「と、いってもなにをするんだ? 外はあんなだし……」
僕は言って教室の外に目をやる。そこには相変わらず暗く、どんよりとした雲が泳ぐばかりで、学校内しか恋人らしいことができそうな環境ではない。
「……まあ、今はここだけでいいわ。そうね、何をしましょうか……な、名前呼びから、とか?」
「名前呼び……って言っても、僕は夢さんのこと最初から名前で呼んでるような」
思い返せば僕は初めて会ったときから『夢さん』と呼んでいた気がする。なんとなくでそうよんでいたけれど、僕は普段初めて話す女の子のことを名前では呼ばない。そう考えるとあのときの僕はどうかしていたのかもしれない。
「た、たしかに……なら、さんはいらないわ」
「じゃあ……夢?」
「んっ……!」
僕が試しにそう読んでみると、体を一度びくんと振るわせてギュッと目をつむる。もしかして、自分から呼ばせておいて不快に感じたのだろうか。そうだとしたらかなり傷つく。
「……どうした?」
「どうもしてないっ!」
僕が聞くと夢さんは完全にそっぽを向いてしまう。これでは恋人ごっこどころではない。
「……つ、つなぐ…………くん」
「ん?」
そっぽを向いている夢さんが、ぎりぎり聞き取れるかどうかといった声量で、僕の名前を呼んだ。彼女の場合、『くん』がついていたけれど。
だが、今まで「あなた」だったのがいきなり「つなぐくん」になるんだと考えてみると、なんだか気恥ずかしくなってくる。もしかしたら、夢さんはこんな気持になったからそっぽを向いたんだろうか。
「……かわいいな」
「っへ!?」
そう考えると、なんだかとても可愛らしく見えてきた。
「い、いままた、かわいいって」
「あれ、声に出てた?」
「出てた! 思いっきり、声に出てた! びっくりした!」
今までのどこか大人びて距離のあった彼女からは想像できない返事が返ってきて、驚きは隠せないけれど、さっきみたいに現実の彼女との乖離に恐怖を抱くようなことはなかった。
「そ、そっか。なんかごめん」
「あやまんないで! ……その、うれしかったし」
「そ、そっか?それはよかった……の、かな?」
「ね、ねえつなぐ、くん?」
「なに?」
「て、手を握ってもいい……かしら?」
彼女は顔を右手で覆ってうつむかせながら、左手を差し出してくる。
「いいけど……ちょっと、気になったことがあるんだ」
「なにかしら?」
「もしかしてさ、その、そっち……あんまり大人ぶってないほうが、素だったりする?」
「なぁっ!? そっ、そんなことないしっ。全然全く、そんなことないしっ!?」
彼女はばっと距離をおいて顔を赤くし、頭をブンブンと振る。
「図星のときの反応じゃないですか……」
「……なによっ、わるい!?」
「悪いとは言ってないよ。ただその、無理に取り繕ったりせずに、素の……夢がみたい、かな」
「そう、そう……? わかったわ。気をつけることにするわ」
「うん、そうして」
そう言って僕は差し出された左手を僕の右手で握った。握手みたいな感じで。
「ちがう」
「へっ?」
「こう」
夢さんの指が、僕の指と指の間に入っていく。いわゆる、恋人つなぎ……と、いうやつだろうか。
なんとも言えない幸福感がある。夢さんの手はとても柔らかくて、すべすべしていて気持ちが良かった。それに、僕の手よりも少しだけ小さくて、握っていると、守ってあげたくなるような感じがする。
「……へへ。おっきい」
夢さんが可愛い声を漏らす。彼女の頬はまた赤くなっていて、よく赤くなる子だと思った。
「ねえ、なんで恋人ごっこ?」
僕は繋ぎあった手に少し力入れたり、抜いたりしながら聞く。彼女の手の柔らかさが癖になりそうだ。
「それは……それもまだ、秘密」
彼女はとっても幸せそうな顔で、手をギュッと握り返してくる。
「……これ、すき。にぎにぎするの」
「そ、そっか」
「うん。なんかすっごく仲いい感じ」
「ま、まあ恋人つなぎだからね……」
ニコニコしながら子供みたいに手をにぎにぎしている彼女は、普段からはとても想像できない。
「あっ……」
さっきまでの華のような笑顔が急にがっかりとした暗いものになる。
「どうしたの?」
「そろそろ、明けるみたい。つなぐくん、起きる時間になるよ」
「そこまでわかるんだ……」
「うん、だって私、一応『夢の世界』の人だから。じゃ、またね」
「うん、また」
僕は夢から覚めるその瞬間まで、ずっと手を握っていた。